私は前立腺肥大で、加齢もありトイレが近くなっている。夜中でも何度もトイレに立っていたが、薬を飲んだりして、少しは改善されたようで、酷い時は2,3時間おきに目が覚めてトイレに行っていた。しかし一晩で3,4回が2,3回になり、今では1,2回になっている。ところが薬を変えたせいか、この所回数が増えている気がする。昨夜は途中で3回目覚めてしまった。いずれも夢を見ていたのだが、思い返してみると皆人生での恥ずかしい話だったような気がする。

 最後は3時間半ぐらいたっていたので、お漏らしの夢であった。ベッドから起きて、リヴィングを通り、廊下に出て、トイレに駆け込む。気を許すわけではないが、廊下に出たあたりから怪しくなってくる。便所掃除してくれる人もいないので、今では座って小便もするのであるが、トイレに入ってパンツをおろしている最中にちょろっと漏れてしまうことが多くなった。

 その時夢を振り返ると過去のお漏らしの場面だったようである。夢だから曖昧ではっきりしていないが、思い返すと過去のお漏らし場面だったような気がする。嫌な夢だと思い、その前の夢を思い出そうとすると、ソフトテニスの試合で負けた場面であった。それも顧問として試合を観戦していたわけではなく、自分自身が高校3年生の時、小さな試合に出た時のものであった。10月だったか、11月だったか、もう忘れてしまったが、秋の大会であった。3年生が出場できる試合が減っていた。前年まで3年生が出場できた大会がいきなり3年生は出場不可になったりしていた。2年生の部員がいなくなってしまって1年生だけになってしまったことも手伝って、3年生の私と友人は夏以降もテニスコートに出て時々練習相手になっていた。先輩も出てベスト8に残った大会を私たちも出ようと話し合ってたが、それが3年生不可になってしまった。釈然としない私たちは、その後の大会に出ようということにした。受験勉強を頑張らないといけない時期だったが、優先順位は低かった。ペアの友人は大学受験するかどうかわからないと言っていた。私は高校に行ったのは大学受験の為だったので、当然受験することは決めていた。しかしそれまで受験勉強などしたことがなかったので、どの程度やらないといけないかもわからなかった。他人に聞くのも嫌いな性分だったので、模索中だったのでソフトテニスの練習に誘われると二つ返事で練習に出かけていた。まあ自信過剰もいい所である。今だったら過去問などを調べて、傾向と対策に力を入れただろうが、何もわかっていなかった。今思うと滑稽だが、夏から始めると間に合うと思っていたのである。半年もあれば十分だと考えていたのである。時間の長さがわかっていなかったのである。

 そんな合間を縫っての練習だから大したことは出来なかったが、ある程度の自信は有ったのである。組み合わせを見ると、準決勝でM工業のN君と当たることになっていた。勝てば優勝もあり得るかなと思っていた。ところが以外にもN高の1年生に敗れてしまった。油断大敵だったのか、緊張しすぎていたのか、単に実力不足だったのか、よくわからないが、今ではその全部に該当したのだろうと思っている。練習試合ならば10回やって1回負けるかどうかの相手だったと思うが、一応公式戦ではないが大会だったので負けてしまった。試合の途中まで笑ったりしていたが、2ゲーム取られて、気合を入れたつもりだったが0ー3で敗れてしまった。初戦だったので5ゲームであった。私たちの最後の試合だからと友人たちも応援に駆けつけてくれていたが、あっさり負けてしまったのだ。負けた直後はそんなに悔しくはなかった。「こんなこともあるよね」と言う感じであった。制服に着替えて帰り支度をしていたら、M工業のN君がやってきて「先輩たち帰るんですか」というようなことを言ってきた。N君は私たちのK高校の近くの中学校の出身で、中学時代も高校になってからも練習試合にやってきていた。当時2年生だったが、公式戦前にも一度来ていた。うちのレギュラーとは大体五分の成績であった。だからトーナメント表を見て、準決勝で当たると思っていたようである。後でペアの友人とも話したが、あの時が一番悔しかったねと言い合ったものである。恥ずかしくもあり、悔しくもあった一日だった。ソフトテニスでは試合ではあまりいい思い出がないな。悔しくて恥ずかしい思い出ばかりである。後にソフトテニス部の顧問を何年も続けたのは、この頃の事があったからなのかなと思っている。

 ソフトテニスの前後に見た夢も思い出したが、ここでは触れない。大学受験の事に触れようかと思う。

 担任教師の反対もあったが、予定通り上京して大学受験をした。私大も受けろとうるさかったのでいくつか受けた。どうせ合格しても通うことは出来ないと思っているので、試験慣れのつもりで受けた。たまたま母が交通事故の被害者になって、保険がおりたらしく、受験費用は出た。しかし私大の入学金などは払えるはずもないことぐらいはわかっているつもりだった。その頃の国立大学と私立大学の入学金、授業料は大変差があって国立大学ならば貧乏人でも進学できるような状況であった。今は国立大学でも貧乏人はいけないような高額になっているようだ。国立と私立でどうして差があってはいけないのか、さっぱりわからない。民主主義政治の良くないところが出ているようである。良い方に合わせるのではなく、悪い方に合わせるのである。何故ならば悪い方が楽で多数派になるからである。

 早稲田大学の政経学部は国英数の3教科で受験した。東大の一次試験が国英数の3教科だったからである。早稲田の法学部は国英社の3教科で受けた。ここは合格するつもりだった。この頃には赤本など買って、過去問を解いたりしていたので、どうやら間に合っていないことが自覚できていた。英語は苦手だが国社で取り返して合格圏に入るつもりだった。あと文科一類にするか三類にするか迷った。前年の東大の入試中止で、優秀な浪人生が大挙押し寄せるという噂も聞こえてきたりしていた。しかし将来の為に法学部を志望しているのに、文学部に行っても何もならないと思って、文一にしてしまった。

 ここで言い訳がましいが、東京滞在中は立川の親戚の家に身を寄せていた。広い家ではあったが、応接間が私の部屋になっていた。後で気付くのであるが、この家の息子は修士論文執筆中で、娘は卒業論文の執筆中であったのである。ほとんど口を利くことが無かったが、そんな事情があったのである。よく泊めてくれたと思っている。東京の2月はよく雪が降るのである。早稲田の受験の際には、下痢と熱発に苦しめられた。風邪をひいてしまったのである。法学部受験の際は救護所のお世話になったほどである。英語の試験の時、ああこれは落ちたなと思った。全然頭が回らなかった。

 東大の一次試験が本郷であった。これが三四郎池か、これが安田講堂かと思ったものである。安田講堂攻防戦の傷跡であろうか、少し汚れが目立っていたように思う。受験中に受験生の一人が立ち上がって、何か言っていた。受験で知り合った知人に聞いてみると、答えらしきものを言っていたようだ。受験妨害なんだろうが、だれもそんなものは望んでいないと言っていた。広島の県立高校の現役生で、自分の高校は2年に一度の割合で東大合格者を出しているそうである。今年は合格者が出る番だが、浪人した先輩も受験しているので、どちらかが受かるだろうと言ってるらしいと話していた。私の高校では3年前と6年前に合格者が出ているらしいので、3年の一度ならば今年合格者が出てもおかしくないが、どうやら一次試験は失敗したようであると話した。一次試験は大体7割取れれば合格すると言われていたが、60点満点中40点切ったのではないかと話した。数学で思ったよりも取れなかったのである。国語と数学で英語をカバーするつもりだったが、カバーできなかったかもしれないと話していたら、それだけ計算が出来ていたら大丈夫だよ。7割は安心ラインなんだから、気にすることは無い。また二次試験で会おうと言って別れた。本当かどうか知らないが、一次試験受験者は全員合格と言う噂も聞こえてきたりした。この年は京大が人気だったようである。何が何でも東大という受験生もそんなに多くはなかったということである。

 無事一次試験合格になったが、二次試験は社会が入ってくる。私は国語社会は得意だったのであまり気にしていなかったが、二次試験では世界史の失敗が大きかった。フランス革命の事だったが、何を書いていいのかもわからなかった。数学の問題を持ち帰って、中学3年の時東京に引っ越した友人がいたが、彼の下で東京芸術大学受験の為に上京した友人3人で数学の問題を解いた。小学校5,6年生の時の同級生である。東京に引っ越した友人は東京工業大学を受験していた。3問ほど解いてみたが、1問は3人とも解けた。2問目は東工大受験生と私は解けなかった。芸大受験生は解いた。3問目は誰も解けなかった。芸大受験の友人は二次試験を受けて、これは合格したなと思ったそうである。結局私と東工大受験の友人は不合格で、芸大受験生だけが合格した。美術学部は3年浪人が当たり前と言われていたので、驚いたものである。

 高校教員になって、進路指導を担当して、やはり傾向と対策は重要だということを、嫌と言うほど知ることになった。しかしあの頃の私は、根拠のない自信だけで生きていたのだなあと思う。ソフトテニスも大学受験も。振り返ると恥ずかしいことばかりなのが人生なのかと、少しばかり慰めている。