夏の陽射しが照りつける中、私の夫は大学の夏休みを利用して、多摩郡の早乙女村へと研究旅行に出かけました。そこは、平家の落人伝説が色濃く残る静かな山里です。

伝説によれば、源平合戦に敗れた平家の落武者九人がこの村に逃げ延び、しばらくは村人に匿われていたものの、源氏の追っ手を恐れた村人によって毒殺され、遺体は山に埋められたとされています。以来、村で不幸があると「平家の呪い」だと囁かれるようになったとか。

夫は、地元の地誌研究家である山田氏と共に、この伝説の真偽を確かめるべく調査に乗り出しました。ある日、村の農夫から「裏山に墓碑のようなものがある」との情報を得て、早速調査を開始。風化が進んだ小ぶりの自然石でしたが、コンピュータ解析の結果、「平時太郎敦盛」の文字が浮かび上がってきたのです。

時を同じくして、村の神社の石段下から謎の古文書が発見されました。こちらもコンピュータ解析によって、時太郎の日記であることが判明。都での平穏な暮らしから戦乱での没落、早乙女村での生活、そして病に倒れ若くして亡くなるまでが、美しい筆致で綴られていました。

時太郎の墓は綿密に調査され、驚くべき事実が明らかになりました。身長153センチ、体重43キロの男性が、酒樽のような容器に納められ、丁寧に埋葬されていたのです。当時の風葬の習慣からすると、異例の埋葬方法でした。さらに、副葬品には鏡や櫛、食べ物や酒などが含まれており、虐殺されたとは考えにくい状況でした。

神社から発見された日記には、時太郎が村人から手厚い看護を受け、感謝の気持ちを抱きながら息を引き取ったことが記されていました。

これらの発見は、日本の古典文学界に衝撃を与えました。何百年もの間、歴史の闇に埋もれていた時太郎の日記は、平家物語などの影響を受けて後世に作られた「落人伝説」とは全く異なる真実を語りかけていたのです。

調査の結果、九人の落武者は村人から尊敬され、手厚く葬られていたことが判明。時太郎は若くして病で亡くなったものの、村人は珍しい薬で治療を試みるなど、献身的に看病していたことがわかりました。

早乙女村の落人伝説は、実は村人たちが平家物語などの影響を受けて作り上げたもので、史実とは大きくかけ離れていたのです。この研究成果は山田氏によって論文化され、化学分析によって伝説が覆された歴史的な発見として、世に発表されました。

かつて平家の呪いが囁かれた早乙女村は、今や歴史の真実を解き明かす、希望の地として輝きを放っています。


野原サクラ