【歴史と信仰】藤原秀郷の子孫は神田明神に行かない方がいいという話

前回藤原氏の子孫で綴った、◯藤さんの殆どの方はご先祖が藤原秀郷公です。

そして平安時代の武士・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、関東の英雄として知られています。一方でそのご子孫は、

「神田明神には行かない方がよい」

とも言われる、少し不思議な言い伝えがあるのをご存じでしょうか?

■ 藤原秀郷と平将門の因縁

940年、関東で「天慶の乱(てんぎょうのらん)」が勃発しました。

武士・平将門(たいらのまさかど)が朝廷に反旗を翻し、新皇を名乗って独立政権を築こうとした事件です。

この反乱を鎮圧した中心人物が、藤原秀郷でした。朝廷に忠誠を誓った秀郷は、見事に将門を討ち取り、「関東の守護者」として名を馳せます。

つまり、秀郷と将門は明確な敵同士であり、歴史上のライバル関係にあったのです。

■ 神田明神と将門信仰

平将門は死後、その霊が祟るとされ「怨霊」として恐れられるようになりました。

そこで、将門の霊を鎮めるために祀られたのが、現在の「神田明神」です。

特に江戸時代には、徳川家が将門公を江戸の守護神として厚く信仰し、将門信仰は“災いを防ぐ神”としても根付いていきました。

■ なぜ「行かない方がいい」と言われるのか?

こうした背景から、次のような言い伝えが生まれたと考えられています。

  • 「将門公を殺した藤原秀郷の血を引く者が神田明神を訪れると、将門の怒りを買う」
  • 「怨霊を祀る神社に“敵方の子孫”が参拝するのはタブー」
  • 「家系に災いが起こるかもしれない」

つまり、神田明神に参拝すること自体が“敵方に近づく行為”とされ、避けた方がよいという考え方なのです。これは、あくまで民間信仰や都市伝説の類ですが、古くから家系を重んじる一族や霊感を信じる人々の間で語り継がれてきました。

【都市伝説と信仰】平将門の首と神田明神の不思議な関係

平安時代中期、関東で“新皇”を名乗り、朝廷に反旗を翻した武将・平将門(たいらのまさかど)。

彼の最期は、首をはねられ、京都に送られたという壮絶なものでした。しかし、将門の物語はそこでは終わりません。

彼の首はその後も、「飛んだ」「うなった」「戻ろうとした」といった不可思議な現象を引き起こし、やがて「怨霊」として恐れられるようになったのです。

■ 将門の首塚とその伝説

京都に晒された将門の首は、なんと夜な夜な叫び声をあげ、空を飛んで関東に戻ろうとしたと伝えられています。

その首が落ち着いたとされる場所が、現在の東京都千代田区大手町にある「将門塚(しょうもんづか)」です。

この場所は、現代でも「不用意にいじると祟りがある」とされ、実際にビル建設中に事故が続いたなどの逸話も数多く残っています。

■ 神田明神と将門信仰

こうした恐れを背景に、江戸時代には神田明神に将門公の霊を祀るようになりました。

怨霊を神として祀る「御霊(ごりょう)信仰」の一例であり、将門公はいつしか「江戸を守る神」として広く信仰されるようになります。

特に徳川家康は、江戸の守護神として神田明神を重視し、将門公を含む祭神を江戸の中心に据えたと伝えられています。

■ 現代に残る「祟り」の感覚

将門公の霊力はいまだ強く信じられており、次のような信仰・俗説が語られています:

  • 将門塚の敷地に無断で入ると怪我をする
  • 塚の周辺で写真を撮ると異変が起きる
  • 神田明神では「敵である藤原秀郷の子孫は参拝しない方がいい」という言い伝えも

これは、将門の霊が**“今も怒っている”**という信仰の名残なのかもしれません。


■ 実際にはどうなのか?

神田明神そのものは、どなたでも参拝できますし、神社側がそうした「系譜的なタブー」に言及することはありません。

神田明神(将門公)と、成田山新勝寺(将門討伐に関わる寺)は、 “同日に両方参拝してはいけない”という信仰上のタブーがあり、多くの参拝者が避けています 。

NHK大河ドラマ出演者の中には、成田山での節分行事への参加を、将門主人公回を避けて辞退した例もあるそうです 。

実際には藤原氏は多くの子孫を繁栄させた氏族です。大多数の方々が神田明神に参拝することはタブーになります。

ですが信仰や霊的な感覚を大切にする人にとっては、今なお敬意をもって距離を置くべき場所とされているのです。

読んで下さりありがとうございました真顔

あり、その功績により広く関東に子孫が広がりました。

一方で、神田明神にはその将門が祀られており、両者の因縁から「秀郷の子孫は参拝を避けるべき」との伝承が生まれました。

歴史と信仰が交差するこの話は、日本人の祖先に対する想いや、怨霊信仰の深さを今に伝えるものです。