幼少期の頃から本が好きで、暇があると本を手にしていた。一時、本から離れたが、入院生活を経験する中、看護師から貰ったのを切っ掛けに、持て余した時間を潰す様に本を読んだ。
書を捨て街に出よ。
三島由紀夫の言葉だったと思う。現実は創られた物より面白味に溢れて刺激的だ、という事らしい。確かに言葉や概念に支配されてしまうかもしれない。
情報や知識以外の本から離れた時期があったが、切っ掛けが有り、今また活字を追う事で気持ちが安定したりもする。
ブログ、という物に関して、個人の日常なんて誰も気にしていませんよ云々の内容を拝見した事が有ったが、果たしてそうであろうか。
確かにアクセス・商業目的で情報発信されてる方はそうかもしれない。アドバイスとして、至極、真っ当な内容だった。
でも、ここで目に入る日常や思考・文面は、良く出来た物だと、そこいらにあるエッセイよりも格段に心地良く面白い。
時には気持ちが楽になったり、笑いに包まれたり、改めて何かに興味をもったり。
また、こういった場所で文字を書く事で、自分を少し冷静に見れたりたりする。
有難い事というか気恥ずかしさが先行するが、文面を見て御言葉を頂ける方が居て、それで改めて自分を知る事もある。また、読む側に立っても、様々な人のフレーズや内容に思考したり、気付いたり。
自分の場合は、自身の思考や感情の整理の為に文字を連ねてる部分がある。
本来は人目につかない所で勝手にすれば良いのだか、そうしていると、感情が、ぐるぐると回っているだけの結果になり、主観が強く行き場の無い感情の堂々巡りだ。
人目に触れるという事で文字を書くと、多少、何かしらが抑制されるので自身の出来事が客観的に見れたりする。
それが人様に言われて気付いたりで。 文字の選択や文体、行間の取り方などに自分の内面が出てるような感じがする。
これが誰の目にも触れない物だと、自分から出てくる言葉は、粗雑で粗暴で卑猥で滑稽だ。まあ、それが自分自身というものなのだろが。
俯瞰と主観の程好いバランス。
人と真っ向に向き合うのは、時に幼稚で感情的な部分のぶつけ合いだ。そんな自分の後悔も多い。文字を記す作業は何処か感情の昇華・消化になっているのかも。
何か、憑き物が取れた様な、捕らわれた感情から解放されつつある様な。少しだけそんな気がする。
自分の言葉で自由に記し、自由に選択して取り込もう。
