さて、「や党」がもし選挙に出ることになるとしたら、いろんな人たちを集めないといけないだろう。

 

 いまある「政党」に属している人たちからも、候補者をつのることになるのかもしれない。

 

 そのときに、「や党」は基本的に、「政策のしばり」をもうけない。

 

 まずは、「やさしさ」を以て、かれらが抱いているであろう「信念」とか「理想」というものを吟味することになる。

 

 ただ、そういう「政策」が、「だれかを傷つける」可能性が高いということが明らかになった場合は、その政策を撤回するか、改善することを提案する。

 もしその「信念」とやらがあまりに凝り固まっていて、それが「不可能だ」という結論に達した場合は、残念ながら「入党」を認めないということになる。

 

 明らかに「やさしくない人」が入ってきちゃったら、「やさしい人」たちの立場が脅かされることになるからだ。

(ただもちろん、その吟味は慎重にやらないと、ヘンに対立をあおったりすることになっちゃいそうだけど。)

 

 でも、とにかく「やさしさ」が根底にあって、「国民を傷つけない」という理念に共感してくれる人なら、幅広く入党を歓迎するだろうか。

 

 個別の政策なんてものは、入党してからじっくり考えればいい話だ。

 

 そしていちばん肝心なのは、「自分の意見を押しつけない」ということ。

 

 これが「やさしさ」から導き出される、「や党」が取りうる新しい姿勢だろう。

 

 どうにも、いま存在している「政党」のみなさんは、自分たちの「正義感」にしたがって、ともすれば意見の「押しつけ」をすることも辞さない、という姿勢がすごく見え隠れするのだ。

 だから、「こうすべきだ」「ああすべきだ」という言葉をすぐに使うし、「あれは悪だ」「これが善だ」という判断もすぐにしちゃう感じがする。

 

 「や党」は、そういう姿勢をいったん留保する。

 代わりにやるのは、とにかく「事実」の指摘だ。

 

 「こういう政策をすると、こういう人たちが傷つく可能性がありますよ。」

 「こういう人たちは得をするかもしれないけど、この人たちは損しますよ。」

 「将来の国民全体が、困ることになりかねませんけど」

 

 とにかくこのような、「事実」の指摘を中心にしていくことになる。

 

 そして、いちばん重要なのは、それを受けて選択するのは、あくまで「国民自身」だという点だろう。

 それがたぶん、「民主主義」ってやつの根幹なんじゃないかしらん。

 

 

 ま、でもやっぱり「政治」ってのは、一度足を踏み入れると、すぐさま批判、対立の応酬になって、「やさしさ」からは離れていっちゃうのかもしれない。

 

 だからやっぱり、「やさしい党」は、単純にだれでも入れるカテゴリーってことにしとこうか。

 

 「甘党」、「辛党」、「やさしい党」

 っていう基本には、何度でも立ち返らなくちゃいけないかもね。

 

 

 この「やさしい党」は、「政党」ではないということは何度でも確認しておきたい。

 だから、選挙に出たりする気も、毛頭ない。

 

 でも、必ずしもぼく自身が「政治」については何ひとつ興味がないかというと、そうでもない。

 少なくとも、いまの「政治」が、あまりうまくいっていなさそうだ、ということはわかる。

 

 ということで、この「やさしい党」が、万が一政党みたいなものになったら、どういう政治をするのかな、ということをヒマつぶしにでも考えてみたいと思う。

 

 その場合、略称は、「や党」になるだろうか。いいね、ひらがなだし、みんなが書ける。

 もちろんその「や」には、違う漢字が当てはめられることもありそうだ。まぁ、それは仕方ない。そもそも政党として出発した以上は、最初から「よ党」になることはできないし。

 

 「や党」のマニフェストは、前から言ってるとおり、「ただやさしくあること」だ。

 

 いきなりうさんくさい感じが出まくってる気もするけど、それもそれで結構だろう。

 

 ただ、問題は、どんなふうに「やさしく」あるのか、という話だろうか。

 「やさしい」だけで、はたして「政治」ってやつをおこなっていくことができるんだろうか?

 

 でも、この党はそう断言する。何にもまして、「やさしい」ことを絶対条件にして政治をやるわけだ。

 

 そうすると、「だれかを傷つける」ことが明らかな政策というやつは、「やらない」ことになる。

 

 仮に、それなりの人数の人が「得」をするんだとしても、少数であっても、「傷つけられる人」が明らかに存在するということがわかった時点で、それをするのをやめる。

 

 かなり、「ビビり」ながら政治をやる、という姿勢になるのかもしれない。

 

 でも、いっぽうで、いま現在「傷つけられている人」救う、という観点からは、大胆な政策をどんどんと打ち出していくことになるかしらん。

 というか、現代の政治ってのは、そもそもそういう観点からやるもんじゃないか、という前提もありそうなもんだ。

 

 ま、個別の政策に対しては、よくよく吟味する必要が出てくるんだろうけど。

 

 とにかく、「や党」の政治は、大枠はこんな感じになりそうだ。

 

 

 

 これはダイジな話で、「やさしさ」ってやつをなんなら「神」みたいな感じで、「絶対に守らなきゃいけない規範」にはしないってことだ。

 

 そうしちゃうと、ヘタしたら「正義」みたいな感じで、悪いヤツに勝手に使われて、誰かを傷つけることになることにならんとも限らんから。

 

 だから、あくまで最初に言った、

 

 「相手の身になって、苦しみを取り除こうとする」

 

 という定義はずっと守っていきたいとぼくは思っている。(要は、「サイフを拾ってあげるやさしさ」ってことだ。)

 

 これに加えて、「自分も傷つけることなく」という言葉を付けくわえてもいいような気もしてきた。

 

 前回言った、理不尽な仕事を押しつけてくるブラック企業の上司、という例を考えるとよくわかるもので、

 

 「度を超えた激務」をずっと強要されたときに、それをぜんぶやってあげることが「自分のやさしさ」だってのは、壮大な勘ちがいってことになる。

 

 なんでかって、そうやってムリしてまで働いてしまう人は、そこでは実は「相手の身になって」いないからだ。

 

 「自分がとことんまで犠牲になる」という選択をしちゃう人は、たぶん、「相手の苦しみ」を過大評価してしまう傾向があるとぼくには思える。

 

 つまり、相手は実はそこまで「苦しんで」はおらず、「やってもらったらラッキー」ぐらいの感じでいるのに、それを「かわいそう」と思ってしまって、自分の身を傷つけてまで、相手のために行動しちゃう、ということになる。

 

 (いちおう言っとくけど、もしそんなふうに行動してしまった人がいたとしても、ぼくはそういう人を「悪い」なんて非難するつもりはない。

 だって、それも曲がりなりにもその人自身の「やさしさ」から出たものだから。そういう場面でいちばん「悪い」のはあくまでその「上司」だってのは口を酸っぱくして言っときたい。)

 

 もちろん、それが微妙なラインで、「ちょっと自分がガマンすればできる」とか、「友だちとの約束の時間をちょっとずらせばできる」というレベルのものだったときには、その要求を受け入れても問題ないこともあるだろう。(そもそもその会社が「ブラック」かどうか、ってのも、なかなか客観的には判断できなそうな気もする。)

 

 ただやっぱりぼくが口惜しいと思ってしまうのは、そういう「やさしさ」のせいで自分が犠牲になってしまう、ということが世の中にけっこうあるってことだ。 というか、こういうことがたくさんあるからこそ、「やさしさだけじゃ生きてけない」とか、「もっと自分の“ケンリ”を主張しなきゃ」とか、そのあげく、「勝ち組にならなきゃダメだ」なんてヘドが出るようなセリフが言われるようになっちゃった気がする。

 

 結果として、「やさしさ」自体がヘンにおとしめられてるんじゃないか、という気がぼくにはしてきた。

 

 だからここでぼくは「やさしさ党」の代表として、声を大にして言っておきたい。

 

 「やさしさ」自体は、ぜんぜん悪いことじゃねぇんだぞ!!

 

 って。(名言っぽく言おうとしたけど、なんかぜんぜんカッコついてない気もする…まぁいいか。)

 

 でも、これはふつうに考えればわかることで、どう考えても、「自分勝手」で「相手のことなんか気にもしない」人間のほうが、「悪い」って言葉にピッタリくるもんだと思える。だって、そういう人は他の人を「傷つける」確率が高いからね。

 

 「そういう強さも必要だ」とかほざく人間は、結局はその中での「線引き」ができないようにぼくには思える。

 じゃあその「強さ」を発揮して、だれかを自死に追い込んだりとか、みんなで迫害したりとか、なんなら原爆を落っことして何十万人もの人を殺害しただとか、そういう事例だって、「必要だった」とかほざくんだろうか。(まぁ、そうほざくヤツだっているんだろうけどさ。)

 

 そういうことを言うヤツは、「そのあげくに自分が傷つけられてもかまわない」って思ってるのかな。

 というか、そうじゃないと、そんなこと言えないはずだけどな。

 まぁでも、そういうヤツは、「自分が傷つけられることなんか一生ない」ってタカをくくってそうだけど。

 それは完全な「想像力」の欠如ってやつだ。

 

 でも、ぼく自身はそうやって誰かの自分勝手で、傷つけられたいとは思わない。

 だから、できるだけ人の気持ちを想像して、傷つけないようにしていきたいと思っている。

 その中で必要なのが、「やさしさ」だって話になってきたわけだ。

 

 でもこれは、みんなに「強制する」ようなことじゃない

 「たしかにそうだよね」って思った人しか実践しないのかもしれない。

 ただ、だからと言って、こういう態度に反対する人を「敵」とみなして攻撃するつもりも、ぼくには(今のところ)ない。

 だって、そんなことしたらまた「やさしさ」からは遠のいちゃうだろうから。

 

 なんだか、途方もない道のりのような気もしてきたけど、とりあえず、「自分がやさしくある」ってことだけを目指して暮らしていくとしようかな。

 

 

 あれ? なんか、いきなりマニフェストに反するようなことを言いだしたような気がしてる。

 

 でも、これってふつうに考えたら「あたりまえ」と思えることだろう。

 

 たとえば「いじめ」に遭ってる人が、その「いじめっ子」に「やさしくする」って、そりゃあ相当な難題だと思う。

 

 いじめられた方が、「やさしくする」=「いじめっ子の身になって、その苦しみを取り除く」って? なんでそんなことしなきゃいけないのか。

 そもそもこっちの苦しみのほうがデカいのに。あいつのほうが悪いに決まってるだろう。

 しんじゃえばいいのに。

 

 そう考えるのはあたりまえだ。だから、いじめっ子に対して被害者が「やさしくする」必要はない。

 

 むしろ、いじめられたほうが「やさしくされる」必要がある。

 

 つまり、「いじめ」によって引き起こされる「苦しみ」を取り除かれなきゃいけない。要は、いじめをやめさせるってことだけど。

 

 でも、そこからその加害者に、度を超えた「罰」を与えるとか、「苦しみ」を与えるっていう選択肢はどうなんだろうか?

 

 それで、誰が救われるんだろう。

 

 いじめられた方の「胸がすく」とか、「スッとする」とかいう可能性はあるかもしれない。

 でもどうなんかな。それがほんとに「スッキリ」することにつながるとは、なかなか思えない。

 

 「やさしい党」においては、そういう「加害者」であっても、一度の過ちですべてがおじゃんになる、という発想はしない。

 むしろ、そういう過ちを犯した人が、真摯に反省している場合とかに、「やさしくする」 という可能性は大いにありそうだ。

 ま、そういう話はまた別の機会にするかもしれない。(しないかも。)

 

 

 いま話してるのはとにかく、この世には「やさしくしたくない相手」もけっこういる、ということだ。

 

 それはたいてい、自分が「キラいな人」ってことになりそうだけど。その中身は、「自分勝手だ」とか「ゴウマンだ」とか、「人の気持ちがわからない」とか、「ムカつく」とか、「エラぶってる」とか、「すぐ悪口言う」とか……、めちゃくちゃありそう。

 

 たぶん、そういう人のことをアタマに思い描いたときに、「この人にやさしくしても、自分にメリットなさそう」という考えを多くの人はもつんじゃないかな。むしろ、「やさしくした」がために、自分が苦しむことになる、とかいう可能性だってありそうなもんだ。

 

 ブラック企業の上司なんてのはわかりやすいもんで、こっちがやらなくてもいい仕事を平然と押しつけてきたりするもんだ。

 そういうときに、こっちが「やさしさ」を示したせいで、自分自身が苦しむことにつながって、あげくに過労死してしまった、なんてことになったら、大変だ。

 

 つまり、「やさしさ」ってのは、「万人に発揮できる」もんじゃなくて、ある程度の「線引き」がなされることも多そうだって話。

 

 それはまた次にしゃべろうかしら。

 

 

 

 

 またワケのわからんタイトルで始めてしまった。

 

 ここで言ってるのは、「人にやさしくすると、いったいどういうことが起こるのか?」というお話だ。

 

 「裏切られる」と、すぐさま応えたみなさんは、おそらく今までにツラい経験をしてきたんだろう。その心中は察するに余りあるけれども、なんとなくぼくにもそういう気持ちはわかる。

 

 でも、じゃあだからと言って、そのときに持っていた自分の「やさしい気持ち」まで否定する必要があるのかってことは、議論の余地があるんじゃなかろうか。

 

 そのとき持っていた気持ちはたぶん、

 

「あの人のためを思って」だとか、

「自分のワガママは極力抑えたのに」だとか、

「そうするほうがいいと思ったから」だとかいうものだろう。

 

 おそらく、そういう場合には、その人は「自分の利益」というものを考える余地はあんまりなかったんじゃないか、とぼくには思える。(もちろんゼロとは言いがたいだろうけれども。)

 

 つまり、「相手のため」を思ってやったことだ、と言えるんじゃなかろうか。

 

 落としたサイフを拾ってあげた、とか、道を教えてあげた、とか、雪にハマって立ち往生してた車を押すのを助けてあげた、とか。

 

 そういうときに、「自分の利益」って、ほとんど考えて行動しはしないだろう。しかも、その相手が初対面で、今後一生会うこともなさそうな人の場合は、まぁ、自分に何かしら具体的な「利益」が戻ってくるとは考えづらい。

 (そこでお礼を言われて自尊心を満足させる、だとかいう動機はないとは言いがたいかもだけど、そういうイジワルはぼくはもう言わないことにした。)

 

 それよりも、「相手が困っている」という現実に直面して、「どうにかしてあげたい」と思った気持ちからやった行動だって言えるんじゃないかな。

 

 つまり、誰かに「やさしくする」ってのは、「相手の身になって、相手の苦しみを取り除こうとしておこなうこと」だと言えるだろう。

 そしてここで言っておきたいのは、それで結果的に「相手の苦しみ」が取りのぞかれたかどうかってことは、いったんムシするってことだ。

 

 少なくとも、ここで重視するのは、そういう「やさしさ」という感情は、「相手の身になる」という「想像力」がもとになっているってこと。

 

 これがいまの世の中では、もう枯渇寸前になってんじゃないかとぼくなんかは思う。ひとのことを想像しなくなっていくと、どんどん「やさしさ」はなくなっていく。これはたぶん自明のことだろう。

 

 「オイオイ、そんなこと言われてもよ。人の身になるなんてのは、カンタンなことじゃねぇだろ? むしろ、そういう余計なおせっかいのせいで、逆に苦しみを負うことになるかもしんねぇじゃねぇか。そしたらどうすんのよ?」

 

 うーん、これはなかなか手ごわい指摘かもしれない。

 でも、こういう相手とこそ、しっかり話し合わないといけないかもしれない。

 

 たしかに、「余計なお世話」だとか、「おせっかい」とよばれるような行為も世の中にはたくさんあるような気もする。

 特に「リア充」とよばれるような人たちから、やたらめったら絡まれて、笑顔になることを強制されるようなことをされたら、逆にしんどくなるってのはめちゃくちゃよくわかる。

 

 でも、それってゲンミツに言うと、「やさしさ」じゃないもんな。

 そういう人は「あくまで“自分の身のままで”考えて、自分が“いい”と思ったことを強要した」ってことだ。

 そういうのがおせっかいとか、余計なお世話って言われるのはスゴいよくわかる。

 

 なので、「やさしさ」ってのは、「相手の身になる」のがいちばんダイジだってことが言えそうだ。

 

 そういうイミでは、さっき言ったような「サイフを落とす」とか、「車が立ち往生する」なんてのは、明らかにそこに「苦しみ」が見てとられるわけだから、そういうのを回避するために手を差し伸べるってのは、「相手の身に」なってることだし、明らかに「苦しみが取り除かれる」ことだから、全然「おせっかい」でも何でもないってことが言えるだろう。

 

 でもいまの世の中では、そういう「明らかな苦しみ」すらムシして、なんなら「苦しんでる人は、全員が自己責任でそうなったんだ」とかいう暴論をほざき倒そうと躍起になってる人も多いような気もする。 

 

 まぁ、そう考えるほうがラクだってのは自明だろうね。

 だって、もしそれが事実なら、自分が相手の「想像をする」必要がなくなるから。

 ぜんぶがぜんぶ、「おまえのせいだ」って言っときゃ済むことになるから。 

 

 それってすげぇ雑だよなぁってぼくなんかは思う。

 なので、少なくとも「相手のことを想像して、やさしくなることを諦めない」ようにしよう、と勝手にぼくはひとりで決意をしたわけだ。

 

 ただ、ぶっちゃけて言うと、ほんとに死ぬまでそういう態度でいることってできるのかな、というのは自分自身すごく疑問がある。

 あと、なんとなく「偽善」っぽい響きがあるのも事実な気もする。

 

 でも、そういうことはいったんぜんぶムシするって決めたわけだ。

 

 だって、 「やさしい党」のマニフェストは、「とにかくやさしくあること」なわけだから。

 

 

 そもそも、甘党の人がある日突然、ジョロキアまみれの火鍋なんか食おうとするだろうか?

 いや、まぁ、そういうこともあり得るから、人生は難しいってわけなんだけど……