浦和中央図書館で『原始仏典』を読んでいます。


仏教の修行によって神通力に至ることを釈迦が説いているらしいと人から聞いて確認しにきたわけですが。


このところラケット先生との邂逅もあり、創価学会ひいては日蓮宗で「万物一切根源の法」と呼ぶ「悟りの境地」を他の仏教宗派では「本覚」と呼ぶらしい、なんてことを調べたりしていたのですが、ブッダ本人から聞いた話しを弟子が書き残したという原始仏典が大元のスタートなんだろうと紐解いてみると「悟りの境地」というものそのものズバリが説かれているようで軽い興奮を覚えています。


その「悟りの境地」の中に「無辺」なんてのも出てきて高岡師の「地は一つ、天は無辺」を想起して「歩道の道とは?」なんてことも考えたりするわけですが、原始仏典で説かれた悟りの境地の中に「色や形を超越して清らかであることだけを意識する」なんてくだりがあるんですね。


この「色や形」に「自分自身の」という修飾語がついていることから、それが「肌の色や容姿の美しい醜い」を指していることが解ります。それを超越するというのは、仏教より前にあったバラモン教では肌の色や容姿の美しさ醜さが社会的な地位の違いに繋がっていたからみたいです。そこに対立軸を立てて否定していこうとする、そこに弁証法かあるようです。


般若心経の「色即是空」という表記だと良く理解されないことも、原始仏典の詳細な対話篇の内容から当時のインドにはアーリア人という白人とドラヴィダ人というアフリカ系の人種がいた、その差別的確執を超えていこうとしたのが「ブッタの、仏教の、悟りの一つ」で「智の完成」と呼んているところじゃないかと感じていますけど。


あー、ありました、箭毛経の中に「修行道をやっていると神通力が備わる」と説かれています。麻原彰晃のやっていた「アグラで空中浮遊する」なんてのは原始仏典に書いてあったんですね。

 

これを読むと「悟り」というのは「認識」と同義だと思われますね。「知る」ということで、では「何を知るのか?」といったなら、原始仏典に説かれているようなことを知るのだ、と。


やっぱりブッタはヴェーダの輪廻転生の考えを継承していたんですね、時代的に無理もないですが。

つづく