京都からいろいろと

京都からいろいろと

ブログ開始後約7年間はアジアビジネスチャレンジをテーマに書いてましたが、17年に前職引退してからは、テーマ迷走中。

幸神社(さいのかみのやしろ) 出雲路幸神社 

  京都市上京区寺町通今出川上る西入 幸神町303  京阪電車「出町柳」下車、徒歩約15分

 

京都御苑の東北角、今出川通から北に伸びる細い梨木通を少し北上。静かな住宅街を歩いて行くと、突き当たりに石造の鳥居が見えます。

出町柳からだと、出町桝形商店街を抜け、住宅街を2分ほど歩いた所にあります。

 

 

祭神 主祭神 猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)

   相殿神 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、

       天照大神(あまてらすおおみかみ)、

       瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、

       少彦名神 (すくなひこなのかみ)、

       可美葦牙彦舅神(うましあしかびひこぢのみこと)、

       大国主命(おおくにぬしのみこと)、

       事代主命(ことしろぬしのみこと)、

       天鈿女命 (あめのうずめのみこと)

 日本最古の縁結びの神として知られる当社の祭祀は遠く神代に始まり、天武天皇の白鳳元年(六六一)御再興され、

 桓武天皇により平安京創建時皇都の東北の鬼門除け守護神として御造営されました。

 平安京造営時には社名を出雲路道祖神(いずもじさいのかみ)と云い、江戸時代の初め現在の地に御遷座された際「幸神社」と改められました。

 主祭神に祀られる猿田彦大神は当社に伝わる道祖神信仰と習合せられ古より霊験あらたかな縁結びの神として崇められています。

 相殿神に祀られる天細女命は神代随一の踊り手で芸能の始祖として崇拝されました。

また歌舞伎の創始者である出雲の阿国(おくに)が当社の稚児巫女として仕えた故実により芸能上達を願う人々の崇敬を集めています。

 本殿東側の壁に祀る三番叟(御幣を担ぐ猿の神様)は御所内裏の東北隅の猿ヶ辻に祀られる猿の神像と共に皇都を護っています。

表鬼門である東北の空を雲上にて眺望し疫神悪鬼邪気等の侵入を防ぐ姿を顕しています。

                          宮司

 御神徳 縁結び 芸能上達 鬼門除け 旅行安全

    (案内板より)

 

 京都御所の「猿が辻」、この幸神社の「猿像」、比叡山の麓「赤山禅院の屋根の上の猿」、比叡山延暦寺(日吉大社)の「神猿(まさる)」と、京都は鬼門ライン上に4重のお猿さんで守られてきました。厄除けや降りかかる悪に対する最強の力をもらえる神社、とのこと。

 後で知ったため、今回は「猿像」の写真はとれていない、残念。

 

 

 

 

 

石神さん

 

 

 

 

猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)  延喜式内社 愛宕郡(論・出雲高野神社)

   京都府京都市上京区上御霊前町489

 

ご祭神 猿田彦大神、天鈿女命

 

 

 上御霊神社の手前にある猿田彦神社は,今では小社となっていますが,かつては広大な境内で,将軍家より神事料として小山郷柏木田が寄進されていました。応仁の乱以後も度々火災に遭い,現在の地に移されたのは寛政5年(1793)のことです。

 桓武天皇はこの神の託宣によって平安遷都を決意され,延暦12年(793)勅願によって社殿を造営されたと伝えています。永徳3年(1383)の造営には勅使が差遣され,足利将軍義満も奉幣し,御神楽が奉納されました。

 祭神は猿田彦大神と天孫降臨の途上相対して霊力を競いあった天鈿女命(あめのうずめのみこと)の2座で,皇居造営に当たっては,この社の土でもって地鎮の神事を執り行われていました。

  (京都市ホームページより)

 

当社は式内社「出雲高野神社」であるとの説があるものの詳細は不明のよう。

 

 

 

 

御霊神社(ごりょうじんじゃ)上御霊神社  

  延喜式内社 愛宕郡(論・出雲井於神社、出雲高野神社)

  京都市上京区上御霊竪町495番地  地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」徒歩3分

 

 上御霊神社という社名は下御霊神社に対応するもので、現在は宗教法人としての正式名を「御靈神社」としている、とのこと。

 

 

 

 祭神として崇道(すどう)天皇(早良(さわら)親王)、吉備真備はじめ十三柱の神霊を祀る。延暦十三年(七九四)平安京奠都に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良・平安時代初期に不運のうちに薨(こう)じた八柱の神霊を祀ったのが当社の初めである。

 のち明治天皇の御願により祭神五柱が増祀された。平安時代には御霊信仰(天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであるとする信仰)が盛んであったが、当社は古来疫病除の霊社として有名である。本殿は享保十八年に下賜された賢所御殿の遺構を復原したものであり、また当社には神輿・牛車等皇室の御寄付品多数を蔵する。

 境内は「御霊(ごりょう)の杜(もり)」といい、応仁元年(一四六七)正月十八日畠山政長と義就の合戦が行われた応仁の大乱の発端となったところである。五月一日に神幸祭(しんこうさい)、同月十八日還幸祭(かんこうさい)、八月十八日に例祭(社頭の儀(しゃとうのぎ))が行われる。 京都市

  (案内板より)         

 

 延喜式神名帳に記載される出雲井於神社(式内大社)や出雲高野神社(式内小社)を当社に比定する説もあるが、神社側の由諸ではこれらの式内社について言及していない、らしい。

 

『応仁の乱 勃発の地』

 室町時代の文正2年(1467年)1月18日、失脚した管領の畠山政長が当社境内の森に布陣し、そこに畠山義就が攻め寄せて上御霊神社の戦いが行われた。この戦いは応仁の乱の前哨戦となったことから当地は「応仁の乱発祥の地」とされる、とのこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)  

      京都府京都市中京区寺町通丸太町下る下御霊前町657

 

 

 平安初期の貞観(じょうがん)五年(八六三)に神泉苑(しんせんえん)で行われた御霊会(ごりょうえ)で祀られた崇道(すどう)天皇(早良(さわら)親王)、伊予親王、藤原吉子(ふじわらのきっし)、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、文屋宮田麻呂(ぶんやのみやたまろ)の六座に、吉備聖霊(きびのしょうりょう)と火雷天神(からいのてんじん)を加えた八座、即ち八所御霊(はっしょごりょう)を出雲路(上京区)の地に奉祀(ほうし)したのが始まりである。

 いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で疫病流行や天変地異はこの怨霊(おんりょう)によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られた。

 当初、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正十八年(一五九〇)に豊臣秀吉の命により当地に移転した。古来より、京都御所の産土神(うぶすながみ)として崇敬され、享保年間(一七一六~一七三六)に霊元(れいげん)天皇が当社に行幸し、宸筆(しんぴつ)の祈願文を納めている。

 本殿は、寛政三年(一七九一)に仮皇居の内侍所(ないしどころ)を移建したもので、表門は、旧建礼門を移したものといわれている。

 境内の垂加(すいか)社には、江戸時代の神道家、山崎闇斎(やまざきあんさい)を祀っている。    京都市

  (案内板より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水火天満宮(すいかてんまんぐう)

  京都府京都市上京区扇町722-10  地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」徒歩約10分

 

岩上神社から地下鉄「鞍馬口駅」に向かって歩いていると、

堀川通を横断した先に、多数の幟が見えました。

神社らしい建物も見え、何名かがカメラやスマホで写真を撮っています。

鳥居の先に、桜が見える。しだれ桜です。

 

 

 

 

 

 

このしだれ桜が有名らしい。

 

 

 

 

 

 

社標に、「日本最初」とある。なぜ?

 

 祭神は、平安時代の政治家であり、漢詩人・学者としても有名な菅原道真 である。由緒書・家系図には、「洛陽一条下り松の霊地に、雨水雷火の難を消除の守護神として菅公を祭る為に、延暦寺の尊意僧正に勅命ありし、日の本最初の天満宮の勧請の最初なり」とある。

 都の水害・火炎を鎮める為に、第六十代醍醐天皇 に命じられた、道真公の師でもあった延暦寺 の尊意僧正(第十三代天台座主法性坊尊意僧正)によって、延長元(923)年六月二十五日、「水火の社天満大神」という神号の勅許を醍醐天皇から賜り、水火社天神天満宮として、菅原道真公の神霊を勧請し建立された。

 水火天満宮が「日本最初の天満宮」と号する所以は、右記のように「天皇の勅命にて神号を賜り、天満宮としたこと」及び「初めて道真公の神霊を勧請したこと」による。

 文明四(1472)年九月十日、第百四代後土御門天皇 の行幸があり、例祭の日を十月十日(旧九月十日)と改めた。

 その後、第二次世界大戦など幾多の変遷を経て、昭和二十五(1950)年、堀川通が重要幹線道路となる拡張工事の際、堀川通りを挟んだ西側の上天神町から現在の扇町に移転した。

 京都市

 (案内板より)

 

 近くの公園では、ソメイヨシノの咲き始めていた。