京都からいろいろと

京都からいろいろと

ブログ開始後約7年間はアジアビジネスチャレンジをテーマに書いてましたが、17年に前職引退してからは、テーマ迷走中。

 鴨神社(かもじんじゃ)    延喜式内社の論社

   大阪府高槻市赤大路町42-3

 

 

 

 

○ご祭神

  大山積(祗)命 (おおやまづみのみこと)

  伊弉諾尊(いざなぎのみこと)

  伊弉冉尊(いざなみのみこと)

  鴨御祖大神(かものみおやおおかみ)

 大山積命は「古事記」「日本書紀」で、皇祖イザナギ・イザナミノミコトの子として、

神代系図第七代の神(山ノ神)。又「伊予風土記」(713年)では百済からの渡来人が祭った

神とされ、百済の第二五代武寧王(斯麻王)の没(523年)により、これを「斯麻の神」「嶋

の神」さらに「御嶋の神」としても祭られ、別名「和多志の大神」(海の神)とも記されて

いる。

 また、大山積命は娘の「木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)」が「瓊々杵尊

(ににぎのみこと)」と結婚し、神武天皇の祖父に当たる「日子穂々手見命(ひこほほで

のみのみこと)」を産んだときに大喜びして、天甜酒(あむのたむざけ)を造り、祝った。

これが稲から酒を造った始まりで、この大神を酒解神(さけどきのかみ)と呼び、酒造り

の祖神となっている。

 

○発祥の縁起

 創建年紀は不明なるも、初代神武天皇から第九代開化天皇(四世紀初め)までの奈良葛城

王朝を支えた「鴨氏」により三世紀頃に創建されたとの伝承がある。

 又「伊予風土記」では「仁徳天皇のころ、最初攝津の国、御嶋の地に座した」とあり、

それは「続日本記」の「別記」によれば、「摂津の国嶋下郡三嶋鴨社なり」とある。

 即ち往古よりの「嶋氏」始建に加担するかたちで百済系の渡来人がその頃創建したもので、

当社からの分社の「三島鴨神社由来」では「地所は、島上郡、島下郡の中間で三島藍の陵

(継体天皇御陵)より巽方四丁(約四百m)にあり往古は小社にあらず」とある。

 然る後、当社「大山積命」を守護神とする右記百済系の「三島氏」が百済との海上交易を

深める為、当攝津の国から愛媛県の伊予大三島に「三島大社」を勧請し、後の三島水軍の

守護神となった。

 また、伊豆にも東上し、伊豆の「三島大社」をも起すなど、当社は全国千数百の三島神社

の発祥の大本の地でもある。

    (ホームページより)

 

 

 

 

 
ホームページには、鴨族について掲載されている。
大変興味深い内容ですが、まだまだ勉強不足で消化できません。
 

 

 新屋坐天照御魂神社(にいやにいますあまてるみたまじんじゃ) 延喜式内社?(名神大社)

  大阪府茨木市西河原3丁目1-2

 

 茨木市に新屋坐天照御魂神社という社名の神社の論社が三社あります。

  新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市西福井) - 旧郷社

  新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市宿久庄) - 旧村社

  新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市西河原) - 旧村社

 この3社は互いに関連しており、西福井から宿久庄・西河原に分祀されたものとも、

『延喜式神名帳』に「新屋坐天照御魂神社三座」と記載されていることから、それぞれ

が1座ずつに対応するものともみられている、らしい。

 その一社、西河原の神社にご参拝しました。

 

 

〇境内案内板

  新屋坐天照御魂神社

主祭神 天照御魂神(天照国照彦火明命 あまてるくにてるひこほあかりのみこと)

祭日  一月一日 歳旦祭、五月十日 春祭、十月十五日 例祭

由緒

 当社は延喜式神名帳(九二七年成立)に記載された古社である。

当地西河原の周辺はその昔新屋郷といわれ、遥か古代から天照御魂神がお鎮まりになった。

名神大社の中でも相嘗祭に朝廷から幣帛を奉られた式内社最高の社格で、府下には数社ある

にすぎない。

 天正(一五七三-九二)の頃までは神域広大、神事も盛んに行われ、近隣七ヵ村の産土神

として崇敬された。

 しかし戦国爭乱等により衰運に傾き、寛文九年(一六六九)社殿は旧神域の西北隅にあた

る今の社地にうつり、同十二年現社殿が新しく造営された。

 現在、本社には主祭神のほか天児屋根命・建御名方命を相殿に祀り、境内社には八幡神・

住吉神・磯良神を祀る東之神社、速素戔嗚尊を祀る須佐神社、宇賀御魂神を祀る稲荷神社が

ある。

 

 

 

 

 

 かつては磯良神社(疣水神社)(茨木市三島丘)の地に鎮座していたが、寛文9年

(1669年)、西北の現在地に遷座され、同12年に社殿が造営された、とのこと。

 

 磯良神社(いそらじんじゃ)  通称 疣水神社(いぼみずじんじゃ)

  大阪府茨木市三島丘1丁目4-29

 

 JR「総持寺駅」から、新屋坐天照御魂神社(西河原)に向かって歩いていると、

 鳥居と大きな看板が目に入る。

 えっ、疣水神社?

 

 

 

 

特に案内板、説明板も見当たらなかったので、帰宅後に調べることとし、お詣りしました。

 

後ほど調べると、ホームページに、

 『御神水は「疣水」の名で広く世に知られ、疣・病気平癒に霊験あらたかとして知られる。

 磯良大神(御祭神)は九州安曇氏の祖であり、神功皇后三韓への御征途に際し水先案内として

航海安全の功績ありと伝えられております。

 元々は式内社・新屋坐天照御魂神社の境内社だったが、1669年(寛文9年)同神社が現在の地

に御遷座され、旧社地に御分霊が祀られ今日に至る。』とある。

 

 そうだったのですね。現在の社地は新屋坐天照御魂神社の旧境内地とのこと。

 

 

 

 

 

 

御神水『疣水』

神功皇后の伝承がある社頭の霊泉『玉の井』より湧き出る御神水は『疣水』の名で広く世に知られ、

疣はもちろん病気平癒に霊験あらたかとして知られる。

 

とのことですが、由緒など知らずに参拝したので、写真も撮れていませんでした。

 

 三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)  延喜式内社・論社

  大阪府高槻市三島江2-7-37

 

JR高槻駅の南側バス停から市営バス「柱本団地」行きに乗り約35分、「西面口」停下車

ここから、徒歩約5分で到着。

 

 

 

 

 

「案内板」

 創建は古墳時代で、仁徳天皇が茨田堤を築かれる際、淀川鎮守の神として百済より

摂津の「御島」に大山祇神をお祀りした事が起源と伝えられる。

「御島」とは三島江付近にあった淀川の川中島のことであり「御島(三島)の社」と

崇められ、三島神社の根源社として淀川の平静・農耕の発展・王都難波の安泰が祈り

続けられた。

 三島神は子授けの神としても崇敬され、後白河上皇に仕えた建春門院が祈願後に

高倉天皇を懐妊、安産されたため1160年(永暦元年)上皇の命によって京都にも三島

神社が造営された。

 1598年(慶長3)豊臣秀吉の命で淀川右岸堤防が築かれる際に、現在地に遷された。

 

 

「案内板」

 三島鴨神社は、大山祇神(おおやまつみのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)を

祭神とし、その起源は仁徳天皇の時代(4~5世紀頃)に淀川の洪水を防ぐために茨田堤

(まんだのつつみ)が築かれた際、大山祇神が淀川鎮守の神として摂津の「御島(三島)」

へ鎮座されたとしています。

 慶長3年(1598)の淀川堤防修築を機に、社殿が淀川の川中島から現在地へ移ったと伝わ

るほか、江戸時代の観光ガイド「摂津名所図会」には、唐崎・西面・柱本等の産土神で、

伊予三島・伊豆三島と合わせて「三個の三島」と称したとあります。

 また、堤の上から移設した際に標石があったとの記載があり、大鳥居脇の標石がこれに

あたるかもしれません。

 明治41年(1908)には、唐崎の唐崎神社、柱本の天満社・稲荷神社・道祖神社、西面の

八幡神社が合祀され、毎年春・秋の祭礼、年末には御火焚祭などが執り行われています。

   高槻市

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

堤防に行こうとしたが、近くに登り口がなく、断念しました。

 

 

野身神社(のみじんじゃ)     延喜式内社「野身神社」の論社

 大阪府高槻市天神町1-15-5 上宮天満宮(境内摂社)

 

 野身神社は、参道を登り三柱山門より境内に入ってすぐ右手にあります。

 

 ご祭神 野見宿禰命

 

 

 

 

「野身神社と宿祢塚古墳」

 土師器と呼ばれる素焼の壷や皿は祭祀用に用いられ、これらを製作する土師氏を率いる

族長がノミ(祈み)のスクネ(直の根)と呼ばれ神に対する直径の長を意味する。

 この日神山を北端として、東西一キロ・南に三キロの地域は野見郷と云いその族長が

葬られ連綿と祭祀された。九二七年に制定され始めての法体系ともいうべき延喜式の神社

台帳ともされる「神明帳」に記載されている神社を式内社とするが、野見宿祢を祀るのは

四社(三河、尾張、因幡、及び当社)しかなく弊社の原点ともいうべき古社である。

 そして明治十二年以降かなりの間、この全域は、古名野身神社が正式名称であった。

 日本書紀の説話をもとに相撲の神様としての伝承も定着している。

 

「車塚古墳」

 この天神山(日神山)には南北に四つの古墳が築かれている。境内に二つの古墳があり、

その一つが宿祢塚(野身神社)あと一つは参道を下り交差点を左に折れ、急な小坂をあが

ったところにあり、前方後円墳とハッキリ解る。

 この古墳は元来当社境内地であったが、道路建設の為分断された。

 猪狩りの様子をあらわした動物埴輪が並んでいる。現在のものは模型であり、生捕りの

狩は角力の原義を示し巫女の角笛も見られ全国唯一の角笛埴輪である。

 立寄って頂き野見宿祢とのゆかりをしのんでいただきたい。

 

 (境内案内板)