京都からいろいろと

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ブログ開始後約7年間はアジアビジネスチャレンジをテーマに書いてましたが、17年に前職引退してからは、テーマ迷走中。

大名持神社(おおなもちじんじゃ)  延喜式・名神大社(大和国吉野郡)

  奈良県吉野郡吉野町河原屋86

 

 

大名持神社 (大汝宮)

 もと竜門郷二十一ケ村の式内郷社

祭神    大名持御魂神 須勢理比咩命 少彦名命

 延喜式神名帳に大和国吉野郡十座の一つと して名神大社に列せられ、大月次新嘗の官弊 にあづかる。

 貞観元年正月二十七日正一位の神階を授け られた神徳崇高な神社である。

 神社下の吉野川潮生淵に毎年六月三十日に 海水が湧き出るとの伝えがあり、国中地方か ら当社に参詣し、この淵で禊をする大汝詣り が今日も続いている。

 神社の境内妹山樹叢は天然記念物に指定されている。

境内神社

 若宮神社      祭神    事代主神

 水神社        祭神    罔象女神

 金比羅神社    祭神    金山彦神

 稲荷神社      祭神    稲蒼神

 

 

 

 

 

旧伊勢街道・旧東熊野街道の分岐点付近、独立峰の妹山の山麓に鎮座。

 

妹山は「忌山(いみやま)」とも称されて現在まで木を伐らない禁忌信仰が残ることから、妹山を神体山とする原始信仰が創祀になる、らしい。

 

丹生川上神社下社(にうかわかみじんじゃ しもしゃ)

 

 延喜式・名神大社(大和国吉野郡 丹生川上神社の論社)

 奈良県吉野郡下市町大字長谷1-1

 

 

 

 

 

 

 

 

丹生川上神社下社由緒

御祭神 闇龗神(クラオカミノカミ) いざなぎ、いざなみ 二尊の御子神

御創建

 天武天皇白鳳四年(六七六)「人声の聞えざる深山に宮柱を立て祭祀せば、天下のために甘雨を降らし、霖雨を止めむ」との御神誨に因り創建された古社である。

御例祭 六月一日

御神格

 延喜式の名神大社二十二社の一社

 元官幣大社 明治四年列格

御鎮座地

 丹生川の川上丹生山

 神武天皇御東征の途御親祭遊ばされた地である。

朝廷の尊崇

 天平宝字七年(七六三)幣帛の外、特に黒毛の馬を奉献される。その後、祈雨には黒馬、祈晴には白馬を献ずることが恒例とされた。

 孝明天皇安政元年(一八五四)に「外患惧服国家清平」の祈祷を仰付けられた。

御神徳

 大気を浄化し、万物生成化育の根源たる水を主宰遊ばされ、地球上のありとあらゆる物象の上に、はかり知れない恩恵を垂れ給い、守護あらせられるいのちの神様である。

 (案内板より)

 

 ご神木 欅

 

 

 

 神馬

 

「絵馬」発祥の社

 

 

 

 

丹生川上神社上社(にうかわかみじんじゃ かみしゃ) 延喜式・名神大社(大和国吉野郡・論)

  奈良県吉野郡川上村大字迫869-1

 

 龍神総本宮 水と雨を掌る 天空の社 とのこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

龍神総本宮 丹生川上神社上社

 主祭神 高龗大神(龍神・雨師の神)

 相殿神 大山祇神 大雷神

御由緒

 「高龗大神」は神代において伊弉諾尊が火の神「迦具土神」を切り給うた時に生れませる神様で天空・山の峰の龍神のことです

 日本書紀神武天皇即位前紀戊午甲子の条に「厳瓮を造作りて丹生の川上に陟りて用て天神地祇を祭りたまう」と記されており上古より祭祀を行う聖域であった事が知られます 天武天皇の御代白鳳四年(六七五)「人の声も聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬き祀らば天下のため甘雨を降らし霖雨を止めむ」の神宣により御社殿を建立奉祀されました それ以降祈雨・止雨の神として奈良時代には淳仁天皇天平宝字七年(七六二)の奉幣祈雨 光仁天皇宝亀六年(七七五)の奉幣祈晴をはじめ室町時代に至るまで数十回の奉幣祈願がなされ朝廷・国家また人々より篤い崇敬を受けてまいりました

 「この里は丹生の川上 ほど近し祈らば晴れよ 五月雨の空」

 後醍醐天皇が吉野の行宮に在られた折当社に寄せて詠まれた有名な御製です

 平安時代の法令集「延喜式」(九二七)によると朝廷の奉幣をいただき旱魃の際の祈雨には黒毛の馬を長雨の際の止雨には白毛の馬を奉るのを例としました(なおこの生きた馬の代わりに絵馬を奉納するという風習が後に普及したといわれます)

 また「延喜式」には名神大社という特に霊験あらたかな神社として月次・新嘗祭に際し官幣に預り 神階は寛平九年(八九七)従二位に叙せられ雨師社・雨師明神・丹生大明神とも称されました そして平安中期以降は朝廷における最高の社格となる「二十二社」の一つに数えられました

  (案内板より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 平安中期以降、朝廷における最高格の社格となる「二十二社」の一つに数えられました。

 しかし、応仁の乱(1467)の後は奉幣も途絶えて衰微し、社地の所在も不詳となりました。

 明治以降、御由緒の重きにより官幣大社として下社(明治四年)、上社(明治二十九年)、中社(大正十一年)の三社が列せられました。

 

〇御遷座と元境内地・宮の平遺跡

 当社境内地は、昭和三十四年の伊勢湾台風による大滝ダム建設に伴い水没のやむなきこととなり、天下万民の幸福のため、現在地に平成十年三月にご遷座しました。

 その後に行われた県立橿原考古学研究所による元境内地の発掘調査の結果、本殿基壇の直下から数期にわたる神社関連遺構が検出され、奈良時代後半から平安時代前期頃に祭場として意識され、平安末期から鎌倉初頭には社殿が建立され、その後造替を繰り返して現代までに奉祭され続けてきたことが明らかにされました。

 「延喜式」に名が見える古社の全面的発掘は初めてのことで、神社・社殿建築の歴史・展開を考えるうえで貴重な事例とされています。

 また元境内地からは、長さ30センチメートル前後の石棒が10本以上出土。うち1本は直立した状態でした。

 これらは縄文時代中期末~後期初め(約4,000年前)の祭祀跡とみられています。

 (ホームページなどより)

 

丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)  延喜式・名神大社(大和国吉野郡)(論社)

  奈良県吉野郡東吉野村大字小968

 

 

水神宗社 丹生川上神社 (旧官幣大社)

鎮座地  奈良県吉野郡東吉野村小九六八

ご祭神  本殿 罔象女神(みづはのめのかみ)

        伊邪奈美命(いざなみのみこと)、伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)

     東殿 大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)(天照大神)

        譽田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)

        八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)

     西殿 開化天皇(かいかてんのう)・上筒男命(うわつつのおのみこと)

        菅原道真(すがわらのみちざね)公・綿津見神(わたつみのかみ)

        大国主神(おおくにぬしのかみ)・事代主神(ことしろぬしのかみ)

縁起

 今を去る事一三〇〇年余り前、当社は第四十代天武天皇白鳳四年(六七五年)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ」との御神教により、創祀せられました。

 現本殿・東殿・西殿は文政十一年(一八二八年)の造替えで、桧皮葺流れ造でいずれも極彩色を留め従来の壮麗絢爛たる姿を残し、御神威の程が偲ばれます。

 境内地には国天然記念物のツルマンリョウをはじめとするテンダイウヤクやツクバネ等、大変珍しい植物がたくさん群生しています。(略)

 (案内板より)

 

〇ご神徳

 ご祭神「罔象女神」は、伊邪奈岐命いざなぎのみこと・伊邪奈美命いざなみのみこと夫婦神の御子神にして水一切を司る神様です。水利の神・水の祖神として、「水」に関わる物事に広大無辺なご神徳をあらわされます。

 古くは雨師の神として、人々は五穀の豊穣、特に旱ひでり続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど水神のご加護を祈ってきました。

〇丹生川上神社の歴史

 今を去る事1300年余り前、第40代天武天皇白鳳4年(675)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により、創祀せられました。

 事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、『延喜式』(927)には名神大社として、平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一社に数えられています。そして、近代においては官幣大社に列せられました。

 丹生川上神社の奉幣祈願は、天平宝字7年(763)5月28日「旱続きのため、幣帛を畿内四か国の神々に奉り、そのうち丹生川上には幣帛に加えて黒馬を奉った」(『続日本紀』)という記述によって歴史上に初めてあらわれます。以後、応仁の乱の頃までには九十六度もの祈雨奉幣祈願があったと記録にみられることから、当社がいかに重要な神社であったかが伺えます。

 しかしながら、都が京都に遷り戦国時代以降はそのような奉幣祈願も中断され、丹生川上神社はいつしか蟻通神社(※)と称され、ついには所在地さえ不明となってしまいました。

※蟻通神社の社名は「天皇の吉野離宮行幸の様子が、遠目にアリが通っているように見えたこと」によるとされています。

〇丹生川上の地

 明治維新後、所在不明とされた丹生川上神社の研究調査が行われました。調査では、明治4年(1871)に丹生村(現在の下市町)、続いて明治29年(1896)には川上村の神社が有力視され、それぞれ官幣大社丹生川上神社下社・上社とされました。

 しかし、大正11年(1922)当村出身の森口奈良吉翁による「蟻通神社こそが丹生川上神社である」と定義した研究調査が認められ、当社が官幣大社丹生川上神社に列格され、通称「中社」と位置づけられました。

 ここに従来の二社に当社を加え、ひとつの「官幣大社丹生川上神社」となりました。そこで「官幣大社丹生川上神社」の社務所を当社に移して、下社・上社を統括して祭務を行なってきましたが、戦後神社制度の変遷によって三社は独立。当社は「丹生川上神社」と登記され、それぞれの社名をもって別々の神社となりましたが、氏子の気持ちに寄り添い、三社あわせて「丹生川上神社」として今日に至っています。

 (ホームページなどより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 相生の大杉

 

 大盛丸神社

 

 丹生龍王大神社

 

吉野離宮

離宮の行幸のたびに珍らしと

 蛙の声を聞しめけむ  宮中顧問官 井上通泰

万葉の歌に多く詠まれ、又しばしば蟻通ひ給ひし吉野離宮は、雄略天皇が御猟せられた小牟漏岳の麓秋津野の野辺に宮柱太敷きまして建てられていた。そこには丹生川上神社の神域地でこの辺りから奥に離宮があったと推定される。この対岸には大宮人の邸宅があって川を堰き止め船を浮べ離宮に出仕のため朝な夕な競うて渡った。今も邸址の名残である御殿軒先という地名が残っている。

昭和41年10月16日

東吉野村郷土史蹟顕彰会

 

 

 

 

 丹生の真名井 清めのお水

 

 叶の大杉

 

 なでフクロウ

 

小牟漏岳

(丹生川上神社の背後の山)

古事記によると、雄略天皇4年(460)、天皇が小牟漏岳で狩りをされ、御呉床に座られていると、虻が天皇の御腕を喰った。その瞬間、蜻蛉が飛んできて、その虻をくわえて飛び去った。天皇は蜻蛉をほめて御歌を詠み、この地を蜻蛉野(あきつの)と名づけられた。

み吉野の 蓑漏が嶽に 猪鹿伏すと 誰れそ大前に奏す やすみしし 我が大君の猪鹿待つと 呉床に坐し 白拷の衣手著そなふ 手腓に 虻かきつき その虻を 蜻蛉早咋ひ かくの如 名に負はむと そらみつ倭の國を 蜻蛉島とふ

日本書記にもこのことが記されています。

小牟漏岳に続く山上に、神武天皇が上小野の榛原、下小野の榛原と名づけて皇祖天神を祀られた「鳥見霊時跡」があります。    東吉野村

 (案内板より)

 

 

 本宮

 

本宮

  御祭神 弥都波能売神(みづはめのかみ)

  例祭日 七月十六日

 丹生川上神社の本宮(もとみや)と称し、第四十代天武天皇白鳳四年(六七五)、初めて象山(きさやま)に祠を建て、弥都波能売神を創祀した所で、第一代神武天皇が大和平定に当って天照大御神の夢兆(むちょう)により、丹生川上に陞(のぼ)り、本宮前の三支合流の夢淵(ゆめぶち)に厳瓮(いつべ)を沈め戦勝祈願を行なった聖蹟の地で、肇国(ちょうこく)発祥の地でもあります。

 皇紀二六〇〇年(昭和十五年)には、聖蹟丹生川上顕彰碑が象山に建立されました。

 

 

神武聖蹟 丹生川上

~神武天皇の丹生川上での親祭~

昭和15年(1940)2月7日、文部省による神武聖蹟調査の第1回目の決定があり、「丹生川上の地」は小川村(現東吉野村)丹生川上神社の付近であると発表された。

日本書紀によると、戌午の年9月、神武天皇は、大和平定のため、夢にあらわれた天神の教えのとおり、天香具山の社の中の土を取って平甕と厳甕・(御神酒を入れる甕)をつくリ、丹生の川上にのぼって天神地祇を祀られた。

神意を占って「厳甕を丹生川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが真木の葉の浮き流れるようであれば自分はきっとこの国を平定するだろう。」と言われて厳甕を丹生川に沈めた。しばらくすると魚はみな浮き上がってロをパクパク開いた。椎根津彦がそのことを報告すると、天皇は大いにお喜びになられ丹生の川上の五百箇の榊を根こぎにして諸々の神をお祀りされた。このときから祭儀のときに御神酒瓶が置かれるようになった。

丹生川は、今の高見川で、高見・四郷・日裏の三川が合流したところの深淵は、神武天皇が夢にあらわれた天神の教えによって厳甕を沈めたところだと伝えられ、『夢淵』と呼ばれています。

                           東吉野村

(案内板より)

 

神武聖蹟

 

 木霊杉

 

 高見川

 

 

 三支合流?
 

東の瀧(龍神の瀧)

 

 

 

 

神田神社(かんだじんじゃ)     延喜式内社(近江国滋賀郡・神田神社の論社)

 滋賀県大津市真野普門町942

 

 

重要文化財 神田神社本殿  大正二年四月十四日指定

 神田神社は、彦国葺命がこの地を開創したときに社殿を建てたと伝えられ、祭神に 彦国葺命を祀る。

 現在の本殿は棟札に「御上棟当社神田明 神御宝殿建徳元年」(一三七〇)とあり、 よく時代の特色を伝える。形式は前室付き 三間社流造。正面庇に建具を備えて前室とし、さらに向拝をつける形式は滋賀県の中世本殿に遺構が多く、古式流造が一層優美 に発達したものである。

 母屋柱上に舟肘木を用いる簡素な意匠であるが、本格的に造られた均整のとれた本殿である。

                昭和63年3月  滋賀県教育委員会

 (案内板より)

 

 

 彦国葺命、素盞嗚命、鳥務大肆忍勝を祀る。 本殿は檜皮葺の優美な姿を誇る三間社流造であ る。流造は、神社本殿形式の一つで屋根は反り をつけ前に長く伸びた庇を付加した形をいうの である。

 当本殿は、整った側面の屋根が特に美しい。 棟札によって南北朝時代の建徳元年(1370)の建 立であることがわかる。 重要文化財指定   大津市

 (案内板より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

御由緒

 明細書によれば創祀年代不詳であるが、社伝によると持統天皇四年に彦国葺命十二世の裔孫和邇部臣鳥務大肆忍勝等に真野臣の姓を授けられた。同年九月居館の傍にある浄地普門山を宮居と定めて素盞鳴命を鎮祭して間野大明神と奉斎せられた。

文亀年中祭典の旧例に反し論争止まず、終に氏子の分離論に至った。この為遠祖彦国葺命、鳥務大肆忍勝の霊を奉じ、普門山に鎮祭した。

  (滋賀県神社庁などより)