丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ) 延喜式・名神大社(大和国吉野郡)(論社)
奈良県吉野郡東吉野村大字小968
水神宗社 丹生川上神社 (旧官幣大社)
鎮座地 奈良県吉野郡東吉野村小九六八
ご祭神 本殿 罔象女神(みづはのめのかみ)
伊邪奈美命(いざなみのみこと)、伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)
東殿 大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)(天照大神)
譽田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)
八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)
西殿 開化天皇(かいかてんのう)・上筒男命(うわつつのおのみこと)
菅原道真(すがわらのみちざね)公・綿津見神(わたつみのかみ)
大国主神(おおくにぬしのかみ)・事代主神(ことしろぬしのかみ)
縁起
今を去る事一三〇〇年余り前、当社は第四十代天武天皇白鳳四年(六七五年)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ」との御神教により、創祀せられました。
現本殿・東殿・西殿は文政十一年(一八二八年)の造替えで、桧皮葺流れ造でいずれも極彩色を留め従来の壮麗絢爛たる姿を残し、御神威の程が偲ばれます。
境内地には国天然記念物のツルマンリョウをはじめとするテンダイウヤクやツクバネ等、大変珍しい植物がたくさん群生しています。(略)
(案内板より)
〇ご神徳
ご祭神「罔象女神」は、伊邪奈岐命いざなぎのみこと・伊邪奈美命いざなみのみこと夫婦神の御子神にして水一切を司る神様です。水利の神・水の祖神として、「水」に関わる物事に広大無辺なご神徳をあらわされます。
古くは雨師の神として、人々は五穀の豊穣、特に旱ひでり続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど水神のご加護を祈ってきました。
〇丹生川上神社の歴史
今を去る事1300年余り前、第40代天武天皇白鳳4年(675)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により、創祀せられました。
事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、『延喜式』(927)には名神大社として、平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一社に数えられています。そして、近代においては官幣大社に列せられました。
丹生川上神社の奉幣祈願は、天平宝字7年(763)5月28日「旱続きのため、幣帛を畿内四か国の神々に奉り、そのうち丹生川上には幣帛に加えて黒馬を奉った」(『続日本紀』)という記述によって歴史上に初めてあらわれます。以後、応仁の乱の頃までには九十六度もの祈雨奉幣祈願があったと記録にみられることから、当社がいかに重要な神社であったかが伺えます。
しかしながら、都が京都に遷り戦国時代以降はそのような奉幣祈願も中断され、丹生川上神社はいつしか蟻通神社(※)と称され、ついには所在地さえ不明となってしまいました。
※蟻通神社の社名は「天皇の吉野離宮行幸の様子が、遠目にアリが通っているように見えたこと」によるとされています。
〇丹生川上の地
明治維新後、所在不明とされた丹生川上神社の研究調査が行われました。調査では、明治4年(1871)に丹生村(現在の下市町)、続いて明治29年(1896)には川上村の神社が有力視され、それぞれ官幣大社丹生川上神社下社・上社とされました。
しかし、大正11年(1922)当村出身の森口奈良吉翁による「蟻通神社こそが丹生川上神社である」と定義した研究調査が認められ、当社が官幣大社丹生川上神社に列格され、通称「中社」と位置づけられました。
ここに従来の二社に当社を加え、ひとつの「官幣大社丹生川上神社」となりました。そこで「官幣大社丹生川上神社」の社務所を当社に移して、下社・上社を統括して祭務を行なってきましたが、戦後神社制度の変遷によって三社は独立。当社は「丹生川上神社」と登記され、それぞれの社名をもって別々の神社となりましたが、氏子の気持ちに寄り添い、三社あわせて「丹生川上神社」として今日に至っています。
(ホームページなどより)
相生の大杉
大盛丸神社
丹生龍王大神社
吉野離宮
離宮の行幸のたびに珍らしと
蛙の声を聞しめけむ 宮中顧問官 井上通泰
万葉の歌に多く詠まれ、又しばしば蟻通ひ給ひし吉野離宮は、雄略天皇が御猟せられた小牟漏岳の麓秋津野の野辺に宮柱太敷きまして建てられていた。そこには丹生川上神社の神域地でこの辺りから奥に離宮があったと推定される。この対岸には大宮人の邸宅があって川を堰き止め船を浮べ離宮に出仕のため朝な夕な競うて渡った。今も邸址の名残である御殿軒先という地名が残っている。
昭和41年10月16日
東吉野村郷土史蹟顕彰会
丹生の真名井 清めのお水
叶の大杉
なでフクロウ
小牟漏岳
(丹生川上神社の背後の山)
古事記によると、雄略天皇4年(460)、天皇が小牟漏岳で狩りをされ、御呉床に座られていると、虻が天皇の御腕を喰った。その瞬間、蜻蛉が飛んできて、その虻をくわえて飛び去った。天皇は蜻蛉をほめて御歌を詠み、この地を蜻蛉野(あきつの)と名づけられた。
み吉野の 蓑漏が嶽に 猪鹿伏すと 誰れそ大前に奏す やすみしし 我が大君の猪鹿待つと 呉床に坐し 白拷の衣手著そなふ 手腓に 虻かきつき その虻を 蜻蛉早咋ひ かくの如 名に負はむと そらみつ倭の國を 蜻蛉島とふ
日本書記にもこのことが記されています。
小牟漏岳に続く山上に、神武天皇が上小野の榛原、下小野の榛原と名づけて皇祖天神を祀られた「鳥見霊時跡」があります。 東吉野村
(案内板より)
本宮

本宮
御祭神 弥都波能売神(みづはめのかみ)
例祭日 七月十六日
丹生川上神社の本宮(もとみや)と称し、第四十代天武天皇白鳳四年(六七五)、初めて象山(きさやま)に祠を建て、弥都波能売神を創祀した所で、第一代神武天皇が大和平定に当って天照大御神の夢兆(むちょう)により、丹生川上に陞(のぼ)り、本宮前の三支合流の夢淵(ゆめぶち)に厳瓮(いつべ)を沈め戦勝祈願を行なった聖蹟の地で、肇国(ちょうこく)発祥の地でもあります。
皇紀二六〇〇年(昭和十五年)には、聖蹟丹生川上顕彰碑が象山に建立されました。
神武聖蹟 丹生川上
~神武天皇の丹生川上での親祭~
昭和15年(1940)2月7日、文部省による神武聖蹟調査の第1回目の決定があり、「丹生川上の地」は小川村(現東吉野村)丹生川上神社の付近であると発表された。
日本書紀によると、戌午の年9月、神武天皇は、大和平定のため、夢にあらわれた天神の教えのとおり、天香具山の社の中の土を取って平甕と厳甕・(御神酒を入れる甕)をつくリ、丹生の川上にのぼって天神地祇を祀られた。
神意を占って「厳甕を丹生川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが真木の葉の浮き流れるようであれば自分はきっとこの国を平定するだろう。」と言われて厳甕を丹生川に沈めた。しばらくすると魚はみな浮き上がってロをパクパク開いた。椎根津彦がそのことを報告すると、天皇は大いにお喜びになられ丹生の川上の五百箇の榊を根こぎにして諸々の神をお祀りされた。このときから祭儀のときに御神酒瓶が置かれるようになった。
丹生川は、今の高見川で、高見・四郷・日裏の三川が合流したところの深淵は、神武天皇が夢にあらわれた天神の教えによって厳甕を沈めたところだと伝えられ、『夢淵』と呼ばれています。
東吉野村
(案内板より)
神武聖蹟
木霊杉
高見川
三支合流?

東の瀧(龍神の瀧)