すげーどーでもいいブログ

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どーでもいいし、なんでもいい。

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さて、その10まで続いた第28回サロマ湖100kmマラソン完走記、今回で締めくくりです。

舞台は日本の最北地、サロマ湖ワッカ原生花園。


「さあ苦しいけど、泣いても笑ってもラスト10km!楽しんできてくださーい!!」

90km地点のスタッフさんから、通り過ぎるランナーに励ましの声が飛ぶ。

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その傍らで、複数のランナーが(比喩として)死んでいる。


そう、第28回サロマ湖100kmウルトラマラソンは、いよいよクライマックスである。


ここまで長い時間、ひたすら先を目指して走ってきた。

100km先のゴールを、55km先の休憩所を、30km先のスペシャルドリンクを、10km先の関門を、5km先の給水所を目指して、走ってきた。

でも実際のところ、目標はゴールだけど、ゴールを目指して走ってきたわけではない。

目の前に転がる手近な目標に辿り着くことだけに集中して、そこに辿り着いたらまた次の手近な目標に辿り着くことに集中して、何も考えず、馬鹿そのものとなって、ただひたすら脚を前に出してきただけである。

それを続けていくと、ある地点でふいに「もうすぐゴールだよ」と言われる。


そこには必ず相反する二つの感情が発現し、入り混じる。

ようやくここまで辿り着いたという喜びとともに、この楽しさがもうすぐ終幕を迎えてしまうという寂しさが沸き起こるのだ。

この心情的パラドックスを、僕は過去にも感じたことがある。


四国八十八ヶ所歩き遍路で八十八ヶ所目の寺に向かう道の途中
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日本半周自転車旅の帰り道、都心に向かう最終日。

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それぞれ38日、90日をかけた長旅だ。僕にとっては、ともに壮大な旅であった。

そのときに体感した得体の知れぬ哀愁と感動の入り乱れ具合がフラッシュバックしたかのような感覚を、このサロマの地でも僕は感じていた。

懐かしい。懐かしさ先行。
残念ながらこれは言葉では伝えられない。体験したものだけが得られる特権的感覚そのものである。


ちなみにこれは、いわゆる「ランナーズ・ハイ」ではない。

そういった現象は、今回のレースでは僕の身には一度も訪れなかった。
そういった脳内物質が引き起こす身体反応とは違う種類の恍惚感なのだ。


さて、残すは10km。
ここまでくると、もはやウイニング・ラン的要素を楽しみながらのレースとなる。

といっても疲れも痛みもピークに達しているわけで、「最後だから頑張ろう!」などという生易しい気張りだけで急に走れるようになるわけではない。

他のランナー同様、少し歩いて少し走って、の繰り返しである。

一度に走る時間がさっきは1分だったのを2分に伸ばせたら、歩く時間が2分だったのを1分半に縮めて走り出せたら、「よし頑張った俺!」そういう世界だ。

それを一時間以上続ける根気の旅。


涼しい風が吹くワッカ原生花園を抜け、一般道へと戻ると、残り2kmのまさしくウイニングロードだ。


あー、もう終わっちゃうんだ
歩いても間に合うな、でも最後は走らなきゃ
このひと俺よりはやかったのか、すげーな


さまざまな感情が入り混じる、残り1km。


このひと↓

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(部屋着かよ!)


ゴール付近は応援のひとがすごい数。
知り合いにエールを送るひと、知り合いでもないひとにもエールを送るひと。

ランナーひとりひとりにドラマがあるように、応援者ひとりひとりにもドラマがあるのだろう。


さて、僕も、ついにゴール。


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タイムは12:45:18。
最後の10kmのラップタイムは1:25:14。
8分31秒/kmペース。

ま、この際ペースはどうでもいい。

間に合えばいい。
完走できればね!

てことで、第28回サロマ湖100kmウルトラマラソン、完走!!


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いやいや、完走できてよかった。
ゴール後の感想、まずはそれだけ。

倒れ込んだり、痛みで歩けなかったりということもなく、いたってフツーに完走賞のメダルとタオルを受けとり、先にゴールしていた友人達と合流し写真撮影などなど。


こういった、多くのひとは経験しないという意味でのある種の「特別な」ことをするとよく投げかけられるのは、「それをして、何か得るものはあった?」という質問である。


そんなもの、クソあるに決まってる。
いくらでも挙げられる。


でも、それを言葉にしたところで、「実際のそれら」とは別物なのだ。

口にした途端、それらがなんだか実物よりもひどく虚しい代物に、陳列棚に並べられた食玩のような無機質な代物に成り下がってしまうような気がするのだ。


生まれてきて良かったことなんですか?と聞かれるかのような感覚に近い。

そんな野暮ったいこと、聞くんじゃねえよ。
と、思うだろう?


だから僕は答える。

「頑張って100km走ったっなって、だけです。それだけです」


実際、それだけだから。
走って辿り着く、生まれて死ぬ、それだけじゃねえか。


その間に巻き起こる奇跡のドラマはそのひとだけのドラマであり、そのひとだけしか観ることができなかったドラマなのだから。


さて、第28回サロマ湖100kmウルトラマラソン完走記も今回で終了なので少し総評をしてみると、


・天気が最高で本当に気持ちがよかった
・脚の痛みも耐えられるレベルで凌げてよかった
・「大」には気をつけろ

以上。


100kmマラソンというと相当なタフネスが必要と思われるかもしれないが、実際に走った者としての感想は、そうでもない。
困難度でいうと、フルマラソンサブスリー(三時間切り)のほうが、全然難しい。

そのわりにウルトラマラソンには、フルマラソンでは感じられない圧倒的な達成感、特別感がある。

“100kmを一日で走った”というひとつのモニュメントを自分史に建立するという作業は、エネルギーを注ぐ対象としては悪くないと思う。


ただ、こういうことをやると、なんだか ”すごいことをやった” みたいに錯覚してしまう場合があるで、注意したい。

僕らは「勝手に変なことをして勝手に苦しんで勝手に盛り上がっているいかれた変態でしかない」ということを頭に入れておかなくてはならない。

これは「スゴイこと」でも「偉業」でもなんでもなく、ただの「娯楽」でしかないということを肝に銘じておかなくてはならない。

100kmを13時間以内に自力で移動できたからといって、なんにも凄くはない。



最後にこの話を紹介して終わりにしたいと思う。


以前、サハラ砂漠を7日間かけて250km走破する「サハラ砂漠マラソン」の特番がTVでやっていた。
そこに出場する白人のおじさんの話。


ダメな自分を変えるため、奥さんと子供達に恩返しをするため、自分に今できることは懸命に走る姿を見せることしかないのだと、カメラに向けて鬼気迫る表情で語るおじさん。


そのおじさんの奥さんがTVクルーにインタビューを受け、こう答えていた。


「なんだか知らないけど、走っている暇があったら子供の世話をしてほしいわよ。ベリーハードなんだから。いい加減にしてほしいわ!」





~後日談~


僕はレース翌日から異常な眠気と全身のむくみに襲われ、一週間は仕事にならなかった。
二週間後まで屈伸ができなかった。


結論。

100kmマラソンは、カラダに悪い。そして、子供の世話を優先しろ。


でも、また走りたいと思ってるけどね。



おしまい。

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