映画「ある日」イ・ユンギ監督様 インタビュー 


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シネ21

【シネインタビュー】「癒し、この映画を作って望んでいたこと、それただひとつ」 〈ある日〉イ・ユンギ監督




「なぜ私をインタビューしますか。俳優たちのインタビューをしたらいい (笑)」イ・ユンギ監督は監督がする話が何かあるかと映画のあとしきりに隠れて考えていた。しかし、「悲観的な懐疑論者」という彼が〈男と女〉(2015)以降に打ち出した暖かい映画〈ある日〉を見たら疑問が沸いた。〈ある日〉は、病気の妻を先に送った保険会社課長ガンス(キム・ナムギル)と、交通事故で昏睡状態に陥ったミソ(チョン・ウヒ)の魂が出会い、それぞれの痛みを治癒していく過程を描く映画だ。イ・ユンギ監督の作品の中でもっとも大衆的でやさしくてかわいい映画でありながら、人間の魂が登場するファンタジー映画であるうえ、前作を合わせて初めて、女性でなく男性の心理が中心となる作品だ。〈ある日〉を見た翌日イ・ユンギ監督に会ってリアリズムとファンタジー、楽観と否定、成功と失敗に対する話を交わした。しかし、対話の半分は、商業映画の中で消化されない話だ。しかし、意味があると思われる話が作られない韓国映画界の現実に対する論評に帰結された。

〈ある日〉は、監督の映画の中で極めて明るくて可愛い映画だ。前作の〈男と女〉以後、明るく暖かい映画を作りたい心が大きかったのか。

〈男と女〉が重い感じの映画だから、次は、軽い映画をしなければならないなど、そんな考えはしなかった。今度は何をしようかと作戦を練って映画を撮ることもなく、そのような選択権が与えられることもない。〈ある日〉の明るく暖かい感じが以前になかったのではないが、前作と比較するため、相対的にもっと大きく変化が感じられるようだ。

今までは男女の間の現実的な関係に基づいた内密な感情を扱ってきた。今度はファンタジーとは、不慣れなジャンルを試みましたね。

現実的でないことで話を進めるのが初めてなので、準備して悩みが多かった。さらに、私が作った話ではなく、製作会社(イベントアップデートストーン)から受け取った原案(ソン・ヘソン)を脚色したものだったので、これを消化するにはどうすべきかと思った。事実、人と魂の出会いという話自体は新しいものではない。ファンタジージャンルも、すでに映画の胎動から出ていたことで。ファンタジー的設定が観客に与える新しさはないということを前提に作業を開始し、その中で私ができることを検討した。

リアリズム小説のように描写される監督の映画世界でその世界を生きている人物らは時々、偶然と逸脱の旅を経験する。その偶然と逸脱を果敢に推し進めた結果がファンタジーにつながつたのではないかという気もした。

現実だが、何か現実とは思えない状況と雰囲気に関心がある。非現実的な現実を生きていく現実的な人々のために、空間と状況と人物の乖離について話すのが私としては面白い。一方では、そのような話をするというのが苦難だった。韓国商業映画の現実では扱いが容易ではない話だったから。いや、今はそんな話を作ることが不可能に近い。あまりにも冷笑的なのか(笑) ある人たちは私の映画を商業映画だと、ある人は、商業映画ではないという。その間、私も知らないうちに私の作品がグレーゾーンに入っていた。ところで、不透明なグレーゾーンに行きたい人がどこにいるだろう。〈ある日〉もやはり投資が行われず、作る過程で困難が多かった。

〈男と女〉封切り後、空白なしにすぐ〈ある日〉の作業に入ったと思ったのに。

製作会社でとても長い間準備した作品だった。私も1年ほど、悩んだ話だった。商業映画としての絵を持っての話だったが、グレーゾーンに置かれるようにならないかといった不安感があった。原案は今よりさらに明るくて、コメディー的要素も多かった。それなりの長所があるが、そのトーンが私とは合わなかった。私ができる話に、私が描くことができる雰囲気に変える作業が必要だった。完成本を出す最後の日まで、この作品のポジショニングについて悩みが尽きたことがない。

今までの作品の中で最も商業的な映画ではないかと思う。

そう?楽観的な方ではないので、私はよくわからない。ただ私がする話を観客がよく聞いてくれて、共感してほしいという気持ちで作った。その気持ちは、どんな映画を作っても、常にあった。

〈ある日〉の主人公は、病気の妻を先に送ったガンスと車の事故で植物人間になったミソとその魂である。ミソは、目の見えない視覚障害者に設定された。

原案によるものだが、最初は私もその部分が負担になった。映画に、極端な痛みを経験したり、極端な立場に置かれた人々が登場するのは思った以上に勝手が悪かった。映画を作る人間として、やや間違えば、誤解を招きやすく。人々の心を掴むためにそのような人物を登場させた?というような反応がでてくるから。ところが、考えてみれば、これもわたしの偏見だった。どうして、映画やドラマに主人公が登場するとダメなんだろう?それは変なことなのか?障害者はなぜ隠れている存在でなければならないのだろうか?そんな考えをする私が偏見の塊だったんだなと思った。彼らが私たちの隣にいるのが自然な社会であるべきだ。それで視覚障害者という設定を可能にしたら、少しは刺激的に、客観的に話をしなければならないと考えた。

ミソのキャラクターが不都合ではなかった。後半ミソの隠された事情が登場した時、むしろ話が力をもらったりして。

新派が登場するから?(笑)


ロマンスの外皮を履いたようだが、結局、二人の男女の恋ではなく、人間に対する理解、死に対する省察にまで伸びていく話のようだ、そう感じた。

死に対する省察とはあまりにも雄大な表現だ。(笑) 確かに関心を持っているテーマだが、今度の映画では、それを深く売るつもりはなかった。この映画を置いてファンタジー感性のドラマとも言うが、これまでも話したが、ファンタジーのための映画でもなく、死を話そうとした映画でもない。傷ついた人々の話に共感してくれたらいいな、心が癒される感じを受けたらいいな、そんな気持ちだった。癒し、とても素敵な言葉だが、この映画を作って、願っていたことはそれただひとつだった。映画一本が人をどのように癒すのか。しかし、見たら心があたたかくなる映画がある。〈ある日〉もあたたかくて悲しいが映画を見て外へ出たとき、気持ちが悪くないそんな映画だったらいいと考えてアプローチした。

監督の映画には、別れと死が常時的に登場する。傷ついた人々、残された人々に対する話を続ける理由があるだろうか。

なぜそのようなことにこだわったかという話をたくさん聞くが、たまたまそのような脈絡の映画をすることになった。実際には全く別の種類の映画に関心が高い。例えば、ジョージ・ミラーの〈マッドマックス〉シリーズの数々。あんな映画はどう創るのか?あの感性はどこからくるのだろう?常に関心がある。また、〈ダークナイト〉(2008)の大ファンだ。マイケル・マン映画も本当に好きで。私はそんなアクション映画を作りたい。ところが、私がこんな話をすれば、人々は聞いたふりもしない。(笑)

監督の映画の中の人物たちの愛は概ね関係の中で完成されていない。〈ある日〉でもガンスは愛する人に先立たれている。監督の映画で、なぜ愛は完成されることはないのか。

完成とは何かな?そしてほとんどの場合、愛は完成されていないのではないか。完成したいというファンタジーを持っているのであって、現実的には非常に難しいことだと思う。いつも不安定な関係について話していたようだ。不安定な人格が会ったときの話〈素晴らしい一日〉(2008)のハ・ジョンウ キャラクターは心根が少し異なるが、ほとんど自分の映画の中のキャラクターは不安定な人たちだった。私自身がとても不安定な人間だと感じて、そんな自分の姿の一部あるいは私が感じた感情を代入してキャラクターを作ったようだ。そして不安定な人物たちの物語を忠実にしてみると幸せな結末に行く話がなかった。だからといって不幸なエンディングもなかった。人物が不幸な境遇に置かれたまま終わったこともなかった。私の映画のエンディングはみんなそうだ。「これは、一体どうなるの?」として終わるから。それが私ができる結末だ。

今までは女性の心理を中心に展開される話をしてきたが〈ある日〉はガンスの視点と心理を追う。

そうだ。私の映画の中で初めての男の視点で始めて男の視点で終わる映画だ。ガンスが現実に足を踏み入れた人であるため、ガンスを中心に行くしかなかった。そして、私はキャラクターの性別に大きな意味を置かない。映画を引っ張っていく人物が女になろうと、男になろうと、それは私にとって、重要でない。性別が変わってもかまわない話がほとんどだった。むしろ女性キャラクターが強くて男性キャラクターが遺恨の場合が多かった。
だから私が〈マッドマックス〉を好きかもしれない。(笑) 事実を誤解している。特に女性の心理をよく知っている。ところが私には映画の中の人物たちがそのまま「人」だ。女を特別によく知って〈チャーミングガール〉(2005)のような映画をつくったのではない。私は偏見も多く、典型的な狭量な男だ。それなら、人を知っていると、がっかりすることになるはずだ。(笑)

前作〈男と女〉の興業が不振だった。良くない成績表が色々な考えと悩みを与えたようだ。
 
(結果について)分析していなかった。「本当に簡単ではないね、私が何を間違えたの、理由が何でも結果的に疎通しなかったね」その程度の考えはしたが、もっと深く思っていなかった。〈男と女〉その後すぐ〈ある日〉の作業をしたために失意に陥って深く悩む時間がなかった。失敗に執着する暇がなかったのがむしろ私にはよかったようだ。後でもう一度深く考えねばならないね。

〈チャーミングガール〉〈ラブトーク〉(2005)〈アドリブナイト〉(2006)のような初期の映画と最近の映画はかなり異なっている。〈ある日〉は、別のゾーンに置かれた映画のように見えて。

根本は変わらない。ただし、環境の影響はある。映画を現実化するのは、あまりにも大変だから、現実的な妥協のようなものをすることになる。10年前に現実的な悩みを後にして、映画をつくった。運が良かった。ところが、ある瞬間からその映画を作ることができなくなった。私の置かれた環境に少しずつ妥協をしなければならないし、そうしてみると映画の色も前とは違ってくるようだ。映画を作ることは容易ではない。誰のせいなのか分からないが、ますます厳しくなっている。

自分がしたい話を主張できないようになったということか。

全く固執できない。時間が経てば、また映画市場が大きくなると、制作環境が良くなると思っていたが、正反対へ進んでいるという気がする。それでも私は幸運なケースと、このような話をすることができる。結果的には観客の損だ。才能ある映画関係者が、自分がしたい話をするのがますます難しくなっているから。

状況が難しいとはいえ、以前の感性をよく守ってほしい。

保証はできない。私はアクション映画がしたいんだから。希望がそうだという話だ (笑)


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監督~ バイバイ





キョロキョロもやもやびっくり手裏剣チュー