おはようございますkanaです。
今日は美容師時代の
「わたしのこと。その4」です。
わたしが美容師の仕事を始めたのは23歳。
同期はみんな年下で、
それはもういろんなことがありました。
パーマをかける時、ロッドという筒状のもので髪を巻いていきます。
私は、それがほんっとうに苦手で
なかなか思うようにできなくて
営業後のレッスンでタイムをとり何分以内に何本巻きという目標を達成するまで帰れないわけです。マンツーマンでついてくれている指導の先輩も帰れません。
同期は全員帰ってしまって、私がノルマ達成できないがために先輩も終電ぎりぎりまで練習につきあってくださって、ある日申しわけなさで泣いてしまいました
そのとき、こんな風に言われました。
「たしかにkanaは不器用だけれど、器用でなんでもすぐできるばかりがよいわけでもない。不器用ゆえに人の何倍も努力して努力して、そうやってついに目標達成できたら、すんなり習得した人よりもはるかにしっかりと身についているはず!」
このことばのおかげで、
あきらめることなく美容師の仕事を頑張っていけました。
そしてあの日・・・
小学校の同級生数人で集まり盛り上がって明け方まで飲んで帰ったら、留守電がたくさん入っていました・・・父からでした。
私が遊び歩いていたから、ばちがあたって母がこんなことになったのだとずいぶん落ち込みました。
母は寝ている時急に手がしびれて、救急車で病院に運ばれたとのこと。脳梗塞の一歩手前で、面会に行った時はろれつがまわっていなくて、もう美容室も辞めたいと。
対応が早かったので幸い10日程度で退院できたのですが、退院の翌日に着付の予約が入っていました。
私ができる仕事だけれど、サポートにまわって母がメインになるように二人で着付をしました。
とにかくあきらめてほしくなかった。
無事にお支度させて頂くことができて、母も「これくらいなら、手も動いたから大丈夫かもしれない。」と美容室を辞めないと言ってくれました。
「私が家に帰ってお母さんの美容室を手伝うから、美容師を続けてくれる?」と病院でぽろっと約束してしまったせいもありましたが
でも本当に幸いなことに、母はこのあと後遺症もほとんどみられず回復していきました。
母の美容室で仕事を手伝い、夜にはスタイリスト(カット)レッスンをご厚意で受けさせて頂き、スタイリスト試験に合格してから正式退社&実家の美容室に入社(?)になりました。
小さな田舎の美容室だけれど、婚礼や成人式などで母といっしょに着付けの仕事をする機会が多くありました。
美容業界での着付講習、コンテスト用のレッスンもかなりの密度で受講しました。来る日も来る日も練習し続けました。不器用なら数こなそう!精神です。
母の留袖で入賞できました
1999年7月
全日本婚礼美容家協会中四国ブロック主催
着付コンテスト 金賞受賞
そんなこんなでバタバタして取得が遅れてしまったけれど、
1999年8月
美容師免許取得
このころも、フランス語を習ったりスポーツジムに通ったり、社交ダンスもかじったり(アマチュアダンス検定ラテン3級だけ取得しています)、何かと忙しく動き回ってました。
着付のほうも、次は振袖のコンテストに挑戦しようと講習を受けていたのですが
29歳の時に結婚することになりました。
主人とは6~7年ぶりに運命としかいえない再会をして、もうこれは結婚するしかない!と。
母の美容室を継ぐことができなくて、今でも申し訳なかったと思うことがあります。妹なんて結婚前半年は口を聞いてくれませんでした
今は「いい人と結婚できてよかったね。」と言ってくれていますが。
このあと私は美容師の仕事も辞め、専業主婦時代へと突入していきます。
つづく