わたしは20代はとても不安定な精神状態でした。いつも疲れていましたし、常に何かにびくびくと怯えていました。

 

生き延びるために自分の感情を麻痺させる。望んでそうしたわけではありませんが、心が選べる選択肢はそれしかなかったのだと思います。

 

自分の感情を麻痺させたことでたくさんの困ったことがありました。

ひとつは怒れないということです。

 

いくら理不尽な目に遭っても、例えば社会に出て同僚や上司の対応に違和感を覚えても、それは本来感じて当然の怒りの感情にはならず、悲しみになりました。

 

当時付き合っていた男性から面白半分に侮辱のような言葉をかけられても、困惑して動揺はしますが、すぐにその気持ちは心の深いところに沈んでいきます。そして怒りではなくまた悲しいという感情に心も体も沈んでいきました。

 

わたしの自立をさまたげ、自分の近くへわたしを置き続けることに何ら疑問を感じない母。母の存在がわたしの苦しみの根源だということはどこかではわかっていましたが、怒りを持ったとしても現実は何も変わらない。怒ることは大きな気力を使います。ですがその気力をわたしはとっくに持ち合わせていませんでした。そして、その大きなパワーをひねり出したとしても、わたしの人生は何にも変わることはないのだと諦め、絶望していました。そしてとても悲しかった。

 

喜びの感情も、わたしは感じることが不自由になっていました。嬉しいことや楽しいことがあってもその感情にすぐ疑問を持つのです。『楽しいから何だというのだ。』と。

 

例え楽しい出来事や嬉しい出来事があったとしても、それを感じたところで現実は何も変わらない。外の世界で喜びを感じても、結局戻らねばならない場所は母と家にがんじがらめになっている現実なのです。

 

『冷めているよね』とわたしへの感想を言われたことは一度や二度ではありませんでした。ですが、わたしは冷めていたのではなく、心をいつも冷え切った世界においておくしかなかったのです。そうでなければ、叶わない希望を持たなければならなかった。母から、そして家から逃れるという一生叶うはずもない夢を膨らませなければならない。決して叶わないとわかっていて見る夢は、自分の心をますます破壊する。それがわかっていました。

 

わたしが悲しみを抱えて生きていた頃を思うと、喜びや怒り、とまどいや好奇心など、あらゆる感情を悲しみに代えていたことが思い出されます。何の感情も抱かないわけではありませんでした。でも、感情を感じたところで何にもならない。虚しいだけ。だから気持ちを閉じ込めました。そうするとその感情たちは悲しみに変わります。理由があって生まれた感情たちです。その行き場を立たれたのですから、悲しくなって当然だと思います。

 

希望や期待を見出したところで何にもならない。つらい現実は変わらず、そしてそのつらい人生を生きなければならないのです。悲しいのは当然でした。ですが、怒りの感情がスッポリと抜け落ちていたわたしでも、時折怒りが爆発することがありました。

 

それは、大抵一人きりの時です。部屋で一人でいるときに、心の奥底、自分でも見えなくなるほど深い深いところへ埋めて隠していた怒りが湧いてきて、感情が爆発することが度々起きていました。

 

そんな時は枕に顔を強く当て、声の限りに叫びます。ギャー!!っと叫ぶのです。そうすると心臓の鼓動は早くなり、ため込んでいた感情が涙となって溢れ出ます。拳を強く握り、その拳で自分の頭部や体を強く殴りました。手の平で自分の頬も力いっぱい叩きました。自分で自分を罰しました。怒りの感情を持ってしまったことを冷酷に責めました。感情を持つことにとてつもない嫌悪を感じていました。その理由はひとつしかありません。母がわたしをそう扱い、そう育てたからです。

 

わたしは混乱した子どもでした。両親の捉えどころのない感情の変化、特に母の怒りと慈しみの感情の変化にひたすら怯え、とまどいました。母は子であるわたしに精神的な境界線を引くことはありませんでした。わたしがいけないことをすれば、わたしの心の中まで侵入し、心の核を破壊するまで叱責します。わたしが存在していてよいのは母の機嫌の良いときだけです。さもなければ、わたしの心は徹底的に破壊されるのです。

 

彼女はわたしを通して彼女自身の存在を認めていたように思います。これは共依存の典型だと今になってわかりました。母は強い人でした。でもとっても弱い人でした。わたしの父は社会的に見れば一人の大人として決して自立していない人でした。生きるために働いてお金を稼いでくるという経済的なところから、会社に務めた際の社会的な責任も、家族に対する父親としての責任も、一切を持ち合わせない人でした。

 

母はそんな父を【ひとりの人間】として見ていました。ですが、彼はもちろん人間ですが、彼女と対等に生きていくことのできる、成熟したひとりの人間では決してありませんでした。母は自分の存在を肯定するように、未成熟な彼を大人として扱い、必死に支えていました。ですが、いくら彼女が力を尽くして、そして他に使うべき力すらも全てを注いで彼をひとりの成熟した、自立した大人に仕立て上げようとしてもそれは徒労にすぎませんでした。

 

母はいつも絶望し、怒り、泣き、喜び、疲れていました。大人になったわたしが大人として彼女を思うと、とても不安定な人だったと思います。ですが、彼女はその不安定な自分を認めることができなかった。自分自身に『大丈夫だ大丈夫だ、やれるやれる』と暗示をかけていたと、後に彼女が話していたのを忘れません。『大丈夫』ではなかった。わたしはそれをずっとどこかで知っていました。そして、問題というものはその根源を見過ごし、ごまかすことで更に大きくなり、大きくなった問題はその捌け口を探します。その捌け口がわたしでした。

 

問題は母にも父にもありました。精神的に未熟ですが人に甘えることに長けていた父と、人一倍責任感と正義感の強い母は、凸と凹がぴったりと合うような組み合わせでした。

 

父は母に無意識に、いえ彼にとっては一切の違和感なく当然のこととして彼女に甘え、そして母はそんな父を精神的にも経済的にも必死に支えました。幼いころから、言葉で表すことはできませんでしたがわたしも両親のその精神的な関係性の構図は感じていました。

 

母は心の奥底では父を軽蔑していましたが、それを認めることは彼を選び子を設けた彼女自身を否定することだった。母は怒りと絶望の感情がピークに達すると父への不満と怒りをわたしたち姉妹の前で言葉とその表情で語りました。ですが、そのピークが去ると、今度はわたしたちには『父を敬え』と言うのです。姉よりも幼かったわたしにはどちらが正しいのかがわからず、幼さのままに父を貶めるようなことを言っては母に厳しく叱責されました。そして、子どもの無知と無配慮によって母の矛盾を指摘した時、わたしは心の奥底まで破壊されるほどに叱責され、混乱とともに心を閉ざしていきました。

 

余談ですが、母はわたしが心を閉ざすことも許しませんでした。閉ざしたわたしの心と口を無理やりにこじ開けて、彼女の思いをそこに流し込みます。わたしは心の逃げ場所も奪われたように感じていました。そして、高校に上がってからわたしは外に逃げようとしました。ですが怒り狂った母に連れ戻され、逃げようとするわたしの行動をめちゃくちゃに責め立てられるのです。『お前は母さんの心を殺すのか!』となじられました。

 

もうどこにも行けませんでした。心も、体も。なので、どこにも行けない心は自分の中の奥底に埋葬しました。まだ生きている心を自分の手で土の中、奥深くに放り込み、そこにブルトーザーでたくさんの土をかけました。そこから、生きているのに生きていないわたしの人生が始まりました。

 

その後、父は蒸発し、母に泣いて縋られたわたしは母から逃れる機会を逃します。そこからわたしの精神的な不安定は悪化しました。詳しい経緯と詳細はこちらの記事をお読みください。

 

その後、社会人として働きますが、自分の感情がわからないこと、怒りを感じられないことで苦しみました。『いつもニコニコしているね。癒し系だね』と勤務態度は評判のよい従業員でしたが、心の奥底では埋めたはずの心がうずいていました。いつもマグマのような怒りが心の奥底で煮えたぎっていました。

 

ですが、怒りを感じることを決して自分に認めてはいけない。そんなことをすれば、母のようになる。そして感情を人に見せれば、母にされたようなひどい叱責が待っている。

 

八方ふさがりでした。わたしは行き所のない、でも決して消えることのない怒りを抱えつつも何食わぬ顔をして生きていかねばならなかったのです。

 

怒りは自傷行為に変わり、心を麻痺させるためにたくさんのお酒を飲みました。ですがそれすらも決して周りに悟られることなく、自分の中だけの秘密にしていました。

 

怒りを感じることに強い抵抗がある。そして、そんな気持ちを抱えていることすらも人に知られてはいけない。

 

人に知られてはいけない。そう強く思っていました。その思いが、心を麻痺させ、心を埋葬する行為を更に強固にさせます。

 

なぜそんなにも強烈に怒りに抵抗していたのか。それはわたしの怒りは【母の否定】に直結するからです。わたしの怒りは全て母に向けられたものです。そしてそれを認めれば、つらい思いをしてわたしを育てた母を完全に否定することになる。それはとんでもない大罪に思えました。彼女が不安定になったのはわたしの存在が影響したからなのではないか。わたしが馬鹿だったから彼女の立場を悪くさせ、彼女の悲しみと怒りを誘発したのではないか。わたしが全ての問題の原因だったのでは。

 

そのことを思うと、恐ろしさと罪の意識で消えてしまいたくなりました。全ての原因はわたしにあるのではないか。ですが、そうではないはずだと、事実を見つめて思い出そうとする。そうすると母の怒りの声や悲しみ泣き叫ぶ姿が目に浮かび、考え続けることができなくなります。

 

わたしは【おかしいのはわたしだった】ということでその思いをやり過ごすことにしました。おかしな子どもで、おかしな思春期の思いを抱え、そしておかしな大人になったのは全て自分のせいなのだ。わたしに問題があるからなのだと思い込むことにしました。

 

そうでもしなければ、母を否定する罪悪感に押しつぶされそうになるからです。

 

そうやって、わたしは事実を知ることも見ることも拒絶し続けました。10年以上です。ですが、わたしの本当の気持ちは心の奥底の土の中で怒り狂っていました。

 

『わたしのせいじゃない!』

『父と母のせいだ!』

『わたしは子どもだった!あんな目にあっていいはずがない!』

『なぜ父と母の人生のしりぬぐいをしなければならないんだ!』

 

誰にも知られることのなかった思いです。このわたしの奥底にある気持ち。これらを認め、大切に扱うことができるようになったのは、30代でうつ症状が悪化し、生きることをやめる選択を取ろうとした時、最後の藁にすがるつもりでドアを叩いたオーストラリアの心療内科との出会いがあったからです。

 

そこで出会った日本人医師が教えてくれました。初めて自分以外の人に見せた、わたしの奥底に埋め立てて隠していた気持ち。震えながら怯えながら、小さくなって医師に自分を語りました。とんでもないことを話してしまっている。母の秘密、わたしの秘密を人に話してしまった。震えが止まらず、呼吸が乱れながらも、これが自分が助かる最後のチャンスかもしれないと医師に話しを続けました。そして医師は言いました。

 

『あなたに起こったことは、あなたのせいではないよ』と。

 

涙で目の周りが熱かった。誰かにそう言って欲しくて言って欲しくて。ずっと求めていた言葉でした。

 

その瞬間に、わたしはわたしが生まれたように感じました。生きたまま埋められていた心が土から這い出て光を浴びたような気持ちがしました。

 

わたしの経験から、そして子どもにとって害となる親たちについて知識を深めてきたことから、みなさんに伝えたいことがあります。

 

あなたは何にも悪くありません。

 

問題はあなたにはないんです。

 

親に傷つけられ、蔑まれ、でも気まぐれに注がれる愛情。

 

問題があるのは親であるその大人たちです。

 

そして、その問題に向き合い、対処すべきは当の本人達なのです。不幸なことに、自分に問題があるのではないかと自分を疑うのは、被害にあっている側であることがほとんどです。自分を責めるのは、子に有害な経験をさせる親や大人ではなく、その毒を受けた子どもたちです。自分がいけないから親の行動が毒になってしまったのだ。本来は毒ではなかったはずなのに、と。

 

ですが、本当に感じて良い正直で素直な気持ちを押し込め、自分を責め、生きづらさを抱えたあなたに伝えたいのは【事実をありのままに認めなければ前には進めない】ということです。

 

わたしは回復の段を歩む最中も多大なる苦痛を味わいました。認めまいとしていた過去の出来事を改めて見つめ、あの苦しかった体験を思い出さなければならなかったからです。

 

ですがその道のりはただ痛いだけではありませんでした。苦痛を伴いながらも事実を認めたことで、埋葬したはずの自分の心が息を吹き返すのを感じたのです。

 

ずっと苦しかった。わたしが悪いのだと自分を責めて、自分を責めるために事実を見ないようにしていました。

 

ですが、いまは心のままに自分の気持ちを自由に感じることができます。本当に自由になりました。そして生きています。

 

いまでも苦しみに苛まれます。母を思うと心が苦しくなったり、自分を責めることがいまでもあります。でも、生きています。心を自由に生きているんです。

 

どうか、あなたにもその自由が訪れることを、何よりも願っています。

 

 

牧マキ子

2025.5.2 Fri 20:00