■ウソをつくインセンティブ

いきなりですが、経済は冷たい頭脳と暖かい心で動いています。そのなかで、経済学は冷たい頭脳に焦点を当てて論じる学問です。「道端に人が倒れている時には助けるべき」という事は、経済学の教科書には記してありませんが、多くの経済学者は助けるでしょう。従って、経済学者の書いた物を読んで、「この人は冷たい人だ」と決めつけないように御願いします。筆者も、道端に倒れている人がいたら助けますから(笑)。

 

そうしたわけで、本稿では「ウソをつくのは悪い事だ」という道徳の先生の教えは忘れて、「ウソをつくのは得か損か」という事だけを考えてみましょう。

 

生まれてから一度もウソをついた事が無い、という人は、ほぼ皆無でしょう。人はなぜ、ウソをつくのでしょう?その根本は、「多分バレない」と思っているからですね。バレた時に酷い目に遭う酷さと、バレる確率の掛け算が重要なのですね。ウソをつかなかった時とウソがバレなかった時の違いも重要ですね。

 

■ウソの可能性は皆の迷惑

一方で、ウソの弊害は大きな物があります。ウソ発見器が発達すれば解決するような問題も、それが無い現状では大いに人々の頭を悩ませるのです。「誰かがウソをついているかも知れない」と人々が思っている事により、皆が迷惑を被っているのです。

 

就職面接で「私は簿記が得意です」と言っても、信じてもらえないかも知れません。そこで、本当に簿記が出来る人は、わざわざ費用と時間をかけて「簿記検定」の試験を受けるわけです。ウソ発見器が発達すれば、簿記検定は不要になるのでしょうが、それは相当遠い将来の事かも知れませんね。

 

更に難しいのが、「結婚、出産の後も働き続けますか?」という質問でしょう。これは「簿記検定を受ければ面接官が就活生の簿記の能力を判断出来る」のと異なり、その後も働き続けるという意思を相手に証明する手段がありませんから。

 

■高性能の中古車を買う方法

中古車の性能は、売り手にはよくわかりますが、買い手にはなかなかわかりません。そこで、売り手がウソをつくインセンティブを持つ事になります。「中古車を100万円で買います」と広告すると、売りに来るのは100万円以下の価値の車ばかりです。

 

本当の価値がわからない買い手としては、「平均50万円の価値だろう」と考えて、気に入った車の売り手に「50万円で如何?」と聞くとします。車の価値が50万円超であれば、答えはノーだし、50万円以下であれば答えはイエスでしょう。結果として期待値25万円の車を50万円で買うことになってしまうので、そんな事をする買い手はいないでしょう。

 

結局、プロが仲介する事になります。そうでないと、いつまでも商売が成り立たないからです。プロが価値100万円の車を95万円で買い取り、105万円で売ることで、プロが10万円「手数料相当分」の利益を得るわけです。

 

ここで重要なのは、プロは信用が大事だ、という事です。プロが安物を高く売りつけたりして評判を落とすと、次からの商売がやりにくくなります。素人が一回だけ中古車を売る場合には、嘘をつくインセンティブが大きいですが、プロには嘘をつくインセンティブが無いのです。だから、人々はプロから安心して中古車を買うのです。もちろん、プロの目利き能力が高い事が大前提ですが。

 

ちなみに、プロに頼らなくても、他に選択肢が無いわけではありません。「100万円で買います」と広告を出し、集まった人々に対して「99万円でしか買いません」と告げれば良いのだと思います。100万円の価値の車を持っている人だけが、帰ろうとするでしょう。そこを捕まえて交渉すれば良いのです。手間はかかりますし、多くの売り手から恨みを買いますから、プロから買った方が結果的には「安上がり」だと思いますが。

 

■病弱な人ほど医療保険(及び生命保険、以下同様)に加入したがる

病弱な人ほど、医療保険に加入したがります。保険会社としては、健康な人ほど医療保険に加入して欲しいのに。こうした事を「逆選択」と呼びます。「健康な人ほど保険料を安くするので、皆さんどうぞ」という宣伝は、役に立ちません。全員が「私は健康です」と申告するでしょうから。

 

「健康診断を実施して、問題のない人だけが加入できる保険」を安い保険料で売り出した保険会社があったとします。他の保険会社は真っ青です。健康な顧客はすべて解約して新しい会社と契約し、不健康な顧客ばかり残るからです。そうなると、保険金の支払いが嵩み、赤字になりかねません。

 

そうした時に、「発病する顧客が多くて赤字だから、保険料率を引き上げよう」と考えてはいけません。保険料率を引き上げると、顧客の中で「まだマシな顧客」がライバル会社に逃げてしまい、本当の重病人だけが残ってしまうからです。

 

健康診断だけでは病弱か否かが判断し難い場合、あるいは健康診断が出来ないとした場合には、次善の策として「団体保険」という手があります。「御社の社員の8割以上が加入して下されば、保険料は半額にします」という契約を会社と交わすのです。そうすれば、健康な人も不健康な人も皆が加入するので、「逆選択」の問題がクリアーできるでしょう。

 

加えて保険会社としては、手間をかけずに多くの契約が獲得できる事、ライバル企業の医療保険を解約して団体保険に加入する人がいると期待出来ること、などもメリットですね。

 

■盗難保険に加入すると鍵をかけなくなる客がいるかも

保険に加入した事で、客の行動が変化し、保険会社が損をしかねない場合があります。たとえば盗難保険に加入した客が鍵をかけなくなる、といったケースです。これを「モラル・ハザード」と呼びます。

 

保険会社としては、それでは倒産してしまいますから、工夫をします。たとえば、「保険料を2割安くするから、盗難の際の補償も2割減らす」という契約にすれば、客は「鍵をかけずに盗難に遭うと、結局損をするから、しっかり鍵をかけよう」と考えるわけですね。

 

次は、少し難しいですが、預金保険制度というものが銀行の損失を大きくしかねない、という話です。この制度は「庶民の預金は、銀行が倒産しても預金保険機構が銀行の代わりに引き出しに応じよう」というものです。

 

預金保険制度が無いと、安全な銀行でも「あの銀行は倒産するらしい」という誤った噂で本当に倒産してしまうかも知れません。それを防ぐために預金保険制度を作り、「銀行が倒産しても庶民の預金は大丈夫だから、預金の引き出しに殺到しないように」というわけですね。

 

しかし、そうなると、倒産寸前の銀行が「高い金利を払って預金を集めて投機をしよう」と考えます。銀行としては、何もしなければ倒産するのですから、投機をして損をしても何も失いません。それなら投機で儲かる事を祈った方がマシです。

 

幸い、他行より高い金利を払えば、客の預金は集まります。預金保険制度がなければ、客は「あの銀行は倒産しそうだから、金利は高いけれども預金しない」と考えるのですが、預金保険制度があるので、倒産寸前の銀行でも預金が集まるのです。

 

これは、倒産寸前の銀行にとっては有難い事ですが、政府にとって大きな悩みです。倒産しそうな銀行が巨額の預金を集めて投機をし、一層損失を拡大してしまう、という事が起きかねないわけです。損失は、一義的には預金保険の対象外の大口預金者と、預金保険機構が負担するわけですが、結果的に政府が損失を負担するケースも多いようです。

 

結局政府としては、「倒産しそうな銀行は、早めに倒産させる」という選択肢を検討せざるを得ないのですが、銀行が倒産すると様々な悪影響が出ますので、なかなか簡単では無いようです。倒産しそうな銀行は国有化して、悪影響を最小現にとどめる、といった選択肢が採用される場合も多いようですが。

 

■企業が大卒を雇うのもウソ防止のため?

大卒は高卒より給料が高いのが普通です。それは、「大学で学生が成長するから」のみならず、「大学にウソ発見器の役割を期待しているから」なのです。

 

普通に考えれば、大学時代に学んだ事(講義の内容にとどまらず、サークル活動等々で得られたもの)が社会人となってから役に立つから、という事なのでしょうが、それ以外にも理由があるのです。

 

能力のない高校生は、「大卒の方が給料が高いのは知っているが、自分は大学を卒業する能力が無いから、高卒で就職しよう」と考えるので、能力のある高校生だけが大学に進学するとします。そうなれば、大卒は能力がある人、高卒は能力が無い人、という事になります。

 

もちろん、実際には能力のある人は全員大学に行き、能力の無い人は全員高卒で就職する、というわけでは全くありませんし、大学を卒業する能力が企業にとって最重要な能力というわけでも全くありませんが、企業としては他に頼れる情報が無いので、仕方なく大卒を採用している、という事なのでしょう。

 

もしも前者(学生が育つ)よりも後者(ウソ発見器)の方が重要だと企業が考えているならば、大学にとっては由々しい事です。本物のウソ発見器が発達して、「あなたは能力がありますか?」という問いに就活生が全員正直に答えるようになると、大学の価値が激減してしまうかも知れませんから。大学を出なくても優秀なら採用される、という時代が来ると、優秀な生徒が大学に進学しなくなってしまうかも知れないからです。

 

そんな事はないと、もしあったとしても筆者が定年を迎えた後のことであると、大学教授である筆者は信じていますが(笑)。

 

今回は、以上です。なお、本稿は厳密性よりもわかりやすさを優先していますので、細部が不正確な場合があります。事情ご賢察いただければ幸いです。


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