映画「イニシエーション・ラブ」に対するネット上の評価が意外と高いことに驚いた。
「映像不可能と言われた原作をよくぞ!」というニュアンスの称賛だと思うが、個人的には全然楽しめなかった。
そもそも原作小説の名を知らしめた例のトリックは、はっきり言って、めちゃくちゃベタである。
事前に「絶対二度読みたくなる」と煽られていたからというのもあるが、私は主人公の名前を見た時点ですぐにトリックがわかった。
登場人物の名前がカタカナだったり愛称だったりした場合はまずそこを疑うのが常套である。
何の前情報もなくただの恋愛小説だと思って読んでいれば騙されるかもしれないが、しゃべくり007の有田さんのような人に煽られれば、読者はたいてい身構えてしまうし、そうなった場合はわりとあっさりトリックに気付いてしまう。
ただミスリードを楽しみたいだけなら、私は道尾秀介の「片眼の猿」の方をおすすめしたい。
で、映画の方はどうだったかというと、確かに、あの原作を映像化するならあのやり方しかないな、と思わせられた。
「そこに気付いた」ことを称賛する人が多いのかもしれないが、だからと言って、作品自体が面白いわけではなく、何より映画で仕掛けられたトリックについての私の感想は、「卑怯だなあ」というところに落ち着いた。
一般的な映像作品に仕掛けられるミスリードは、視聴者の「思い込み」を逆手にとるものであって、視聴者の「思いやり」を利用してはいけない、と思う。
たとえば登場人物が全員古代ローマ人なのに英語を喋っていたら、視聴者は「それはそういうもの」という「思いやり」を持って作品を楽しむ。
そういった映像作品にありがちな「お約束」「暗黙のルール」に対して「時代考証がおかしい」などと野暮なことは言わないのが視聴者の「思いやり」なのであって、その「思いやり」に甘える代わりに面白い作品を作るのが監督の使命なのである。
(そういったいわゆる「お約束」を逆手にとったタランティーノの「イングロリアス・バスターズ」は本当に巧い)。
観た人ならわかると思うが、「イニシエーション・ラブ」は、上述した「思いやり」を逆手にとってしまっているのである。
視聴者のやさしさに甘えるどころか、裏切り行為を働き、あまつさえみんなの大切な作品を平板で退屈なものにしてしまった堤幸彦監督を、なぜ皆容赦しているのか、本当に疑問だ。
原作小説を読んだ人なら、トリックが仕掛けられたシーンですぐさまネタに気付くだろう。
作品中盤に配されたトリックで「ああこれはつまりこういうことだな」と溜飲が下がった後、終盤までの約1時間ずっと「ネタばらしはまだかな?」と待ちわびなければいけないのである。
待ちわびている間に作品の中では、たいして抑揚のないラブストーリーが「中絶」とか「浮気」とか極めて記号的な役割を背負った登場人物によって繰り広げられる。
単なる恋愛映画として非常に退屈で奥行きのないものになっているのである(特に中絶関連の扱いの軽薄さたるや!)。
もうすぐ2016年だよ! マジで「(500日)のサマー」とか「ビフォアシリーズ」とか観たことあんのか!? と思わずにはいられない。
(まあこのあたりはそもそも原作小説がすでに抱えていた問題点なので、しょうがないのかもしれないが)。
恋愛物語が退屈なうえ、中盤でトリックに気付いてしまっている視聴者であれば、「もしかしたら原作にはないさらなる驚きがこのあと待っているんじゃないか?」と考えるのが普通だと思う。
そうでなくても、原作を映像化する以上、原作を超えたいと思うのが映画作家だと思うのだが、さすが堤幸彦監督というべきか、そこにはあまり興味がないらしく、原作からの改編こそあれ、原作を超えるような高みを目指すことはなく、アホな視聴者のためにわかりやすくそれまでのエピソードを改めてダイジェストで見せるという、親切設計というかありがた迷惑というか、そうこうしているうちに何の驚きもないまま映画「イニシエーション・ラブ」は幕を閉じる。
良くも悪くも、堤幸彦監督らしい作品だったと言えるかもしれない。
記号的な登場人物やエピソード、たいして面白くもないくすぐり笑い、原作を超えようとしない志、進化した点と言えば、上映時間が120分を下回ったことくらいか……。
結局、「イニシエーション・ラブ」は「映像不可能と言われた原作を映像化した『だけ』」の作品であり、それ以上でもそれ以下でもない。
それをもって良しとするかどうかは個人の自由だけど、私は悪い意味で「騙された」と思った。
前田敦子さんなんかよりもよっぽどタチの悪い詐欺師に。
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