月曜日の一冊 #13 小山田浩子 「小島」 消えては浮かぶよしなしごと
スタートして35分を過ぎるとどんよりと身体が重く呼吸が激しくなってきた。「一時間後に」と言った手前止まるわけにもいかない。とはいえだれが見ているわけでもないし止まったところでだれかに怒られるわけでもない。しかしそれでも止まらない。週末、大阪城公園。多くのジョガー、ランナーが思い思いのスピードで走っている。ランナーにとって大阪城公園は東京でいうところの皇居のようなもので週末ともなると多くのランナーがつめかける。というのも大阪は東京と比して走るにふさわしい公園が少なく、市内ともなるとあとは数えるばかりである。そういうわけで大阪城公園にはランナーが集中する、とさも毎日、毎週そこで走り続けているような口ぶりだがそうではないのです。ひと月に一度きまぐれに走っているだけなのです。以前は、同じ市内の長居公園の近所に住んでいたこともあり、そこでほとんど毎日10キロほど走っていたので、風のうわさでかねがね大阪城公園の繁栄ぶりを聞いておりいつかはいわば「聖地」で走りたいと思っていたのです。そんな折、月一で身体を動かす機会もあってその一環として大阪城公園で走るようになったわけです。大阪城公園はやはりうわさに違わずとても走りやすいです。まず、その広大さとコースの多様さと起伏にも富んでいるので変化があるという点において飽きないのです。この「飽きない」というのはランナー心理において重要なポイントで「苦しさ」をまぎらわすために景色が変わるのは走るモチベーションのひとつになるわけです。スタートした当初は走りながら足首の具合、膝の具合、など身体の各部分を確かめながらそろそろ走るわけです。その時々に周りのランナーのことや景色を眺めつつ季節を感じ取りながらその日の調子をつかんでいきます。そして、はずんでいた息も整う頃になり、身体の調子も分かると周りの風景を見つつもより身体の内面に意識が向かっていきます。日頃の考えていること、心配事、などが景色に混ざって流れていきます。ひとつの物としてこころのなかにあるものが景色と溶け合って規則正しい息遣いとともに浮かんでは消えていくのです。深く考えることなく流れていく。やがてそれらは走ることによって単純に肉体的な苦しさが勝ってくることで自然と意識から遠ざかっていきます。あれだけ身体のことや景色やこころのなかのことを考える余裕があったのにそれらは断片的に、こまぎれになっていきます。空、青い、高い、綺麗、しんどい、止まる?足音、右から?近いなあ、もっと遠くで追い抜いてよ、苦しい、汚れている、銀杏?臭いなあ、息が苦しい、止まろう、止まらない、銀行の、しんどい、親の、もう止まる、あの角のところまでいく、1、2、3,、4、日影は風が気持ちいい、もう止まる絶対、止まるな、こら・・・・・・。そして最終的には走るのを止めたいということしか考えられなくなっていくのです。冒頭の私は走り始めて35分後にはそれらの苦痛がかたまりとなり景色を見る余裕などみじんもなく走っていたのです。「苦しい」という気持ちと自分の激しい息遣いしか聞こえない世界で。それでも止まらないのはまだ走れる余力があるというのを経験的に知っているのと、我慢して得られるリターンが大きいのを知っているからです。リターン、それはランニングハイというものかよくわからないのですが、身体的なものではない精神的な気持ちのゆとりがランニング後にあらわれてくるのです。それもきちんと体力を出し切った時に。それはひょっとしたら逆に精神的にゆとりがないときのひとつのこころの支えの様なものとしての「思い込み」「精神的なバックアップ」なのかもしれません。でも、決して楽ではない「走る」ということに精を出している多くのランナーを見る度に走ることでなにかを乗り越えていこうという姿にも見え自分もがんばって走ろうという気にさせるのも過言ではないと思います。さて、今週の一冊、小山田浩子さんの「小島」。ことりじゃないよ、こじまだよ!・・・・、ってとっさに思いつきましたが、どこかでだれかがすでに使っているような気がする・・・・。小山田浩子さん、「穴」で芥川賞受賞されており、寡作な作家ですが出される作品はどれも高く評価され私も同じく高く評価している作家です、なんてえらそうに。その他に「工場」「庭」という作品集があります。その作品のほとんどが短編で、主な作品の日本の土着的な風習とそこに嫁いできた(あるいは訪れた)都会の人とのギャップやら微妙な気持ちのずれを描いた作風が持ち味です。と、いってもそれは彼女の小説を語る上で重要であるけれども一部分的なもので全てではありません。私も読み始めのころはそれらの言葉にしがたい得体のしれないものを作品の魅力と感じていたのですが、最新作の今回の「小島」を読むにつれ、その読みどころが別のところにあり作風の変化に気づいてきたのです。それは主人公が眼に映ること、感じていること、想像していることが混然一体となって文章に表れてくるという点です。これは、別に驚くことでもなんでもなく私たちはいつでもこのようにして暮らしています。だれかと話をしていても別のことを考えていたり、テレビを観ていても窓の外から流れてくるカレーのにおいをかいでカレーのことを考えていたり同時進行でいろいろなことを考えたり行動したりしています。当たり前のことです。でも、それを文章化するとなると情報が錯綜しすぎて読者が混乱し小説自体がなにを言いたいのかさっぱりわからなくなってしまいます。ですので多くの小説はそういうことをせずに情報を、言葉を取捨して語られます。ではそれをありのままに書いたらどうなるのか、を小山田さんは試みているのです。ちなみにこれは真新しい手法でもなく、このコーナーでも取りあげた町田康さんの「告白」もその手法を取っている作品ですし、筒井康隆さんの「虚人たち」という作品でも主人公の意識が○○すると××するという(伏字はネタバレをふせぐため)画期的な実験小説もありますし、いわずもがなの「失われた時を求めて」もその範疇にはいるのかもしれませんが私は評論家でも研究家でもないのでもっとほかに有名なものがあるのかもしれません。とにかく、そういう主人公を通した心象、現象がそのまま時系列のまま言語化するとどうなるか、ということを小説として、または愉しい小説として成立させているというのがすごいのです。それは、実際それを試みてみるとよくわかりますが、その困難さに気づくはずです。ましてやそれが小説として面白いのかどうか、という大きな課題もクリアしているとなるとそのすごさがよくわかるのです。それらが顕著な「かたわら」をぐいぐいとおすすめしたい。不気味テイストは「小島」。寡作だけれども変貌をとげている作家なので首をながくして新作を待っています。そう、全作品の装画のフィリップ・ワイスベッカーさんの表紙が今回も素敵です。私がはじめて小山田さんの作品を手に取ったのもまさにジャケ買いです。ちなみに今回の「小島」の表紙も一見、油がにじんだような、かびが生えたような、インクがにじんだような汚れ(のように見えるもの)がありますがこれはもともとそういう表紙です。それでは、また来週。