参りの信仰

・三十三観音参り

・伊勢参り・善光寺参り

 

 

地域の信仰歴

・百万遍

・隠し念仏(渋谷地系御内法)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三十三観音参り

 

 我が国の民間信仰のなかで三十三観音巡礼の歴史は古く、その中でも最も古い歴史をもつとて言われている西国三十三の巡礼は伊勢参りと同じく一生に一度の憧れでした、この地域の人達には極めて至難なことで、それに代わるものとして身近な和賀・稗貫・紫波の三郡内に「当国三十三観音」の札所を設定し巡礼したことは祖先の人々の知恵ではなかったかと言えます。

 当地区妻川には二十七番札所新渡戸寺が建立されており、境内には明和三年(1776)・享和元年(1801)の銘で「当国三十三札所観世音」「観世音菩薩」の二つの建碑があり設定当初よりこの地域では観音参りが行われ近隣同士の日常交流を深め合い、娯楽と他地域に触れ合う視察研修の機会でもあったと思われ、交通が発達していなかった時代では早朝からわらじがけで徒歩により札所を参拝し、巡礼していた姿には、それなりな参りの信仰の深さを想像することができる。

 その後、道路が整備され自動車も走るようになってからは、この地域でも貸切バスなどの利用によっての巡礼に変わっていった。

 

 

妻川地区の巡礼歴

(三十三観音巡礼満願後の新渡戸観音奉納額・奉納旗より転写)

 

*昭和四十五年七月二十三日 (同行一行)

奉巡拝 当国三十三所観世音菩薩 

菊池栄四郎・髙橋多吉・菊池角助・菊池市郎治・髙橋弥三郎・菊池詮雄・菊池健吉・髙橋善松・髙橋小太郎・菊池善之亟・菊池勝正・菊池正盛・髙橋登・佐藤久五郎・菊池松右エ門・菊池勘之丞・髙橋権之助・藤田武・髙橋惣五郎・菊池正吉・菊池清治・髙橋安治・澤藤正男・菊池イチ・伊藤チヨノ・菊池ヨシ・伊藤タミ・伊藤タミノ・菊池スギ・佐藤ロク・髙橋トミ・髙橋テツ・菊池ミチヱ・菊池カノ・小原八重子・菊池ソメ・伊藤八重子・菅原サト・髙橋ソメ・菊池フジヱ・菊池知子・髙橋貞・髙橋ミヨシ・菊池キヨ・菊池アヤ・髙橋タマ・伊藤ユミ・髙橋フヨ・髙橋セキ・澤藤チヱコ・菊池トヨ・菊池スミヱ・菊池ミヱ

 

 

*昭和四十八年五月一日

 当国三十三所 巡礼 大慈大悲観世音 大菩薩 

菊池武實・勝子、菊池善吉・ツヤ、菊池久夫・トキ、菊池市之進・和子、菊池清右エ門・ヨシ子、菊池博・朋子、菊池イマ子、菊池光子、髙橋ミサオ、菊池朗・幸子、菊池啓治郎・シゲ子、菊池房雄・龍、菊池幸雄・千恵、菊池忠男・ユキ、菊池照光・ケイ、菊池リエ、菊池一志・タヱ、菊池稲雄・千枝子

 

*昭和六十一年八月吉日 

当国三十三ヶ所巡礼  南無大慈大悲観世音 大菩薩

八重樫チカヨ・髙橋小太郎・菊池スギ・髙橋テツ・菊池正盛・菊池松エ門・伊藤ヤエ子・菊池清治・伊藤重太郎・菅原サト・髙橋安治・髙橋貞・髙橋ミヨシ・菊池キヨ・髙橋タマ・伊藤ユミ・髙橋フヨ・菊池スミヱ・小野寺忠作・八重樫由之助・八重樫アツ・及川喜輝・菊池ミヱ・菊池マツ・菊池リエ・及川キヌ子・八重樫福志・八重樫コト・菊池トキ・髙橋ヒデ

 

*昭和六十二年七月五日 (妻川観音講)

和賀 稗貫 紫波地域三十三観世音 参拝奉納

髙橋武夫・フミ子、菊池武實・勝子、髙橋源一・純子、菊池栄八・ミヨノ、佐藤雅俊・サイ子、八重樫キヌ子、菊池十八・チヨ、髙橋三雄・トキ、菅原英夫・智恵子、菅原芳治・良子、髙橋正・安子、藤田剛志・テツ子、菊池光子、菊池裕・幸子、髙橋裕治・則子、菊池良・悦子、平山恵利・世市子、菊池若雄・キサ、菊池清敏・アヤ子、大渡民雄・景子・田原慶臣・敬子、伊藤清蔵・賀奈子、堀口渉・てふ子、佐藤清正・レイ、菊池吉則・恵、瀬川昭夫・智恵子、伊藤虎雄・節子、伊藤輝男・徳子、髙橋正・牧子、八重樫耕司・良子 

(昭和49年6月9日~昭和62年7月5日の14年間にわたって貸切バスにての巡礼満願)

 

*平成八年六月 (妻川25日会)

和賀 稗貫 紫波地域三十三観音 参拝奉納 

菊池裕泰・章子、伊藤円治・美代子、髙橋忠雄・惠美子、菊池寿幸・豊子、菊池勝彦・由美子、菊池正友・イサ子、菊池重吉・広子、伊藤英秋・惠子、菊池保孝・寿子、田鎖健章・ひろ子、菊池寿治・友子、髙橋亮・節子、菊池栄一・佳子、菊池郁雄・静江、菊池芳男・美砂子、菊池弘・修子

 

 

 

当国三十三観音札所  「和賀・稗貫・紫波」

 

一番 音羽山清水寺   十一面観音     花巻市太田21-5-1

二番 大宝山円満寺   千寿千眼十一面観音 花巻市膝立観音山85

三番 宝城山長谷寺   十一面観音     花巻市石鳥谷町長谷堂1

四番 宝珠山黄金堂   十一面観音     紫波郡紫波町片寄字沢口

五番 新山堂      正観世音      花巻市上似内10

六番 島の堂      千手観音      紫波町南日詰宮崎4

七番 高水寺      十一面観音     紫波町二日町古舘21-2

七番 和融山蟠龍寺   釈迦牟尼如来    紫波町高水寺字向畑97 

八番 八幡寺      聖観世音      矢巾町北郡山10-50

九番 飯岡寺      千手観音      盛岡市上飯岡9-1

十番 福聚山大慈寺   十一面観音     盛岡市大慈寺町5-6

元十番 高寺       十一面観音     盛岡市手代森10-9

十一番 竜洞山大泉院   正観世音      盛岡市手代森16

元十一番 館林観音     正観世音      盛岡市黒川18-41

 十二番 山谷寺      十一面観音     紫波町山屋字山口

 十二番 圓明山常光寺   十一面観音     紫波町東長岡竹洞116

 十三番 千手堂      千手観音      紫波町彦部字石ケ森

 十四番 岩谷堂      聖観世音      紫波町佐比内字芳沢

 十五番 亀翁山岩神寺   十一面観音     花巻市大迫町亀ケ森

 十六番 貴峰山光勝寺   聖観世音      花巻市石鳥谷町五大堂

 十七番 高松寺      十一面観音     花巻市高松

 十八番 千手堂      千手観音      花巻市矢沢槻木

 十九番 石鳩岡寺     十一面観音     花巻市東和町石鳩岡5区

 二十番 丹内山神社相殿  十一面観音     花巻市東和町谷内2

二十番 月浦山凌雲寺   十一面観音     花巻市東和町安俵5

二十一番 鶏冠山小通寺   正観世音      花巻市東和町中内

二十二番 一天山願行寺   正観世音      北上市更木町臥牛11

二十三番 高木寺      十一面観音     花巻市高木17-14

二十四番 三竹堂      十一面観音     花巻市西宮野目11

二十五番 陽光山雄山寺   十一面観音     花巻市愛宕町1-25

元二十五番  延寿寺観音   十一面観音 花巻市仲町

 二十六番  和賀山染黒寺  聖観世音  北上市川岸3-15-2

二十七番   人当山新渡戸寺  十一面観音 北上市下江釣子16-71

 二十八番  藤根寺     聖観世音  北上市和賀町藤根14-106 

 二十九番  吉祥山千手堂  千手観音  北上市和賀町山口

  三十番  煤孫寺     馬頭観音  北上市和賀町煤孫8-65

 三十一番  大手寺     聖観世音  北上市鬼柳町町分

 三十二番  川原田寺    馬頭観音  北上市鬼柳町笊淵145

 三十三番  本宮寺     十一面観音 北上市鬼柳町都鳥66-1

三十三の二番 和賀寺     十一面観世音 北上市九年橋1-1-6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊勢参り・善光寺参り

 

文献によれば江戸時代は庶民による伊勢信仰の盛行期であり、方々に伊勢参りを目的とした伊勢講ができ、この地区周辺地域でも結成された記録が、そこここにのこっている。男なら一生に一度伊勢参り、女ならば善光寺参りをすることが人々の強い願いでもあった。しかし当地方に住む者にとっては、伊勢、善光寺はあまりにも遠く、長年の願いを果たし出立、自分の足での長期の道中に耐え切れず病により一命を落とし仏となって帰ってきた事例や、参拝者のなかには田畑等を担保に講中に加わり、帰ったのちに家計破錠に陥った例など、お参りには大きな決断が必要だったことをうかがうことができる。

その後、明治期には上野~盛岡間に鉄道が開通、黒沢尻駅が開業、大正、十二年には横黒線江釣子駅ができてからは鉄道列車での参拝の旅に変わるようになり、この周辺地域でも、夫婦等による団体を組み、ときには臨時列車を仕立て、京都・大阪方面まで足をのばし半月ほどの工程での参拝が多かったようである。

妻川地区では古い時代の参拝を物語る資料は見つかっていないが昭和に入つてからのお参りは次のようである。

 

 

伊勢参り・善光寺参り  妻川地区の参拝歴(調査範囲のみ)

 

 

*伊勢神宮・善光寺・関西・四国めぐり(国鉄盛岡鉄道局)

昭和26年3月6日~3月18日(12泊13日間)

三重(伊勢神宮・二見ヶ浦)・京都(東本願寺・清水寺・嵐山・三十三間堂・平安神宮)・奈良(春日大社)大阪(大阪城)・和歌山(高野山)・四国(金毘羅山・栗林公園)・福井(永平寺)・石川(兼六園)長野(善光寺)東京(靖国神社・皇居・銀座)方面

国鉄盛岡鉄道局募集により県内の国鉄21の駅から臨時列車による約600名の団体で、そのうちの黒沢尻駅139名、江釣子駅からは55名での参りの旅であった。

妻川組  菊池清太郎 菊池重次郎 菊池トリ 藤田イソ 菊池栄四郎 菊池イチ 八重樫福蔵 八重樫チカヨ 髙橋多吉 髙橋キエ 菊池久平 菊池政司 菊池コエ 伊藤圓兵衛 伊藤チヨノ 菊池角助 菊池市郎治 菊池ヨシ 菊池鉄蔵 菊池詮雄 八重樫忠孝 八重樫ハナ 髙橋善松 髙橋トミ 菊池善之亟 菊池スギ 菊池武光              27名(男16名・女11名)

*つぼみの会旅行団(江釣子村農業協同組合)

昭和41年3月8日~3月21日(13泊14日間)

長野(善光寺)・福井・京都・奈良・大阪・四国・和歌山・伊勢(伊勢神宮)方面

江釣子村農業協同組合、企画募集により村内より総勢423名ほどの団体、臨時列車8両編成での旅。(団長 組合長・髙橋源二郎)

妻川組  先達者 菊池照光 伊藤平治 菊池久雄 佐藤善吉

同行者  菊池房雄 菊池龍 菊池幸雄 菊池千恵 菊池ケイ 八重樫由之助 八重樫アツ 菊池博 菊池朋子 佐藤ミキ 伊藤マツヨ 佐藤忠善 佐藤キヨ子 八重樫金平 八重樫昭子 菊池一志 菊池タヱ 伊藤實 伊藤イネ子 髙橋ミサホ 菊池武實 菊池勝子 菊池善吉 菊池ツヤ 菊池トキ 八重樫福志 八重樫コト 菊池一之進 菊池和子 藤田剛志 藤田テツ子 髙橋勇 髙橋キリ子 瀬川正 瀬川ハルエ 菊池啓次郎 菊池スゲ子 菊池忠雄 菊池ユキ 髙橋計作 髙橋トミ    

45名(男22名・23名)

(妻川組は宿組25名、塚組3名の総勢73名を1車両とし6両目に乗車)

 

*妻川観音講(妻川観光団として)

昭和53年1月28日~2月5日(8泊9日間)

三重(伊勢神宮)・和歌山・奈良・京都・四国方面

団長 菊池清敏  事務局 八重樫耕司

同行者  菊池栄八 菊池ミヨノ 髙橋源一 髙橋純子 佐藤雅俊 佐藤サイ子 菊池登一 菊池クミ子 菅原英夫 菅原千恵子 髙橋三雄 髙橋トキ 菅原芳治 菅原良子 髙橋正 髙橋安子 菊池裕 菊池幸子 髙橋裕治 髙橋則子 平山恵利 平山世市子 菊池良 菊池悦子 菊池晟浩 菊池光子 菊池若雄 菊池キサ 菊池アヤ子 堀口渉 堀口てふ子 伊藤清蔵 伊藤賀奈子 佐藤清正 佐藤レイ 瀬川昭夫 瀬川知恵子 伊藤虎雄 伊藤節子 伊藤輝男 伊藤徳子 八重樫良子    

44名 (男22名・女22名)

 

*妻川ひまわり会 (妻川観音講を改称)

昭和62年8月28日~8月30日(2泊3日間)

長野(善光寺)・志賀高原・草津・東京上野方面

団長 髙橋裕治  事務局 八重樫耕司

同行者  髙橋武夫 髙橋フミ子 菊池栄八 菊池ミヨノ 髙橋源一 髙橋純子 佐藤雅俊 佐藤サイ子 菅原英夫 菅原千恵子 菅原芳治 菅原良子 髙橋正 髙橋安子 藤田剛志 藤田テツ子 菊池裕 菊池幸子 髙橋則子 平山恵利 平山世市子 菊池光子 菊池若雄 菊池キサ 菊池清敏 菊池アヤ子 大渡民雄 大渡景子 佐藤清正 佐藤レイ 堀口渉 堀口てふ子 伊藤清蔵 伊藤賀奈子 瀬川昭夫 瀬川知恵子 伊藤虎雄 伊藤節子 伊藤輝男 伊藤徳子 八重樫良子 髙橋正 髙橋牧子

45名 (男22名・女23名)

 

*妻川25日会

平成9年9月20日~9月22日(2泊3日間)

三重(伊勢神宮)・京都・大阪方面

同行者  髙橋忠雄 髙橋惠美子 菊池保孝 菊池寿子 田鎖健章 菊池重吉 菊池 広子 菊池正友 菊池イサ子 菊池栄一 菊池佳子 菊池寿幸 菊池豊子 菊池芳男 菊池美砂子 菊池寿治 菊池友子 伊藤英秋 伊藤惠子 髙橋亮 髙橋節子

                       21名 (男11名・女10名)

 

*妻川25日会

平成18年6月24日~6月25日(1泊2日間)

長野(善光寺)白根山・志賀高原・草津方面

同行者  菊池寿幸 菊池豊子 菊池保孝 菊池寿子 田鎖健章 田鎖広子 菊池寿治 菊池友子 菊池栄一 菊池佳子 髙橋亮 髙橋節子 菊池芳男 菊池美砂子 菊池弘 菊池修子          18名 (男8名・女8名)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

百万遍

 

妻川公民館の年の始めの行事として世代をつなぐ事業が行われているが、そのなかでの「先祖の菩提供養」・「地区民が今年も良い年でありますように」との願いこめ行われている百万遍は、数珠廻し・ナンマイダンブツともいわれ、形は変わっても古くから続いている地区の伝統行事である。

この地区ではいつ頃から始まったかは、さだかではないが公民館となりの新渡戸観音境内には、数ある石碑の中のひとつに「百万遍供養・牛頭天皇」文政十一年(1828)の碑があり、それからみても、その前より当地区では行われていたのではないかと推察される。

百万遍の起源は京都の知恩寺の百万遍行事に由来すると伝えられ全国的に普及しており先亡追善・先徳報恩謝徳・雨乞い・虫送り・病気平癒・無病息災などの祈祷のためと言われている。

妻川では昭和四十年頃までは旧暦の二月八日、十一月八日の年二回、部落の小学生の男子でおこなわれていた。

記憶をもどせば昭和二十年代には当日の昼下がり(休日にあたらない日は部落の長老が学校へ地区行事の為と連絡、午前中で早退)大数珠の保管にあたっている観音堂の別当である菊池家(現勝彦氏)へ集合、最上級生の指揮のもと部落内(現三区宿部落の西部の数軒も含む)の各家を廻り、仏間に参加の全員で上がり、仏壇の前に皆んなで丸座になりナンマイダンブツ・ナンマイダンブツと大数珠を三回廻し、お賽銭をいただく、そして次の家へ。

午後一時頃から始めた数珠廻しも夕方になり薄暗くなり始めると指揮の者が遅くなると判断するや、次の家からは仏間には上がらず、風呂敷に包んだ数珠を一人が肩にかけ、台所に上り炉端(ひびど)の周りに立ち、ほかの全員は外でナンマイダンブとツ・ナンマイダンブツと唱え、それに合わせて三周したものでした、時間調整をしながら六時頃には出立の菊池家へ戻り、いただいたお賽銭をみんなで有難く分け合ったものです。

子供達の行事と言いながらも当日はどこの家でも暖かく迎え入れ、知らず知らずのうちに子供達、孫達の心に仏を敬う心が培われることを願い、期待していたのではなかったかと思われる。

 

 

隠し念仏(渋谷地系御内法)

 

岩手県の各地で今日も隠し念仏が根強く生き続いているようですが、隠し念仏とは真言宗の念仏信仰と真宗系の念仏信仰が習合したものとも言われており、和賀地方で信仰されている念仏は京都の鍵屋に起源を求める十数派の中の渋谷地派に属しており、派の中でも現在の奥州市胆沢町南都田に本部をおく渋谷地派は最大の組織のようである。渋谷地念仏講中の組織は二十二の教区からなり江釣子・藤根地区は第四教区にあり昭和五八年九月現在の記録では第四教区は励法員一名・講中数十六・導師十四名・脇役七一名・世話役二六九名とある。

当時、妻川地区でも4組ほどの組織があり西に位置する講中、菊池家(鑓水(やりみず))・八重樫家(羽場(はば))・髙橋家等の一族、菊池家((こま)()殿())の一族、東に位置する菊池家(観音堂(かんのんど))の一族は塚部落の数軒と、又伊藤家(新渡戸)の一族は宿部落を含む佐藤家一族などとの組入れがあり、その上に当たるのが御免町の佐藤家であったと記憶している。

講での主なる儀式・行事には、お七夜(報恩講)があり親鸞の病臥の日の十一月二十二日から二十八日の逝去の日までの七日間で、講中の全戸を回り阿弥陀如来本尊とする仏壇の前で導師(せんせさま)の音頭で親鸞の『正信偈』を唱和し、導師の奉読する「御文章」を聴聞した後、かんたんな精進料理と酒で会食を行っていた。

又、地区内で亡くなった人の通夜や火葬の前後・葬儀の夜などに「念仏申し」が行われ導師の音頭で勤行、「正信偈」を唱和、「御文章」があげられ、その後念仏和讃が誦唱された。檀那寺の住職による「表」の葬儀の一方で行われる講中の「裏」の葬儀でもある。

 特別な儀式としては「おもとつげ」(お元付け)、「おとりあげ」(御執務)などがあり、おもとつげは赤子の誕生後、できるだけ早い時期に導師によって行う入信式で、その子供が六、七歳に達する頃に行うのがおとりあげである、信心を獲得し即身成仏が決定するきわめて重要な儀式である、おとりあげの内容は導師から今日のことは他言してはならないと固く口どめされ秘儀であり、当地区でも昭和のなかば頃までは行われていたと記憶している。

 又、念仏申しは地区内に導師・脇役(おわきさん)の方々が亡くなってからは、行う所が少なくなってきている。妻川の住人の多くの菩提寺は隣の宿地区に鎮座の曹洞宗全明寺であるが旧家では先祖慰霊のご本尊は阿弥陀如来を金仏壇に荘厳している家が今もほとんどである、周辺地区でも同じではないかと思われるが、隠し念仏の深い信仰心の現れではなかったかとうかがえる。

(一部屋光昭著 隠し念仏参考)