猫とうさぎとわたしと昭和。 -153ページ目

中学統廃合。

またまたわたしの故郷、長野は飯山のお話を。


今年の4月9日新しい中学校『城南中学校』『城北中学校』の2校が入学式を迎えました。


もともと飯山には中学が3校あったわけなのですが、生徒数減少やそれに伴い


正規の教員の数が減って、学習環境が悪くなってきていたり、建物の老朽化などに


より平成14年ごろから統合の話が進められ、3校のうち2校は閉校、1校については


改修工事を行い校舎をそのまま使用し城南中学校として生まれかわりました。


そしてもう1校はわたしの通った高校が、耐震化工事、改修などを施し城北中学校と


して新たに生まれかわりました。


ちなみに下の写真がわたしの通った高校。長野県飯山照丘高等学校。


○昭和37年4月1日飯山南高等学校照丘分校として開校。


○昭和42年4月1日全日制になる。


○昭和49年1月1日独立をして県立飯山照丘高等学校となる。


○昭和54年11月新校舎が完成。

(今までの校舎は飯山北高等学校の旧校舎の資材を使って建築したため

念願の新校舎となった)


○2009年3月31日閉校。


閉校後飯山南高等学校と統合して長野県飯山高等学校となった。


校舎は南高等学校を使用。高校も3校あったが2校になった。


将来的には1校に統合する計画がある。


猫とうさぎとわたしと昭和。 border=

飯山市に中学校が3校
(飯山市立第一中学校、飯山市立第二中学校、飯山市立第三中学校)

が生まれたのは昭和40年頃。正確に書くと次の通り。

◎飯山市立第一中学校…昭和41年6月4日開校

◎飯山市立第二中学校…昭和40年6月1日開校

◎飯山市立第三中学校…昭和44年4月1日開校

一中の方が二中より後に出来たのは建設予定地確保に時間が掛かったため。

市民の反対意見や2校で十分だろうと言う意見などもあり工事がなかなか

進まなかった。一中はじつに完成までに5年もかかった。

そのため二中から先に建設を始める事になった。

この3校も今回城南・城北中学校のように統合中学校でした。

●飯山市立第一中学校…飯山中学校、秋津中学校の2校が統合。
(昭和36年4月30日限りで2校は廃校)

●飯山市立第二中学校…富倉中学校、柳原中学校、木島中学校、
       瑞穂中学校の4校が統合。
(昭和37年3月31日限りで4校は廃校)

●飯山市立第三中学校…太田中学校、常盤中学校、外様中学校、  
     岡山中学校の4校を統合。
(昭和42年3月末限りで4校は廃校)

新校舎が完成するまでは今までどおりの校舎を使用。

名称を第一(または二、三)中学校○○部校とした。(部校制)

(それぞれ○の中に秋津など学校名が入る)

開校後は遠くからの通う生徒のために寄宿舎が作られ、冬場(または通年)は

そこから学校へ通った生徒もいた。

その後道路が整備され、除雪体制も整いマイクロバスなどが通れるように

なった為寄宿舎は閉鎖。

◎昭和52年3月二中の寄宿舎が閉鎖。

◎昭和56年11月18日には一中の寄宿舎『至誠寮』が閉鎖。59年取り壊し

◎昭和56年11月20日三中の寄宿舎『蛍雪寮』は閉鎖。
(その後二中の給食センター建設の間だけ仮の給食センターになった事もある)


        

沢山あった中学校が統合され三つに。そして今回2つに。

通学距離6キロ圏内、冬場5キロ圏内に学校を建設するをもとに3校

必要だろうと言う事で作られたのだが、当時は1学年6クラスから7クラスあったもの

が平成17年あたりから2クラスになってしまい生徒数がどんどん減ってしまった。

昔の統合とはまた別の少子化の影響によっておこった統合。

これから先どんどん高齢化が進み子供の数が減少していく中、我が故郷は

一体どうなっていくのか。教育の場は今後どうなっていくのか。

課題がまだまだ多いような気がする。

それは春だから


猫とうさぎとわたしと昭和。-それは春だからさ
春になって虫が元気に飛び回っていますね

それを窓越しに見つけては歯をカチカチさせています。(笑)

最近は元気が良くて息子君が学校へ行った後になるとしっぽをぶわっさと

させながら部屋を走り回り押入れにジャンプをしてわたしと眼が合うと

威嚇しながらつっ込んできますサー・・・・ッ

元気なことは良いのだが背中とか爪あとがすごい事になっているんですが…


                     学校  学校

息子君は元気に学校に通っています。

学校のトイレが臭いので行きたくないといって我慢してきます^^;

まあ今のうちは午前で終わるのでいいけど午後も授業あるときはどうすんのさ~

あと和式トイレだからちょっと慣れていないせいもあって慣れるまでは大変みたい。

実家の弟に息子君学校でなにやっているの?と聞かれたので

和式トイレの使い方をやったみたいよといったら

「和式トイレの使いかったって(笑)」と笑われた。

うん。笑いたくなる気持ちわたしにも分かるよ

でもわたしの小学校の時には和式は普通だったんだよね

むしろ洋式のほうが珍しかったからね~時代の流れなんだよね

ま、慣れだよ慣れ。



北信州の廃村。

わたしの故郷長野の北の方、北信州と呼ばれている場所には高度成長の


煽りを受けた過疎化の影響などで「解散」(廃村)してしまった村々が存在します。


その幾つかを紹介していきたいと思います。


廃村リスト

◎昭和46年12月…屋敷、柳久保

◎昭和47年3月31日…沓津

        9月25日…南禅寺

        11月…田草

◎昭和48年10月31日…北峠

◎昭和55年11月26日…堀越

◎平成19年8月…堂平



猫とうさぎとわたしと昭和。-沓津
上記写真は昭和59年9月2日に沓津で行なわれた離村記念碑の除幕式の様子。
この記念碑は旧秋津小学校沓津分校跡に建てられました。
開校87年の歴史のある分校だった。高度成長の影響で生徒が1名になった為
昭和47年3月31日に閉校することになりました。
それに合わせて村も解散となった。
当時25戸あった世帯のうち13戸は市内へ12戸は市外へ移住した。

その他の廃村記録

◎南禅寺◎
昭和47年9月25日に区長宅で解散式を行なった。
数百年続いた南禅寺部落は9戸43人が集団移住することになった。

◎北峠◎
昭和47年10月31日に6世帯21人が集団移住をしたため解散。
300年の以上の歴史をもつ北峠の歴史の幕が閉じた。
北峠にあった外様小学校北峠分校も同日閉校となった。
最後の生徒2名とその担任の先生は外様小学校へ移った。
北峠分校は明治12年11月大日堂を仮の校舎にして発足以来93年間
山の分校として沢山の生徒生を送り出してきた。

◎堀越◎
昭和55年11月26日堀越村解散。
堀越診療所で解村式が行なわれた。
秋津村史によると正保4年(1647年)の検地帳に記載されているので
330年以上の歴史のある村だったようです。
最盛期には12戸あったが最後には2戸に。
その2戸も解村日には豊田村に移住してしまった。


森 森 森 森 森 森

先日実家へ帰った時に一番新しいと思われる住宅地図を購入したんですが

そこにはもうこの廃村の名前は載っていませんでした。

何年か前にものには名前が載っていたのですが名前が残っていたのが

南禅寺、北峠跡、堂平、だけでした。

沓津、屋敷、柳久保、堀越、田草はもうその名前はありませんでした。

でもかろうじてここにはかつて村があったんだよとという家屋跡が残されていました。

北峠跡には記念碑だけ記入がされていました。

なんだかこうして少しずつみんなの記憶からかつてここに村があったんだよという

記録や記憶が消えていってしまうようで少し寂しい気分になりました。


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市報を読んでいたら廃村する前の村々に関連のある記事を何個か

見つけたので紹介したいと思います。

◎昭和35年沓津など17箇所に農村公衆電話を引く。
電話の無い部落を無くすために昭和31年から始められているもの。
(沓津にあった公衆電話ってこれなのかしら?)

◎昭和39年1月7日秋津法伝寺前に第一中学校寄宿舎が完成。
堂平、柳久保、沓津、分道、堀越の生徒40人が入舎。

◎昭和40年9月市道田草・堀越線が完成。
田草部落と堀越部落を結ぶ道路が完成。延長6200m
(柳久保までの支線700mも含む)幅4m。

◎昭和41年6月市道田草・荒船間の幅員拡張工事中旬開通を目処に
工事を急ぐ。


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廃村となってしまった村も廃村前は人々が暮らすために、

道路がひかれ電話がやってきて市街地から離れていても

暮らしやすいように色々と改善されてきました。

そんな村々も何年かして廃村の道を辿ったわけです。