高校2年になった夫の子が東京に遊びに来た。彼と、我が家の4歳3歳さんは年の離れた兄妹で、彼は妹たちに一方的に慕われて、でも年が離れすぎていて話があうわけでもなく、小さな人たちのエネルギーを受け止めることでいっぱいいっぱい。でもいつも、受け止めて、本をたくさん読んであげたりしてくれて、その優しさに、心の中で感謝してる。


彼は音楽と本が好きで、私たちは4歳3歳のエネルギーの渦の合間に、会話をかわす。


次に行くライブの話とか、この前に家族でいった日比谷音楽祭の話とか、彼がバンドを組んでいてベースで、実行委員長の亀田さんの動画を見て椎名林檎の曲のベースの練習をしていることとか。


好きなものが重なる者たちの嬉しい情報交換のあと、


最近、お勧めの本ある?


ときくと、彼は


まだ読んでないけど、どこでも激推しされてるのが、成瀬は天下をとりにいく、です


と教えてくれた。その夜、さっそくオーディブルでダウンロードし、4歳3歳と一緒に8時半に布団に入り、聞き始めたら、大津と、成瀬と、京大と、浪人時代をともにした膳所高の仲間たちがありありと浮かんできて、笑ったり、涙がでたり、忙しかった。


こらえても思わずぶっと吹き出してしまって横をみると、熱発している3歳さんと、寝相が悪くて暑がりでタンクトップ一枚で寝ているもうすぐ5歳のひとがいる。


小説をきっかけに、あの、30年以上前の、京大に激しく憧れ、浪人し、でも落ちたころの激しい想いがありありと蘇る。胸が苦しくなるけれど、でも、あんなに激しい気持ちを抱けたことに、幸運のようなものも感じる。


そして、私の中に今もいる、小学生の私、中学生の私、高校生の私をおもう。私は小学生であり、3歳の人であり、そして50才の、2人の人たちのお母さんをやっている人でもある。


そのことの不思議を感じるとともに、なぜか、深く安堵した。

最近、早朝に近所を散歩している。

ワンピースのポケットに携帯と鍵だけを入れて、てぶらでブラブラ歩いていると、じわじわ開放感が込み上げる。


最寄駅は5個あり、ぷらぷらしながら歩いていたらどこかしらの駅に着く。どの駅のスタバも6時ではまだ閉まっていて、どの駅のマックも6時から開店している。


今朝、マックでイートインしてみたら、お店にはつぎつぎ、いろんな年代の男性たちが入ってきた。70代くらいのお一人さん、ウォーキング仲間と、オリンピックの「フェッシング」の話しをしる3人組は80前かな?(誰もフェッシングをフェンシングとは指摘しない)


頭に白いタオルをまいた、仕事前のような40代のおじさん。


私以外の全員の、昔、新しい人だった、男の子だった人たちが、それぞれ、なんだか、のびのびしているなかに、私はぽつんといて、ああ、この人たちも昔は新しい人たちだったんだ、と思う。


新しい人たちだった頃がなんだか目に浮かぶ感じがすると、なぜか私がこの人たちのお母さんのような、この人たちが新しい人たちだった頃、この人たちをみていたお母さんの目の中に私もいてそれをみているような、気持ちがしてくる。


うちの新しい人たちは今、手足口病で、4歳さんがなおってきたと思ったら、3歳さんが咲夜熱発。

でも、夜中におでこを触ったら解熱していて、少しホッとした。


あの人たちもいつか、40歳とか80歳になるのかな。そうであれば嬉しい。


そして、

朝のマックにいるこの人たちみたいに、どのようなサイズであれ、それなりに自由もありそうな日々を生きていてくれたなら。


そう思う瞬間、小さいけれど確かな幸せ、を感じました。そろそろおうちに帰ります。


暑い夏、みなさんが守られていますように。


大江健三郎さんがなくなったことを知ったのは、3月中旬。

 

ちょうど、仕事も家庭も結構マッチョでしんどいのを、2月中旬から、ハイテンションでやり切っていたのが息切れし、燃え尽きかけて、

「半休とって映画みてくる」といって「スズメの戸締り」の席についたとき。

妹からのLINEで知った大江さんの逝去は、燃え尽きかけていた私にはあまりにも寂しくて、

そのまま観た映画はあまりにきつくて、

フラフラになりながら、のろのろゆらゆらなんとか帰ったのが、2週間前の水曜だった。

 

大江健三郎さんが亡くなって辛い。映画の震災の描写も無理すぎた。

 

と、夫にいい、

 

もうご飯も作れない、疲れた。潜り込まないとだめだ。

 

というと、夫は、「それはまずいね」と状況の深刻さを理解してくれ、一人時間の確保や、一人で保育園の送迎をする、など、できることをしてくれた。一緒に暮らして5年たち、私という人間の脆弱さと、燃え尽きかけたときの孤独の必要性を痛感している夫は、私の感情や考えを理解することはできないけれど、私の重みを深刻に受け止めてくれるようになっていた。でも、私の受けた激しい喪失感に対して、日常での大江さんの死の取り上げられ方があまりに小さいと感じて、そのギャップの大きさにさらに呆然とした。

 

潜り込んでも私の疲れや悲しみは癒えず、「あれほどの方が亡くなっても、世界は、日常は、ほとんど何も揺れることなく進んでいく」というズレに、久しぶりに打ちのめされた。

 

そんな私を観ていた3歳の人がふと、

 

大江健三郎さんは遠くにいっちゃったからさみしいの?もう会えないの?

 

と言った。

彼女と2歳の小さな姉妹は、12月に転居と転園を経験し、「遠くにいく」ということ、「もう会えない」ということを体験した。

そして、それが「さみしい」という感情を生み出すということを知ったのだと、あらためて感じました。

 

彼女なりに私が夫に話す話をきき、「大江健三郎さんというひとは遠くに行ったのかな?」と想像し、お母さんはさみしいのかな、と思ってくれたこと、その言葉に、私は深く励まされました。

 

そうか、大江さんは遠くに行ったのか。この世界では、もう会えないし、リアルタイムで言葉を聞くことはもうできない(311の時に支えられたように)。だから私は、不安で、寂しいのか。。。

 

3歳の小さな人の問いかけにより、私の、底が抜けたような不安や虚脱感が形を成すことができた。

 

そして、

 

遠くに行かれても、もうリアルでは会えなくても、私は彼の作品を読むことができるし、その作品の中で対話することもできるんだ。

 

そう思うと、少しだけ寂しさが和らいだ。

 

遠くに行かれたけれど、私が大江さんを忘れない限り、大江さんはいなくなるわけではない。そして、私も多分、そのように生きて死んでいくのだろう。それはとても寂しいことでもあるけれど、それでいいのかもしれない。

 

そう思いました。フルタイムで復帰してから1年半。時間的貧困に落ちいり、何度か燃え尽きかけ、そこから復帰し、今私がいる場所は、トランジションの最中。

できる限り焦らず、この空白を、大切にしたい。

そして、空白の中にあっても、彼女らの尊さをしっかり目に焼き付けておきたい。

そう思いました。

 

 

 

 

 

 

 

7月23日に発症した新型コロナから、日常に少しずつ戻りつつあります。

28日からホテル療養に入り、数日40度近くの高熱と頭痛、下痢、味覚嗅覚障害が続き、ホテルでも要注意対象になっている期間もありました。

発症から1週間経っても高熱が続いているとき、たまらなくなり、

どうなるんでしょうか。

と聞くと、


悪くなるか回復するかの瀬戸際です。このまま熱が下がれば回復するし、さらに悪化する可能性もある。救いは、酸素飽和度が高いことです。がんばりましょう!

そう、静かに、でも励まされるトーンで看護師さんに言われ、フラフラの身体と頭で横になる。時間がくると、ドロドロの身体で、なんとか食事と解熱剤の薬の差し入れをとりに行く。薬の差し入れに、多分、先ほどのお電話の看護師さんからの、

がんばろう!^_^

という手書きのメッセージをみたときは、泣きました。

生きて家族のところに帰りたい。
あの人たちをハグしたい。

それだけが、私の希みでした。

そして、発症から10日目にようやく熱が下がり、8日間のホテル療養を終えました。

ホテルを出たとき、太陽がとても眩しくて、アスファルトが熱かったこと。
おうちについたとき、小さな人たちが、不思議そうに、眩しそうに、でも嬉しそうに、私をみたこと。なんだかお互い照れくさくて、ハグもちょっとぎこちかなかったこと。

まだ思い出せるけれど、もう今では少し遠くに感じるくらいの時間が経ちました。

後遺症があり、はじめはすぐに横になっていた私も、少しずつできることが増え、もうすぐ2歳の彼女と歌にあわせておどったりもできる日々。この日々に、帰ってこれました。

私が入所している間、夫と新しい人たちが煮詰まると、音楽を聴いていたそうで、
彼女は私の留守中に、音楽、という言葉を覚えていました。

おんがく!

と彼女が言うのは、CDをかけてほしい、という意味で、プレイボタンを押すと、流れてきたのはロットバルトバロンの、けものたちのうた、でした。

2人目の新しい人が出てくるときに、帝王切開の手術中かけてもらおうかと思っていた、ロットバルトバロンのアルバムの音楽は、彼女たちに、夫に、優しく寄り添ってくれた。その音は、私にも、染み込んできてくれた。

音楽や、本や、絵本が、こんなにも、私たちを助けてくれるとは、想像していませんでした。

どうか、今、コロナやいろんなことで苦しい最中にある人たちのそばに、寄り添ってくれる何かがありますように。

死にたくない、と、思うその人に、優しい眼差しと愛情が、なんとか届きますように。

不安と孤独は去らないけれど、一瞬でも和らぐときがありますように。

そう、心の底から願っています。
新型コロナに感染していました。
昨日、PCR検査の結果が出るまで、体調があまりにおかしく、日曜あたりから、

これはもしかしたら。。

と思うときもありました。私は、本当はわかっていたように思います。

でも、

あこれだけ感染症対策をして、これだけどこにもいかず外食もせず、保育園と家の往復で、スーパーにすら行っていないのだから、かかるはずがない。

と自分に言い聞かせていた。信じたくなかった。

1歳9ヶ月の彼女は私と接触できないのが本当に辛そうで、始めの2日は泣き叫んでいましたが、昨日はもう、諦めたように、虚ろでした。私も何度も泣きました。

お母さんもギューしたいよ
でも、お熱があるからできないの
大好きだよ
ずーっとずーっと大好きだよ
また元気になったらギューして、一緒にネンネして、遊ぼうね

と、泣きながら伝えると、泣き止み、うん、と言った日曜から、あまり泣かなくなったけれど、とてもとても寂しそうで、

私も、毎日毎日、おうちにいるときは、身体のどこかが常にくっついているような感覚だった1歳9ヶ月の彼女に、触れられないのが辛すぎて、診断をきいて、あとこれが少なくとも1週間も続くことに絶望しそうになりました。

もうすぐ6ヶ月の新しい人は、あまりわかってないのか、遠くから私の顔をみるだけで嬉しそうにバウンサーを揺らして、その笑顔に力をもらっています。

感染経路不明で、スーパーにすら行っていなかった私が、感染。本当に、みなさんが感染されないことを願うばかりです。

ずーっとずっと大好きだよ

この言葉は、私と彼女が大好きな絵本のタイトルでもあります。そして、毎晩寝る前に私が彼女に話していた言葉。

だーいすき。
ずーっとずっと大好きだよ。

そう話しかけながら、いつも、こころのなかで、

私が死んで、骨だけになっても
でもいつも好きだよ
だから大丈夫

と思っていました。

彼女たちの声はドアの向こうのすぐそこに聴こえて、そこにいるのに、私は自宅内隔離で部屋に閉じこもり、触れられない今の環境は、ほんの少しだけれど、私が彼女たちより先に死んでしまったときに似ているかもしれない。

私たちのところに来てくれた、この新しい人たちに、どうか私の想いが伝わりますように。

ホテル隔離になっても、私がこの世界から消えたわけではなく、この世界にいて、彼女たちを変わらずずーっとずっと大好きであることが、どうか、少しでもわかりますように。

そして、どうか、わたしが骨だけになるのは、もっと先でありますように。

短くてあと6日、症状が収まり、自宅内隔離やホテル隔離を終えて、彼女たちをハグする日を夢見て、この地獄のような日々をなんとかのりきれますように。

そして、全てを見てくれている夫と新しい人たちが、守られ、健やかなままいけますように。

安心して2人を委ねられる夫と、新しい人たちと、この世界で同じチームになれた奇跡に感謝しています。