大正11年生まれの父は尋常小学校を卒業すると同時に、隣県の港町にあった炭屋に丁稚奉公に出された。

農家の八人兄弟の次男として生まれ、幼い弟妹達の為の口減らしとして米二表程の前渡しを代として二年の奉公に出された。


盆正月薮入りなどにわずかな小遣いをもらったそうだが、その待遇は過酷で牛馬の如く働かされたそうだ。

ある時その頑張りも尽き、店の自転車を持ち出して100km程の道のりを実家まで逃げ帰ってしまったとか。

すぐ奉公先から使いが来て、親にも説得されて店に戻ったそうだが、仕事の厳しさは変わらず、ただわずかに給金が出るようになったのだとか。


父は辛かったことをあまり口にしない人で、その当時のことも詳しく聞いたことはないのだが、徴兵検査を受け軍隊に入る18歳頃まで、そんな少年期を過ごしたらしい。

そしてその過酷だった時代が父のハングリー精神を育んだ。


軍隊では輸送部隊のトラックの運転手をし、戦後、復員するとガムシャラに働き資金を蓄え、薪炭を商う店をかまえた。

今でも、父を知る人は口をそろえて「あれほどの働き者はいない」と言う。


当時トラックの運転手というものは徒弟制度の風が残っていて、まず助手として働き、運転のコツを盗んで覚えたのだと、これは父から直に言われ、私もトラックの運転をそんな形で覚えさせられた。

今なら自動車教習所で習うのが普通だし、私の頃もそんな教習所があったはずだが、そんな昔風な教わり方をした。

若い頃の父は軍隊時代の気風丸出しでクラッチの合わせ方がまずいと皮の長靴で蹴られたとか、そんな話を聞かせる年寄りもいる。


戦後、木炭車の時代が終わると六輪車と呼ばれるデフをふたつ備えた走破力に優れたトラックが主力になり、今は国道になっているが、当時、馬車より大きな乗り物が入ったことのない隣村の道に初めてトラックを乗り入れたのは父だったそうだ。


それは輸送力で同業者に差をつけるという軍隊時代の経験を生かした戦略だったらしい。

ただし砂利などほとんど入っていない道は荷を積んだトラックの重みを充分に支えてはくれず、タイヤがめり込んで立ち往生することしばしばで、昨日は2回、今日は3回、と帰るとその脱出劇を聞かされるのが母の日常のひとこまだったらしい。


町と山村とを往復する父のトラックは本来の薪炭の輸送以外の役目も多く、山村の生活必需品、たとえば乾麺、押し麦、醤油、塩砂糖、そんなものを頼まれて運んでもいた。

それを「上げ荷」と称していたけれど、卸問屋で仕入れていたから、あれも結構利益を生んでいたことだろう。


バスなど当然通わない道だったので、父のトラックを頼りにする人々も多かったらしい。

その心付けとして得た金は父の上着のポケットに入れられ、帰宅した父の上着のあちこちから出てくる小銭を数えるのが母の楽しみだったとか。


もう10年ほど前のことだが、仕事である山林家を訪れ名刺を差し出すと、そこのおばあさんが目を輝かせて父の名を言い「あの人の息子さんなの?!」と感嘆の声をあげたことがあった。

聞けば、そのおばあさんが嫁としてその家に来た時、嫁入り道具と共に乗ってきたのが父が運転するトラックだったそうなのだ。


当時、酒酔い運転の取り締まりなどあまりなく、酒気帯び程度は許される時代だったとかで、木炭の仕入れに行くとドブロクを出す家が多かったという。

それは売値を少しでも有利に、という炭を焼く側の思惑も感じさせる話なのだけれど、小学生の頃から戸棚の酒をこっそりと飲み、丁稚小僧の頃は部屋に一升瓶が転がっていたという父にとって、出されたドブロクを断るということは有り得ないことで、それ故に積荷ごとトラックを横転させたことも二度三度あったらしい。


普段はまじめな顔で仕事一筋、冗談も言わない父が、酒に酔うとやたらとにこやかになって息子達をチャン付けで呼んでみたり、そのあまりの落差に戸惑うことがしばしば有り、決して悪い酒ではなかったが、教育的にはあまり褒められたものではなかった。




私が学生生活を終え家業についたのは父が55歳の時だった。

そして今、私も55歳。

時の流れに感慨を深くしている。