思い出の町を、
離れる日が近づいた。

27年前。
この町の谷間で、
ひっそりと、
私たちは暮らし始めた。

夫の帰宅を待つのが辛く、
日付が変わる頃、
何度も、何度も、
私は家を飛び出した。

凍える雪の中、
夫は、肩に、頭に、
雪を積もらせて、
外で私の帰りを待った。

「寒かったでしょう」
「帰ってくれてありがとう」
「おうちへ入ろう」
急いで私の手を取る夫。

心配顔の夫の目。
涙ぐみ、嬉しそうに見えた。

言葉を信じない私が、
息も凍る夜の、
この人の「いまの目」を、
信じたいと思った。

そんな日々から、
4ヶ月後。
南の島へ転居。
島での耽美な生活は5年。

夜の海辺、
潮騒を聞きながら、
なんど、歩いただろう。

眩しい太陽のもと、
青い、美しい浜辺で、
森の、涼やかな木陰で、
なんど抱き合っただろうか。

たくさんの島々を旅した。
私を見つめる優しい目が、
風景の中に、あった。

都会での生活に戻り、
風景は変わっても、
雑踏の中に、
私を見つめる、
あの優しい目は、あった。

夫は、仕事中でも、
時間を見つけ、私を誘った。
楽しく食事をして、
夫が、仕事に戻る時も、
人ごみの中、
見えなくなるまで、
あの優しい目は、
私の姿を追っていた。

出社前、帰宅時、
抱き合い、キスをした。

ベッドの中で見つめ合い、
キスを重ねながら、
腕の中で、眠りについた。

朝、ベッドの中。
ゆるい、まどろみは、
私の好きな時間だった。


夫の私を見る目。
変わらぬように見えた。
おどけたり、
急に真顔になったり。。。
出会いから、凡そ30年。

が、しかし。
私の知らないところで、
私の知らない夫がいた。

私の知らぬ、ずるい夫は、
「なにごとも無かった」
ように、全てを包み隠し、
私と「二人だけの関係」に、
戻りたいと考えたと言う。

夫が、別れようとすると、
「家に電話する」「家に行く」
「会社に(不倫を)バラす」
相手は拳で殴りかかり、
大声で、喚き散らしたと、
夫は言うが(相手も認める)
身動き出来なかったのは、
他でもない「夫」だ。
「ハレーションが怖かった」
にしても、長い4年間。
フェードアウト狙いなら、
夫の「ずるさ」だ。

「離婚されても別れたくない」
言葉を信じなかった私は、
言葉を信じたいと思った。

でもそれは、あまりに、
孤独で、過酷な道のりであり、
私は、無理を重ねすぎた。

ある日、事実を知った時、
夫を思う心が、
自分自身を深く傷つけた。
私は、暗闇に放り投げられ、
呆然と立ちすくみ、
ただ、ただ、惨めだった。

「死」が、
毎日、近くにあった。
いっときも早く、
私は、楽になりたかった。

そのようなとき、
末期ガンにあった、
母が、私を救ってくれた。
思春期に被爆した母は、
病の床にあっても、
「生きたい」と祈り、
静かに「死」と向き合った。

そして、母の「生」を、
私は、腕の中で見届けた。

息をしていない母に、
慄き、抱いて揺さぶり、
「息しようね」
と、私は頬ずりをした。
「うん」と、母は微かに言った。

誰もいない、夜明け前の病室で、
母は、私に「生きて」と、
最後に、伝えたのだ。
私の深い孤独を知る母が、
「うん(私も生きるから)」
と、微かな返事をした。

今年も、母の命日を前に、
私は「生きる」ことを誓う。

「よく生きたね」
そう褒めてもらうため、
残る時間を、無駄にしない。


暮らし始めたこの町。
転勤族の夫と共に、
10回以上の、転居をし、
流浪の生活の中で、
5回も暮らしたこの町には、
幸せな記憶が溢れていて‥
忌まわしい現実は、
それを、残酷に覆い尽くし、
黒々と塗り替え、
繰り返し、私を苦しめる。

幸せなこの町での記憶が、
行くてを阻む、
大きな怪物と化した。

私の知らぬ夫が、生きた町。
いまも、相手女が生きる町。
夫の、唯一の子を産んだ、
不倫を繰り返してた女の、
あの図々しい、息づかいが、
嫌でも目に入る町。
今もテレビから、新聞から‥。

私には、あまりに悲しい町。

生きにくい、この町を離れ、
私は、幸せになりたい。



どんなに人を愛しても、
人の人生までもを、
自分のものとすることは、
できない。
それを、私は分かっていた。

私は、夫の目を見つめた。

陳腐な言葉よりも、
多くを語ってるように見えた、
夫の目を見るのが、
私は、とてつもなく「怖い」

相手の気配を、今も感じる、
この町にも、疲れ果て、
「暮らせない」と思った。

私のこれからに、
もう「夫はいない」
そう思ったとき、
やっと、私は楽になれました。

ひたむきに、人を愛す、
自分であることを、
諦めたわけでもありません。
あの優しい目を愛した歳月は、
私が生きた「真実」

自分自身を守るため、
「苦しみから逃げ出す」
に、近いのかな‥‥。
自己愛でも、良しとします。



移住先が決まりました。
忌まわしい、この町には、
私は戻らないでしょう。

新婚時代、
転勤で、南の島に向かう時、
夫は船を選びました。
初めて乗った「特等室」
それから何度も、
二人きりの船の一室で、
波に揺られ、夜明けを迎え、
私は、とても幸せでした。



移住先には船で向かいます。
今月末です。

訳あって、井上陽水は、
嫌いになったけど、
『冷たい部屋の世界地図』
を、今は口ずさみたい気分。
 
 はるかな はるかな
 見知らぬ国へ
 ひとりでゆく時は
 船の 旅がいい〜♪

もの悲しい旋律ですが、
私に悲壮感はありません。

誰かと肌を寄せたい、
孤独な夜も、
やるべく事が沢山だから、
乗り越えられる気がします。



生意気にも、3LDK!
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