AがBを傷つけた時、自分には「Aが悪い」と批難することしかできず、本当にしなくてはいけないことはBを守ることなのだけれど、僕はゲーテが云うところの「やりたいことはできないし、できることはやりたくない」を履き違えた潜在的失業者なので、「できること」さえできず、タイミングとゆーものを手も振らずに見送っている。
いや、いた。
後悔先に立たず。それは百回言われようとわかることではない。かといって、一見して覚えられるようなシロモノでもない。同じ間違いを百回繰り返して、今度こそは!を百回呟いて、溜りに溜まった取り返しのつかないツケが回ったところで身に沁みるんだ。
言えなかったことで責められた。
言えなかった理由を考えた。
「責められる」と思ったからだ。
どうやら噂では、人間が変わる方法は3つしかないらしい。
1つ、時間の使い方を変える。
2つ、住む場所を変える。
3つ、付き合う人間を変える。
そして最も無意味なのは「決意を新たにする」ことだという。
真っ先に改められることというと1つ目の時間の使い方。人の一生は3万日。手元にあるなけなしの3万円をどう使うのか、考えている間にも1円ずつ減っていく預金残高をどう投資していくのか、そこなんだ。
「もし記憶そのままで人生やり直すことができるなら」、あぁ、丁重にお断りするね。気持ちだけ受け取っとくよ、クロノス、ホーラ、アイオーン。僕には今からできることがある。「この人生、記憶は消されてしまったけどやり直してる最中なんだ」と思うことで、後悔が過去の物ではなく、来るべき物に変わる。「後悔しないようにいつも明るく前向きに」という常に後ろめたさを感じながら生きる人生を歩むことができる。昔、友達が、生まれた時から余生が始まる、と歌っていた。人の一生は、手元にあるなけなしの、使い道を考えている間にも1円ずつ減っていく3万円の預金残高。
生き方なんて自由だ。
だのに何でこんなにも「何かを成さなくては い け な い 」ような感覚に苛まされているんだろう。他の人っていうのはそんなに考えていないのだろうか?人に話すだけばかばかしいのだろうか?
学生の頃、自由について調べたことがある。うろ覚えだが。
キルケゴールは自由を絶望とした。人間は実在的存在であり、存在を失う自由があるとした。いつかは失われる自己に当途ない不安を感じ、人の力では抗いきれない絶望によって神と接触できるとした。これだけでわかる通りキルケゴールは熱心なクリスチャンでちょっと高尚すぎた。
イマヌエル・カントは自由を、欲望ではなく理性に従うことだとした。欲望のままに生きると予定調和でしかない、性にとらわれた、因果の中。理性の決定を実践することで因果を越えたその人そのものの生き方を得られる、それを自由と呼んでいた。認識論の説明は日本語だとどうしても仏教ライクな語彙が多くなるのだけれど、それが(認識に誤謬を生んでいても)余計に自由については飲み込みやすかった。
サルトルは自由を束縛だとした。人間が人間であるということは絶えず実在的存在であり続けるということであり、また絶えず選択をし続けなくてはならないとした。何かを「選択できる」自由とは、何かを「選択しなくてはならない」自由だ、と。これをアンガージュマンというのだけれど、ようはババ抜きだ。相手の手札の中から好きなのを選んでいい、けど、「選ばない」という選択はない。この、サルトルの云う自由が一番自分にしっくりくる。
自分のやりたいことを断念することで、いい人間であろうとする。そんなカードばかり切っていた。
いつも手札の所為にして。

反省していない合衆国なのか?
はたまた、学ばない日本の輸入企業なのか?
或いは、そう、戦争を知らない消費者なのだろう。
デスレインが売っている。アインシュタインが好んだHARIBOも売っている。森ガールがステータスシンボルに用いる熊の生首も売っている。そして何よりも怖いのは、あの、雰囲気。特に用もないのに行ってしまう、必要ないのに買ってしまう、あの、雰囲気。
好きで行っているのは最初の内だ。珍しい雑貨、珍しいコスメ。大してお菓子の種類も知らんのに、でん六=豆菓子という暗算もできんのに「お菓子好きだしー」でロクに読めもしないパッケージのお菓子を貪る。常用なんてものはすぐに濫用に挿げ変わり、「ただそこで消費をしたいだけ」という気持ちを認めないまま少女たちは今日も青いビニールを引っさげて帰路をゆく。
またはその足でビレバンにでも行く。
そう、戦争を知らない僕達は。