震災から一週間が立った。
その間何か言うべき事は沢山あったのかも知れないが何も言う事は出来なかった。
沈黙以上に自分の感情を表現する言葉が見いだせなかった。

一つ確実に言えることは,自分達の中で何かが決定的に変わったであろうということだ。
何が変わったかは人それぞれぞれだろうし,一言で括ることもでいないと思うが,震災前と後とでは生き方や感じ方が何か深いところでもう同じではあり得ないように思えるのだ。表面的にはパンや牛乳が直ぐに売り切れたりと言った事以外は同じ生活に戻って行くのだろうが。

会社では震災の影響が話題になっている。震災地に工場や部品関連の会社が集まっており,操業開始の見込みがなかなか立っていない。自分も含め今後大変な事になって行くだろうとは思う。それでも,被害に遭った人達ではなく,工場のラインや部品を話題にするというのにはどうしても馴染めない。
だと言っても一緒に「そうですね」と相づちをうちつつもできるで,だけはやくその話題から逸れるくらいしかできないけれども。
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震災の当日買ったCDを昨日ようやく聴いた。
丁度昼時に銀座のオフィスから自分のいるオフィスに移動だったので,銀座の店に立ち寄って買ったのだが,自分のオフィスに戻って会議をしている途中に地震が来た。

それからの混乱で音楽を落ち着いて聴いていられる状況ではなかったのだが,そろそろ音楽を聴いても良いのではないかという気分になったからだ。

日本人バイオリニストの庄司沙矢香さんがレーガーとバッハの無伴奏バイオリンのための曲を書いたものを集めた物だ。
全くの偶然だが,このアルバムを聞いていると震災のレクイエムの様に,震災の痛みと悲しみと,そこからの蘇生の祈りの音楽のようにしか聞こえなくて,このアルバムばかりを聞いている。

庄司さんの演奏をちゃんと聴くのは実は今回が初めてだが,独特の音の純度の高さがあるように感じる。単に綺麗な音ということではなく,一切の夾雑物が入らず,バイオリンの音だけが何も無い虚空で鳴っている様に感じる。
この純度を得るためにどれだけの時間と努力が必要だったのだろうか,と思う。

レーガーは初めて聴いたのだけれど,バッハの無伴奏バイオリンや平均律を下敷きにしながらも,そこに20世紀的な苦悩や苦さが混じり混んでおり,古典的だが一方で作曲家の極めて個人的な内面の吐露が現れた独特だと思った。

アルバムの最初の収められている「プレリュードとフーガ2番」のプレリュードの冒頭の和音の苦悩は,あたかも何かの鎮魂のように響く。その後のフーガでは光を希求するような希望を感じる一方で,やはり光に辿り着けない絶望感が漂っており,曲全体としては悲しみの陰が濃く滲んでいる。

一方のバッハはソナタの一番と,パルティータの1番と2番の3曲が収められるが,レーガーとは印象が全く異なる。もっと,個人の苦悩や悲しみを超えたもっと普遍的な何かが現れているように思う。

彼女程の力があればもっと個性的に弾くことはいくらでも出来るだろうが,それをあえてせず只曲に寄り添い,曲の持つ力を引き,解き放とうとだけしているように自分には感じられた。

彼女の極めて純度の高い音で,バッハの書いた音だけを引き出そうとした結果,とても独特の世界が生まれたのだと思う。ただ空間のなかにバッハの音楽だけが広がってゆくのは,例えるならば,何もない無限に広がる荒野のなかに一本の木が後背から光を受けながら屹立しているかのようだ。

何もない空間にただ音楽だけが広がって行く。

タルコフスキーの最後の映画,サクリファイスの中に川からの光の反射を背景に一本の木が立っているという印象的なワンシーンがあったけれど,彼女のバッハから受ける印象はそれに似ている。


だから彼女の演奏の印象は長いとも感じるし,短いとも感じる。
無限に広がる音のタペストリーを切り取ったような演奏だから,いつまでも続いて行くような印象があるという意味では長いと感じるし,それがたまたま数分で切り取られているという意味では短いと感じる。最初にパルティータ2番のシャコンヌを聴いた時はあまりに短く感じたので,どこか端折っているのではないかと感じたほどだ。

2枚組のアルバムだが,曲の並びがレーガー,バッハという並びで徹底されている。
レーガーの音楽が現代的な苦みを感じるのに対し,バッハはより普遍的な永続的な物に向かってのびてゆくような印象がある。

あたかも苦悩の後に永遠的な物を希求するかのような曲の並び。
庄司さんがそういう狙いを持っているのかは知る由もないが,今のこの時のための作られたアルバムのように感じ,何度も何度も聞き返してしまうのだ。
人から聞いた話だが。

家の近くに重症心身障害者の人達が通う施設がある。
一人では食事をとることもままならないような子供たちを受けて入れている施設だ。

ここにもうじき通うという人が事前体験をした時のことの話を聞いた。
ここに通う人達の夢はなんだろうと思い、所員の方がお母さんに夢はなんでしょうかと聞いたところ、横須賀にあるダイエーのショッパーズ行くというのが答えだったそうだ。

そして、施設から帰ったその日のよる容態が急変し、亡くなってしまったと聞いた。

夢は適わないから夢なのだとも言えるが、夢というにはあまりにささやかで、それすら適わなかったというのは、なんだか堪え難いことのように思えた。

だから何かができるわけでも、何かを変えられるわけでもない。こんな事は世界中で数多く起こっていることだろう。でも,このような不条理を変えることができないのかというやり切れない思いをぬぐい去る事はできないし,いつまでも心の隅にわだかまっている。

それでも明日になればつまらないことで不平を漏らし,大切な時間を無為に過ごすだけの自分がいるのもわかっていはいるのだが。

それでも時には問いかけたい。自分の夢は何だろう?あなたの夢は何だろう?

昨日は夕食に鍋を食べたのだが,鍋に会うワインが見つかったという話。

和食に白ワインをあわせることも最近では珍しくなくなったが,実は和食にあうワインはあまりないと思っている。ブルゴーニュの白は,和食にあわせるにはブーケが立ちすぎるし,アーモンドのようなナッツ類を思わせる濃厚な味がそもそも淡白な和食にはあわない。

やはりブルゴーニュの良い白はフォアグラやチーズとあわせるべきものだろう。

ブルゴーニュでも生ガキとあわせられることの多いシャブリという手もあるが,こんどは酸味のシャープさが立ちすぎて,生ガキに限らず和食の味を引き立てているとはとても思えないのだ。

ということで和食にはやはり日本酒だという平凡な結論で落ち着いていたのだが,昨日は妙にワインが飲みたくなり,鍋を作っている途中で急遽葉山のスズキヤに走った。

普段は赤しか飲まないので,鍋の具材を流し込むなら安物で十分だと思い,680円のポールローランというブルゴーニュの白を買ったのだが,これが思いもかけない拾い物だった。

ブルゴーニュで680円という値段だけでいやな予感がするし,それに輪をかけてポールローランなどというあまりにもありふれた名前(日本でいうなら山田太郎というような感じか)に輪をかけてやな予感がした。
(あまりに平凡な名前なので,少したったら,ピエールローランなのかジャックローランなのかも思い出せなくなりそうだ)

しかし,開けてみたら,全く癖のないワインで鍋物に実にあう。
酸味が強すぎることも,アルコールが出過ぎることも,ブーケが立ちすぎることも,つまり全く自己主張がなく,ただただ料理の引き立て役に徹してくれる。

これがあの自己主張の強いフランス人の作るワインだろうか,日本人が作ったんじゃないかと思ったくらいだ。しかも強すぎない酸味が口の中をさっぱりとさせてくれるので,鍋もワインも良くすすんだ。

普段は2日で一本というペースなのだが,気がつけば一本空いていた。

自己主張しないワインなので,ワインの味自体は実はあまり思い出せないのだが,鍋物とワインの組み合わせであれば試して損はないと思う。