朝からとんでもない秋晴れになった、11月某日。阿賀野市の旧安田町に行ってきた。

 新津に住む私からみると、安田は以前ふらりと行ってみたら、昔風の街並みを楽しめたところ。当地に行くのは約10年ぶり、ちょっと懐かしい感もある。

 羽越線(数時間に1本しか走っていなかったり2人掛けのボックス席があったり、非日常感を味わわせてくれる素敵な路線)の水原駅で下車し、市営バスでいざ安田へ。分田(ぶんだ)~千唐仁(せんとうじ)線というのに乗ったけど、目的地までの各集落を網羅するように走っているようで村々の街並みをくまなく見せてくれるから、ものすごく楽しい。

 越つかの酒造や、登録有形文化財にもなっているお屋敷(明治天皇行在所だった)がある分田を抜けて、千唐仁~小浮のあたりで、バスは阿賀野川を見下ろす土手を走る。ここの風景がすごくいい、観光資源にしてもいいんじゃないかってぐらい。

(嘘だと思うなら乗ってみてください、「のってたのしい阿賀野市営バス!」とか呼びたくなるはずです。クルマ移動や普通の路線バスでは味わえない楽しさがあります)

 

 

 そんな感じで楽しんでいるうちに、バスはいよいよ旧安田町の中心市街地へ。大合併前の町名は安田で、字名として今も残る地名は保田。なんだかややこしいが、当地は大火に見舞われることが多かったので、厄よけ的な意味で地名を変えているうちに今の表記が定着したらしい。

(市外の人には「安田」の方が通りがいいような気がしないでもないので、表記は「安田」で統一します)

  10年前に来たときは、吉田東伍記念博物館に行った(今回も見学させていただきました)。そのほかいろいろ歩き回って街並みを見たと思うけど、いまいち記憶があいまいになっている。

 でも逆に新鮮な気持ちで歩けるから、それはそれでいい!

 

 

 

 三度栗の伝説で有名な孝順寺や、銀行の向かいにある邸宅(現在はレストランとして使われているらしい)やいかにも老舗な感じの商家等々、安田には古くてどっしりした構えの建物がたくさん残っている。吉田東伍記念博物館のちょっと先に、森に囲まれた古ぼけた洋館があったり。

 孝順寺は「お寺として建てられたものではなく、元は一般の方の住まいだった」みたいな話を昔うっすら聞いたことがある程度で、当地の大庄屋・斎藤家のことを恥ずかしながら初めて知った(古い街並みや建物は大好物なのに、セレブと呼ばれる層の人々についてはどうも疎い)。いうまでもなく、孝順寺は斎藤家の旧本宅。

 

 

 

 

 格子戸や板塀やホーロー看板や、近代風な何かが加わらずに昔のままの姿で歩いてきた感じの街並みが見れるのは、すごく貴重だと思う。

安田はすぐ近くを阿賀野川が流れ、川港の町兼宿場町として栄えた土地。もちろん宿がたくさんあったし、芸妓さんがいた時代もあったらしい。鉄道が通らなかった、だからこそこの街並みが残ったのかもしれない。

 

 安田といえば、

・ヨーグルト

・瓦

・風強い。

 ぐらいしか思い浮かばず、本当に何も分かってない。でも、今回は行かなかったけど瓦ロードや、その近くに新しいレストランもできたりで、新旧いろんな楽しみがある素敵なところなのかもしれない。

 とか思っていたら、11/21付(都会のほうは20日付)の新潟日報夕刊の特集が安田だった。安田がなかなか素敵な街だということ、やっぱりみんな分かってらっしゃるんだ、と思うとなんだかうれしい。

 

 

 

参考:「安田町史」民俗編、近代編1・教育編

 

総延長が10km以上あるという、上越市高田地区の雁木。

これまでは、高田駅近辺にある3本の目抜き通り(仲町・本町・大町)と城下町の雰囲気がそのまま残っている東本町~関川にかかる稲田橋の手前をさんざん歩いてきた、八割方は踏破したのだろうか。

今回は未踏のエリア、北本町(陀羅尼新田という旧町名に惹かれる。レトロな雰囲気の街中華で食べた中華丼もおいしかった)と老舗の飴店「高橋孫左衛門商店」がある南本町も歩いてきた。ここまでは高田駅寄り。

あとは関川を渡った先にある一角、稲田~戸野目のエリアだ。ここを歩けばようやくコンプリート、となる。当地でいただいた資料や古い地図を見ると一目瞭然で、高田のお城を囲むように南北にのびる道の脇に家並がびっしりと描きこまれ、それは関川を渡って東のほうにまで続いている。その距離の長さ、そして今もしっかり残っていることに驚かされるし、やっぱり歩いてみたくなる。

 

高田駅前からバスに乗り、「稲田2丁目」のバス停で降りる。いかにもバス通りらしく道幅が広いし、雁木ではなくアーケードが連なった今風の街並みだ。

そこからまずは道なりに、戸野目方向に歩いてみる。戸野目には「旧小柳医院」という立派な建物もある、と小耳にはさんだのもあり。

でも歩いている道が、ザ・幹線道路、という感じで、そういう建物が近くにあるとはとても思えない。道沿いにはCMソングも有名な老舗菓子舗にコンビニ、バイパスのガードをくぐればラーメン屋さんにスーパー、100円ショップ。もちろん雁木のガの字もなく、やたら見晴らしがいい。通りをちょっと離れると田んぼが広がっているようで、建物が途切れたところから見える田園風景と我が地元にもあるようなお店、という景色を見ていたら、若干の味気なさと不安が募ってきた。

歩く時はあんまり地図を見ない、というかスマホの地図を見ながら歩く習慣がない(おばちゃんなので)。不安がありつつも、当てずっぽうに歩くのも楽しい、とか思ってしまう。そんな感じで、広い道をさらにずんずん進んでみたが、さすがに「間違えたんじゃないか」と心折れそうになった。

その矢先に、道路標識に「戸野目」の文字を見つけた。通りの左側を見やると緑がわさわさしている一角があり、直感というかなんというか「ここかな」と思った瞬間、があった。細い道を左に入ってみる。

まさにそこ、だった。小路に入ってすぐのところにあった板壁の建物が、旧小柳医院。病院らしさがある建物なのかと思っていたら昔ながらの風景になじむ木造建築だった、当初は米問屋として使われていたらしい。

 

医院の前の左右に、さらに道がのびていた。ちょうど戸野目地区の真ん中辺りなのかな、と踏んでちょっとうろうろしてみる。

お地蔵さんのお堂に戸野目小学校創立の地だというお寺、鎮守の森と赤い鳥居、その奥には神社。社地の向こうにはやはり田んぼが広がっていて、農村集落のはずだけど城下町の中心部そっくりの街並みが広がっていることがちょっと不思議だ。道の突き当たりには、戸野目小学校があった。

地蔵堂のすぐそばに、道路元標があった。「津有村道路元標」と彫られている。

 

後で調べたら、戸野目や隣の四ヶ所は旧津有村。ちょっと歩いてみると、便利な農具を発明した方や結核予防の研究に励んだ方など、いろいろ貢献した方を輩出した土地であることを示す案内板がそこかしこにある。のどかながらもキリッと意識高く、な土地柄だったのかもしれない。

 

雁木の小路を稲田方向に向かって歩くこと約10分、保阪邸(怡顔亭)に行き当たった。門は閉ざされていたが、塀越しでも立派な構えだというのがよく分かる。新聞で一般公開の記事などを見たことがあるが、ここにあるとは知らなかった。

昭和期に保阪家の当主を務めた潤治は、古美術品などのコレクターとしても有名らしい。文化の香りなどというと大仰だが、でもそんな土地柄、なのかもしれない。

旧保阪邸からほんの数分歩いたところに高齢者施設があり、その前庭には昭和30年の津有村閉村時に建てられたという石碑があった。敷地を囲む低い塀は洋風ながらも小洒落た造りでレトロな感じがする。明治末頃、ここに津有村役場が建てられ、その瀟洒な洋館は高田市との合併後は市の出張所や公民館分館として利用されながら、昭和56年まで残っていたんだそうだ。

  

上新バイパスをくぐり、稲田の街へ。戸野目や四ヶ所と道幅は変わらないが、街らしさが増したというか、高田の中心部に街の面立ちが似てきたような気がする。

 

やがて稲田3丁目の丁字路に突き当たって左に行くと俄然道幅が広がり、間口の広い家も増えてくる。やがて先ほどバスを降りた通りに出て、1kmたらずの街歩きが終わった。もちろんここをスタート地点にしても同じ道のりを歩くことになったがはじめ気づかなかった、逆に気づかなくてよかったと思う。その分、楽しくなった。

それから稲田小学校の少し先まで行って、多分(ようやく)コンプリート。3回以上は来ていた街を「歩ききってないぞ」と思い続けていたが、やっと気が済んだ感がある。でもまた、きっとそのうち。

 

 

 

年号が令和になってすぐの時期に、新潟市ゆかりの戦没画家・金子孝信さんの作品が収蔵されていると小耳にはさんで、長野県上田市の「無言館」に行った。結局金子さんの作品は見られなかったが(県内の美術館に移されたらしい)、直江津経由で呑気な電車旅を楽しんだ。

その時に、二本木駅も通った。ホームから見た駅舎の懐かしくも可愛らしい感じと横長の明り取りの窓に惹かれて途中下車したくなるのをなんとか堪えたが、10月下旬に辛抱たまらず行ってみることにした。

台風19号で、春に旅を楽しんだエリアの、特に長野県側が大打撃を受けた。無言館の最寄りである塩田町駅に向かうべく利用した上田電鉄も、上田駅を出てすぐに渡る「千曲川橋梁」が崩落してしまいしばらくはバスでの代行運転が行われるそうだ。

        記憶に残っていた真っ赤な鉄橋の無残な姿を見てしまったのは悲しかったが、大変な災害が相次いだのにのそのそ出歩くのは罪悪感もある。でも逆に、なんでもない場所ならなんでもない顔して見に行ったり歩いてみたりした方がいいんじゃないか、などと思ってしまった。というか、出歩いてみたほうがいいんじゃないか、とさえ。

(上田電鉄の、あの赤い鉄橋が崩落しているのを見たのが決め手だったのかもしれない。あの映像を見てしまったから、敢えてこっちの方向に来たのかもしれない)

 この二本木駅。えちごトキめき鉄道妙高はねうまラインの中でも、屈指の知名度を誇る駅なんじゃないか。というか、県内屈指の知名度を誇る無人駅、なんじゃないか。県内で唯一スイッチバックが残っているし、駅舎も明治末に建てられたものを改装して大事に使っており、珍しい設備とレトロな風情がダブルで楽しめる貴重な駅だ。

 

トキ鉄が新井駅を発車すると「次は二本木です。二本木駅は新潟県唯一のスイッチバック駅で……」とアナウンスが流れ始める。二本木駅に到着する直前、列車は減速しながら坂を上り、三角に組まれた雪囲いの中に2両編成の前の車両だけを突っ込んで停車(前の車両にいればよかった)。数十秒後に、進行方向を逆にして再び走り出し、駅のホームにすべり込んだ。

以下引用:「二本木駅は、新潟県内唯一のスイッチバック式が残る駅です。新井~妙高高原間は約25パーミルの急勾配(1000m進むと25m上がる)が続く区間であったことから、明治44年の二本木駅開業時にスイッチバック式が採用されました。」(リーフレット「鉄道遺産 二本木駅」より)

例えば線路をジグザグ状に配してちょっと進んで折り返し、という感じで進んでいくなどの方法で急勾配を登り切る、そのための設備、ということか。二本木駅周辺も、新井方向から来た列車が雪囲いに入って折り返し、二本木駅に入線して妙高方面へ走り出す。その軌跡をなぞるとアルファベットのNのようになる。

先ほど書いたように二本木駅は現在無人駅で、ドアが1か所しか開かない。慌てて列車を降り、先年改装されたばかりの駅舎をホームから見た。

駅舎と構内にあるランプ小屋などは明治44年築、ホームの屋根や地下通路(往時の二本木の写真などがたくさん貼られていた)は昭和10年代に相次いで造られ、すべて登録有形文化財になっている。一応下調べ済みだったが、実際に地下通路を通ってみると改めて「古い駅なのに先進的だなあ」と思ってしまう。日本曹達の工場が当地にできて利用客が激増し、駅構内の設備も次々と整えられた名残ということだ。

  

  

駅舎の中は、改札側から見て右側に「手小荷物扱所」との看板が掲げられサッシの窓がついた一角がある。昔は窓口で、この中に人が座って荷物の受け渡しなんかをやっていたんだろうか。今、その中には昭和54年当時の料金表など昔の鉄道関連の諸々が展示されている。料金表には近郊のものはもちろん、遠く八王子までの料金も書かれている。新津までは1600円、ちなみに今は2730円。

左側の部屋はかなり広い。今はコミュニティルームとして活用され喫茶なんかの提供もあり、駅員さんは常駐していないがサービス担当の女性がいらっしゃるようで、常連さんがお喋りに花を咲かせていた。

 

例の雪囲いは駅を出てちょっと歩けばすぐ見つかるだろう、と駅前の坂を下りて歩き出したが、間違ってガードをくぐり日本曹達側に出てしまった。

二本木工場の門の真ん前に、なんともお洒落な洋風の建物があった。日曹ができて二本木が賑やかになった頃、その時代を想像させてくれるような建物だ。やはり大正期に建てられたものなんだろうか。

が、ちょっと古ぼけてうら寂しいオーラを放っている。サッシ戸には「妙高クラブ 営業停止しております」との張り紙があった、かつては飲食店だったらしい。

余暇施設か何かだった建物を再利用していたのかもしれないが、こんなお洒落な洋館をこのまま放置というのはもったいない。また何かの施設に生まれ変わってもらって活用すればいいのに。

  

来た道を引き返し、国道18号に沿うような形で伸びる小路を数百m歩いたところで家並が途切れ、国道とその先の線路まで見渡せるところがあった。

さっきスイッチバックの切り返しで通った、雪囲いの建屋が目の前にあった。この建屋も大正11年に造られたもので登録有形文化財。奥の線路は妙高方面、手前は二本木駅につながっている。

足をのばして旧街道も歩いてみようと思っていたが、雪囲いを見たらなんだか満足してしまった。旧街道はもっと山のほうに入るらしい。雨上がりでひんやりする中、駅に引き返した。

平成30年の改修工事で昔の姿に復元された(古い写真を参考に、50年ぐらい若返ったことになるんだとか)駅舎の外観、やっぱり可愛らしいと形容したくなるような趣がある。すべすべの漆喰壁は、新建材が張られていたのを剥がして新たに塗り直したものらしい。

   

早めに切符を買って改札に入り、こんどはホームからいろいろ眺めてみる。

駅舎の右側に、トタン張りと煉瓦造りの小屋が並んでいるのもなんだかほっとするような、懐かしいような。煉瓦造りのランプ小屋は信越線の三条駅や磐越西線の馬下駅にも同じようなものが残っていて昔はどの駅にもあったものらしいが、今はさすがに貴重らしい。トキ鉄沿線は、こういう古い小屋や設備などを現役で使い続けている駅が多いんだそうな。

 

待合室の中にあるジオラマなんかを見た後、ホームの両端を見てみた。二本木がどういうところに建っているのか再認識できた、ような気がした。新井方向は行き止まり、逆に妙高高原方向はごちゃごちゃ入り組んだ線路の先に、左側にはさっき見た雪囲いが、右にはかなりの急勾配を上っていく線路が見えた。

 

そのうち直江津行きの電車が来た、これに乗ってそろそろ帰らなければいけない。

坂を下って入線した列車はいったん妙高方面に向かって走り出した。また先頭車両だけを雪囲いに突っ込むだろう、と期待して一番前に陣取っていたが、その直前でしばし停止してから再び進行方向を変えて新井方面に走り出した。