真田清秋のブログ

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 スイスの哲人、カール・ヒルティ著

『実践的にいえば、人生の主要事は、常に自分の義務を行い、これに反抗する心の傾向や異論をあまり気にすまいと、断行たる決意を抱くことである。なおその次に、これを実行しうるために神を信じ、神と常に結ばれていなければならないという信念が加われば、事は既に成ったのであり、心は堅固になり、真っ直ぐな道が開けてくる。だが、この二つの条件が備わっていない限り、宗教や道徳についてどんなに仰々(ぎょうぎょう)しく語っても、それは単なる饒舌(じょうぜつ)に過ぎない。』

 

                   清秋記:

  『内村鑑三 所感集』48頁より:

『パウロいわく、われは福音をもって恥とせず、そはこの福音はユダヤ人を始めギリシア人、すべて信ずる者を救わんとの神の大能なればなりと(ロマ書一章十六節)。キリストいわく、我と我が道を恥ずる者を人の子もまた己が栄光と父と聖徒(きよきつかい)の栄光をもて来る時これを恥ずべしと(ルカ伝九章二十六節)。声高くして想低き哲学者の前に、多く約束して寡(すくな)く実行する政治家の前に、倫理を説きてなおその無能を自認する教育家の前に、富を積んでなお窮迫を訴うる実業家の前に、文を綴りて思想の空乏を歎(たんずる文学者の前に、我らキリストを信じてその救済の実力を実験する者は何の恥ずるところかあらん。われらの羞恥は無益なり、われらは彼等に優(まさ)って幸福かつ健全な者なり。』

 

                清秋記:

 『これまで述べたところは、自分も同様の経験を持たむ人には、いくぶん空想的だと思われる欠点がある。だから、青年の教育に当たって、このようなことがあまり言われないからと言って、深く咎めるわけにはいかない。というのは、このようなことには空想が混じりやすく、またこのような事柄において、いやしくも不純でるということは、そのまま、きわめて重大な邪道に人を導く恐れがあるからだ⭐️。ただ公明正大な人にのみ、このことに成功することを神は許し給うのである。クリンガーは確かに、そのような人のひとりであった。

 ⭐️ この理由からして、カトリック教会では、すでに早くから一般に福音書の使用を禁じて、非常に細かい点まで規定した教会の教理と、博識な僧侶や解釈者の権威をもって、これに代えた。けれども、教会の「聖者」たちの書いたものは、たいていこの制限を越えている。

 まだ小さい子供に宗教的教理を無理に詰め込むこともまた、教育上の誤りだ、と我々は考える。これは通常、キリストの言葉をすっかり誤って取るところから生ずるのだ。聖書にはなるほど、キリストが幼な子を「だき、そして祝福された」とは出ているが、しかし、彼らに話しかけられたり、教えたり、まして自分に従うようにと要求した、などとは決して書いてないのである。(マタイによる福音書十八の二、マルコによる福音書十の十六、ルカによる福音書十八の十六)。子供に必要なのは多くの愛とお手本とであって、宗教的教理は少しも必要でない。ところが、後者(この方がずっと安上がりだ)多くの与えられれば与えられるほど、前の二つのもの分量はますます少なくなるのは普通である。そして子供が自ら宗教を要求する時期が来ると、この薬はそれまでに散々濫用されていて、もはや効き目がない。宗教を軽んずるすぐれた人たちは皆、このような生活体験を持つのである。彼等はあまり早く、飽きるほど宗教の教理を聞いたか、あるいは彼等の両親や教師たちのうちに、宗教を悪く影響した実例を見てきているのである。

 

 さてこれらのこと全てが「理想主義」呼ばれるものかどうかは、ーーもっとも、多くの利口な人、初めからそうすることによって問題をあっさり片付けているのだが、ーーとにかく未定のこととしておこう。いずれにしてもこの主義は、これを固く信奉動ぜぬ人達にとっては、その他の世間に行われている人生観のどれにもまして満足を与えるもののように思われる。少なくともこれを確信するためには、決して多くの歴史的知識をも、または人生に対する特別の洞察をも必要としないのである。しかし、我々が恐れるのは、大多数の読者は、クリンガーよりもかえってアグリッパ王(使徒行伝二十六の二十八)に従おうとするだろう、ということである。実際の「成功」は、アグリッパには決して約束されていないのだけれども。

 グリンガーのような人たちの豊かな内的生活を、ドイツのある詩人は、(私が多少修正を加えたが)次のような言葉でもって、きわめて巧みに描いている。

 

 「光と影とは常に寄り添い、

  過ちもまた無にはあらず。

  されで内に輝く光は、

  外なる闇を淨む。

 

  切に完成を求むるも、

  地上においてはついに得られず。

  されど完成を求めてやまぬ者は、

  その魂の平和を得む。」』

 

 

              清秋記: