真田清秋のブログ

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  『どんな種類の人間とも正しく交わる唯一の道は、相手の相手のために本当によい事をし、相手からもそれを受けようと志す事にある。とりわけ、まるで動物や無生物を所有するように、人間を自分の娯楽や労役のために「雇う」とか所有するとかしてはいけない。同様に、その人々を何らかの関係ある限り、相手の幸福について無関心であってはいけない。

 もしそれが出来そうもないと思われる場合は、むしろ関係を結ばない方がよろしい。

 

 多くの人々から害を受ける事なく交わるために、また、有害な影響を与える人達の交わりをすぐさま適当に断つためにも、多くの沈着と自信とが必要である。

 

    神の子たちと人の娘たち

           (創世記六の・三)

  主よ、教えて下さい、確かな眼で貴方の子たちを知り、

  どんな装いをしていても神の子を見分け、

  かれらを「人の娘」からはっきり分ち、

  人の娘たちをあやまたず避けるすべを。

 

  ああ、もはや如何なるものにも眼をくらまされず、

  私を空しいものからすっかり解き放ちたまえ、

  そして、貴方に祝福の御手をもって、

  私の子らのために、貴方のやからを招きせて給え。』

 

       清秋記。

   『内村鑑三 所感集』より:

  『「余は聖なる公会あるを信ず」とは使徒心経の一条である。これに対してジョン・ラスキンは言うた、「真の教会は一人の人が援助の手を伸ばして他の人に接せるところにあり、これかって有りしところの、またかってあらんところの、唯一の聖公会また母教会なり」と。真にそうである。教会は愛の行わるところには何処にでもある。然して愛の行われざる所には教堂があろうが、儀式があろうが、聖職がおろうが、信徒が集まろうが教会はない。いわんやキリストの教会をや。』

 

            清秋記:

  『人々の心の安やらぎ(慰め)を与える能力は、かなざるし宗教的能力のものではないが、他人のとってはおそらく一番ありがたいものであろう。しかし、このような能力を持つ人に対して、どんな種類の推しつげがましさも許されるのだ。信仰などまるでなくても遠慮なく縋り付くがよい、などと信じている連中の相手にする時は、こういう人も絶えず忍耐と、もの分かりのよい落ち着いた心とを神に乞わずにはいられない。キリストでさえ、どんな連中にも時おり腹を立てている。マルコによる福音書九の一九、六の四六。

 🌟「イエスは答えて言われた、『ああ、なんというか不信仰な時代であろう。いつまでも私はあなた方と一緒におられうよか。いつまでもあなた方に我慢ができようか』。」「そして群衆に別れてから祈るために山へ退かれた。」』

 

       清秋記: