元桐生市議庭山由紀さん(以下Yさん)と桐生の女子高生(以下Mさん)との議論から思うことについて書きます。
Twitter上で何やら放射線量や放射線汚染について議論をしているみたいです。
震災の影響で放射線量が高くなっているだろう、
地域での海水浴やその地域の食べ物を食べたことに対する安全性について議論をしています。
その中で、気になった点について少し書き出して、議論について展開します。
①安全かどうかの基準について
放射線量を測定した場所、数値がいくつなのかを議論しています。
Yさん:海水浴をする場合は、測定したの場所が、空気中だけだと安全だといえない
だれがどのように測定して、どのくらいの数値だったのか
Mさん:空気中も海水も測って、基準の数値よりも低かった
安全の基準より低いのかどうかを主に議論してるけど、
そもそも、その基準がどういう基準なのか、その基準を超えるとどのような、
影響がでるのかについては話をしていません。
でも、根本的な前提を共有してないと議論にはならないと思います。
例えば、
(1)放射線量が基準より高いところは危険だ
(2)放射線量が~以上だと危険だ
(3)~以上の放射線量があるところで何を、どれくらいの時間したら危険だ
(4)~以上の放射線量があるところで何を、どれくらいの時間することは癌になる確率を上昇させる
(5)~以上の放射線量があるところで何を、どれくらいの時間することは何年以内に癌になる確率を上昇させる
(6)~以上の放射線量があるところで何を、どれくらいの時間することは何年以内に癌になる確率 を上昇させる
これは、成人が煙草を一日に何本すったときの確率を同じだ
(7)・・・・
ちょっと見方を変えてみると、
(ア)お腹をこわしてでも、○郎のラーメンを食べたいし、生肉も食べたい
→お腹を壊すくらいなら大したことないから、安全のうちだ(得たいものを得るための対価として対等)と考える
(イ)お腹をこわすことは、大きな危険だと考える
(数字)の方は具体化して互いにイメージするものが一緒になるところまで、
具体化して、比較しないと安全かどうかの判断はできないし
(カタカナ)だったら、具体的な症状についてどう考えるかで異なってくる。
これは、議論の対象や参加する人数に限らず議論をする時に共通に言えることだと思う。
それは言葉の定義・イメージ(今回でいうと安全)・事実に対する意見が人によって違うから
そのすり合わせが必要だということです。
前提を揃えないと、まず土俵にも上がれてないに、
その状態で議論をして、決着をつけようとする場をよく目にしますが、時間とエネルギーがもったいないなと、最近よく感じてます。
前提をそろえる、具体化する、比較する、言葉を定義する等をしっかりして意味のある、
付加価値の高い議論ができる社会になっていけばいいなと思います。
あんまりまとまってないけど、今日感じたことはこんなところです。
以上、久しぶりの更新でした。
