食べることさえ許されなかったユダヤ民族 ―「オシフェンチム強制収容所」の悲劇―
<反ユダヤ主義政策によるユダヤ人迫害の過程>
1933~1939年 ドイツ国内で
総統ヒットラーの命令でナチス
1938年 オーストリアで
党員は一般市民からユダヤ人を類別し、公民権の制
限・財産没収・職業の差別・公共施設への出入り禁止
等を実施した。
1940~1942年 フランスで
1940年 ベルギーで
ノルウェーで
ルクセンブルグで
オランダで
↓
1939年 ナチス・ドイツ軍がポーランドへ侵攻し第2次世界
大戦が勃発した。
↓
1940~1942年 ポーランドで
ワルシャワ市街をレンガ壁と鉄条網で仕切って「ゲ
ットー」を作る。事実上のユダヤ人隔離政策を初め
長時間と低賃金の強制労働に駆り立てた。
↓
1943年
「ZOB(ユダヤ人戦闘組織)」の武装蜂起があ
り、7000人のレジスタンス闘士の虐殺で降伏し
た。
↓
1942~1945年
ハンガリー等各地からユダヤ人のアウシュヴィッ
ツ強制収容所への移送。所持品等を略奪の上、ガス
室で殺害して焼却した。
ーユダヤ民族の悲劇ー
“食べて働き、収穫を喜び、余暇を楽しむ”ということは、人が生きていく上で極自然な営みである。ところがこのことさえ許されなかった民族が、現実に歴史上存在した。それはご存知のとおりユダヤの民であり、あの忌まわしい施設に強制収容された人々であった。第二次世界大戦中にナチス・ドイツが管理した施設は「オシフェンチム」にあり、日本ではドイツ語読みの「アウシュヴィッツ」で知られている。
私はかつてここを訪れたが、実際に見聞きして驚いた。私たちが知る情報と現地の話とでは、少し食い違いがあったからだ。例えば日本ではユダヤ人の虐殺数は600万人と教えられたが、ドイツ将校の証言では350万人で、施設では150万人とされている。施設の実態に関しても知られざることが多く、そのことを伝える機会を私は求めてきた。
(アウシュヴィッツ強制収容所) (ビルケナウ強制収容所)
(左がビルケナウでアウシュヴィッツの23倍の広さ)
ポーランド(正式名称は「ポーランド共和国」)は、北海道よりも高い緯度に位置するが、景観は似ており酪農業の盛んな国である。前の世界大戦では日本以上に破壊的な被害を受けたが、戦後は目覚しい復興を遂げ、今も国土面積のうちの42%を農地が占める農業国である。
生産物の中心は、国土が温帯と冷帯の境界に位置することや降水量が少ないことを反映して、麦類の栽培が盛んである。中でもライ麦の生産は世界第2位であり、えん麦は第五位に達している。小麦の生産量だけは、国内需要を満たすに至らず輸入している。次いで寒冷地に適したジャガイモが第七位で、キャベツが第八位となっている。
この他畜産では牛よりも豚と羊に重点が置かれ、乳製品は主にEU諸国に輸出されている。またライ麦やジャガイモを原料とする強い蒸留酒(アルコール度数48%以上)があり、「ブトカ」と呼ばれている。「ブトカ」は「ウオッカ」のポーランド語読みであり、立地的にロシア文化の影響も受けていると考えられる。
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南部のヴィスワ川越しにヴァヴェル城が聳えるクラクフの街があり、郊外に忌まわしい収容施設はあった。ここに収容された人々には、ポーランドの土壌で育んだ豊かな実りを与えられることはなく、この世のものとは思えない現実が待ち構えていた。
列車で運ばれてきた人々が貨車から降ろされると、すぐにその場で二列縦隊に並ばされた。ナチスSS隊員の軍医が即座に性別及び健康状態をチェックし、左右に分けると再整列させられた。働ける者は生きて強制労働へ、働けない女性や老人や子どもは全て反対側の列に選別された。その同じ場所で手荷物を置くように命令されたが、この時点で自分の身に何が起こるのかを彼らは知らなかった。「荷物を整理してから返されるのだろう!」と思って、各自のカバン等に自分の名前を書き込んだ。その後手荷物は持ち主に返されることはなかった。
「働けない者」と認定された人たちの進んだ先は、北端にあるシャワー室である。ご承知のとおり実はそこは、大量殺戮を目的に建てられた「ガス室」であった。ナチス・ドイツは「旅の汗を洗い落とさせてあげよう!」と巧みに連れてきて、一度に大量の命を奪うという戦略的な施設であった。その有効な手段として使われたのが、毒ガス兵器の「チクロンB」であった。
心地よいシャワーを期待する人々が隙間なく詰め込まれた後、扉は外からロックされて二度と出られなくされた。やがて天井から毒ガスが降り注ぎ、人々はもがき苦しみながら絶命していった。窒息死するまでに約20分間かかったらしく、シャワー室の壁には生々しく残る無数の爪痕があった。その中に当時気丈な一人がいて遺したものだろうか、爪で刻まれたユダヤの象徴である「ダビデの星」がくっきりと残っているのを私は見た。
(真ん中の上のほ方にダビデの星がある。)
20分後にシャワー室の扉が開かれた時、室内は屍の山と化していた。SS隊員が隣の「ボイラー室」にそれらを運び入れて、そこにある焼却炉で一日に350人の死体を処理していった。焼却前に死体からは頭髪が刈られ、指輪やピアスが外され、金歯が抜かれた。義足や眼鏡や子どもの下着までもが没収されて、金歯は金の延べ棒に造り返られた。頭髪はマットレスや布地に織り直され、また焼却後の灰は、肥料として利用されたと言われている。
(眼鏡) (履物)
この他にもナチスが行った残虐行為は数知れず、「死の壁」と呼ばれる場所では、ユダヤ人や反ナチの政治犯がいわれのない理由で裸にされたまま壁の前で銃弾に倒れていった。外からは目立たない二八棟の建物の内部には、「飢餓室(人を餓死させる目的の部屋)」や「立ち牢(座れない人数を押し込める部屋)」や「医務室(生体実験を行う部屋)」があった。周囲は有刺鉄線を張り巡らせた二重のフェンスに囲まれており、高圧電流が流されていた。
SS隊員の医師が行った犯罪的な生体実験は、人命を救う現代医学に合い入れないものであった。例を挙げると、カール・クラウベンブルグ教授とホルスト・シューマン博士の行為がある。彼らはスラブ系民族の「生物学的絶滅方法の研究」と称して、男女の断種実験を行った。またヨセフ・メンゲル博士は「遺伝学の研究」として、双子や身体障害者を使って新薬の投与実験を行った。心臓にフェノール液を注射されたり、皮膚に有害物質を塗布されたりして多くが死亡していった。運良く生き残った人々も、色々な障害が残って苦しんだと言われている。
ところが死んだ者は帰らぬが、生き残った者には生きながら地獄を見る悲惨な暮らしが待っていた。彼らは、「アウシュヴィッツ」の西方にある別施設の「ビルケナウ」に収容された。ここは「アウシュヴィッツ」の20倍以上の広さであるが、建物は(女性を収容するレンガ造り
の一部を除いて)粗末な木造のバラックであった。このバラックは、52頭の馬を飼育した小屋を改装したものである。
内部は通路を挟んで両側に三段式にベッドが並んでおり、薄っぺらな床板だけがはめられていた。一段毎に約八人が寝かされ、約千人が収容されて腐った藁の上で寝起きをしたと言う。真ん中に暖房用の煙突があったが、壁板は隙間だらけで冬場にはマイナス10度以下の冷気が容赦なく入ってきていた。ところが一部屋に10㎏の石炭が配給されるだけで、2時間で燃焼してしまう形ばかりの待遇であった。
食事は朝食にコーヒーと呼ばれる液体が五百㏄と、昼食に腐った野菜で作られた水のようなスープを一?しかもらえなかった。夕食でも350gの黒パンと三gのマーガリンと薬草の飲み物だけであり、重労働と餓えによって多くが栄養失調に見舞われた。そして衰弱の後は、死があるのみであった。
別のバラックに移動した私は、公衆浴場とトイレを見た。当時は武装したSS隊員に監視され、人々は時間を限って利用していた。シャワーは重労働で汗を掻いても三週間に一回と、トイレは1日に2回しか行かされず、行きたくなくても強制的に行かされた。栄養失調でガリガリに痩せていた人々には便座の穴が大き過ぎて、腰を下ろしたとたんに穴の中へスッポリ落ちて死んだ者も少なくなかったと言う。
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今回は読みたくないような暗い内容であるが、これが「オシフェンチム強制収容所」で現実に起こったことなのである。物欲に恵まれた時代を生きる今だからこそ、 “食べて働き、収穫を喜び、余暇を楽しむ”ことさえ許されなかった人々がいた事実を風化させないためにも、「目を背けずに一読していただきたい!」と思ってあえて記した。
因みにこの収容所は、人類の負の遺産としてユネスコの世界遺産に登録されている。