侵略の歴史とカースト制度:インドの旅に学ぶ
風土が育てたインドの食文化
人間は生きるために、気候にあった快適な衣服を身につけ、植物の実や動物の肉を食べ、安眠の場所を求めた。自然条件に逆らうことなく、恩恵を受けながら生活に工夫と改良を行った。四方を海に囲まれた日本でさえ、北と南では食文化や習慣に大きな差がある。日本人には異様と見える光景でも、地球上には多種多様な文化や習慣が存在している。
世界四大文明の一つインダス文明が起こったインドは「仏教の国」というイメージが強いが、総人口の83%がヒンドゥ教であり、仏教徒はわずか1%に満たない。全土に残る遺跡からは、かつて仏教文化が栄えたことは分かるが、今は代表的なエローラ石窟群やアジャンタ石窟群などの遺跡にその栄華が語り継がれているに過ぎない。
<エレファンタ島石窟寺院遺跡>
<エローラ石窟寺院遺跡>
<アジャンタ石窟寺院遺跡>
宗教で異なる食べ物
「食べる」ということは、人間が生きていくのに大切であるが、その食材は土地柄によってかなり違っている。北インドの主食は、小麦粉で作ったパンやナンであり、南インドやベンガル地方では米飯が主である。これは、インド西北で小麦を生産し、ガンガー川の下流域では、米を生産しているのが背景にあるようだ。また、宗教的理由によっても、食材が異なっている。「殺生はしない」というジャイナ教は、一切肉類を口にしない。ヒンドゥ教の上位カーストの人は乳製品や豆類をよく食べ、カースト制度の貧しい階層の人びとは、経済的な理由から菜食主義を余儀なくされてきた。一方、キリスト教やイスラム教では肉類を食べているが、イスラム教徒は「豚」を不浄の物として食べず、ヒンドゥ教はシヴァ神の聖なる乗り物である「牛」を食べない。だからインド料理で使われる肉は、主にマトンやチキンであり、時には魚介類である。
手は万能の道具
インドでは箸やフォークを使う習慣はなく、料理は手を使って食べるため、特に右手をきれいにしておく必要がある。そのため街のレストランには、「手洗い場」を設置する店が多い。入店する時に手を洗い、出る時にも口をすすいで手を洗って出るのがマナーになっている。右手を清めておけば、指先を丸めて合わせることでスプーンのように汁っぽいカレーもすくえるし、米飯にカレーを混ぜて口に運んだりもできる。大きなナンも右手で器用にちぎり、何でも食べることができるのである。
香辛料を使った「インド式カレー」
ところで、インド料理の「カレー」は、日本人が作るような具をいっぱい入れた「カレー」ではない。インドでは、味噌や醤油を使わない代わりに、植物の実や種、葉、根などから作る香辛料の「マサーラ」を使う。このマサーラで、野菜を入れずに肉類をしっかり煮込んで味をつける。具には味と香りがにじみ込み、汁気はサラッと仕上がる。普通の煮込みの料理では、肉にしても野菜にしても一品だけを使用するので味つけがバラエティに富んでいる。これが「インド式カレー」の特徴である。
このような「マサーラ」の食文化からは、絶対に日本のような「カレーライス」は生まれてこない。
洗浄便器の原点?「インド式トイレ」
人間が物を食べると排便するのは当たり前のことであるが、インドでは「トイレ」という場所に日本にはない習慣がある。そこら辺が「トイレ」の場所になり、「野糞」はごく自然な光景である。だから、観光客相手の大きなホテルやレストランにはティッシュを完備しているものの、そこを離れると公衆便所は少なく、それがあったとしてもティッシュは全くないのである。
インド式の「トイレ」は、排尿も排便も驚くことに紙を使わない。わりに紙コップの2~3倍の大きなカップ(約1㍑)に水を入れて使う。公衆便所によっては、プラスチック製の容器か空き缶を置いてある。水が入ったカップを右手にもってしゃがみ、排便がすむと後から水をかけながら左手で洗い流すのである。残りの半分ぐらいの水で左手を洗い清めて完了となる。
このやり方は、カースト制度や貧富の差に関係なく、最も快適な方法として考えられてきた。近年の日本では、洗浄方式の便器が流行っているが、そのアイデアの元祖はインドなのかもしれない。
牛の糞は燃料に使う知恵
牛の糞も同じように撒き散らされているが、これは人びとの生活に欠かせない燃料になる。私が訪れた農村の女性たちは、粘土細工のように糞を練っていた。両手でそれを器用に丸めると、平らな煎餅のようにして屋根や地面に並べる。至る所で、日干しになった糞が並び異様な光景を生み出している。日干しの糞は、細かく割って土間のかまどに入れ火をつけられる。ほどよくナンが焼かれる熱量になり、驚きとともに私はその知恵に感心した。
特異な身分制度があるインド社会
ヒンドゥ教の世界には「カースト制度」という特異な身分制度があり、今でもインド社会に深く根付いている日本人のイメージでは、制度による区分は人権差別の観点から批判されることが多いが、見方を変えれば違う階層によって「奪われない職業と生活が保護された制度」というふうにも読み取れる。現在の政府は、差別用語の撤廃や人権保護政策を推進しているが、ヒンドゥ側の位置づけは変わっていない。
このようにインドには、日本人の認識のズレを感じさせる事例がいくつもあったが、そこに魅力があるのだと私は思う。「偏見や差別は相手を知らないことから生じるもの」であり、この小論が「理解の一歩に役立てれば」と考える。ちなみに世界でも有数のIT産業国である。