新左翼系のセクトに
属していた奴がいました。
新左翼系と言っても当時は
いくつも存在していました。
「中核」「革マル」というのは有名でしたが
多分それぞれが
日本共産党が「六全協」で
武力闘争を放棄した時
それに反対したグループが
ルーツなのではないかな?と思います。
共産党系を「代々木」
新左翼系を「反代々木」という
ザックリした分類は
そこらから来ているのかなと思っています。
その1セクトに属していた彼は
他学部に席を置いていましたが
ぼくの専攻の連中にもオルグをかけ
ぼくの周りからは敬遠されていました。
何故かぼくには
強力なオルグはありませんでした。
当時ぼくの下宿部屋は
鍵もかけていなくて
当時の色々な友人達が勝手に集まる
場所でした。
文学研究会の先輩後輩、
同じ専攻の友人、
麻雀仲間、
ドキュメンタリー映画制作の友人、
関わっていた市民運動の友人、
同じ下宿屋の住人なとなどなど…
ぼくが帰ってくると
すでに部屋の明かりが点いて、
誰かが居たものです。
セクトの彼もその1人でした。
彼の話はトロツキーの理論なのか
彼のセクトの理論なのか
彼独自の理論なのかはわからないのですが
ぼくにとっては
新鮮なユニークなものでした。
今、彼の理論というか
ひょっとしたら屁理屈のひとつを
よく思い出します。
彼はこう言いました。
『民青の諸君は我々のことを
「極左暴力集団」と呼ぶがそれは正しい。
社会情勢は数直線上に並ぶ
極右から極左までの力関係で変わる。
我々が暴れることで
情勢は全体に左に動く。』
今思い返すと
逆方向に動いたことで
確かに、と思い当たります。
労使対決が主体だった「総評」の頃から
労使協調の「連合」になり
情勢は右旋回していきました。
彼は新左翼として左側に引っ張る事で
社会が右側に動くのを
防ぐ役目をしていたのかもしれません。
こういう解釈は
彼にとっては不本意かもしれませんが
結果として
そういう役割になっていたように
思います。
その後
彼は「三里塚闘争(成田空港阻止闘争)」で
管制塔突入占拠したメンバーで
逮捕されました。
当然すでにシャバに出て来ているでしょうが
元気という噂は聞きますが
ぼくとの音信は不通です。
右とか左とかいう考えは
今は流行らないのかもしれません。
でも
自分の利権や権益を求め蠢めく者と
貧困に喘ぎながら
自分の日々の生活を懸命に生きる者とが
存在します。
現政権は後者の事は一番最後の後回しです。
ほとんど考えてはいないと言って
良いでしょう。
その側に立つ事を自覚して
発信する事は
少しでも情勢を
こちら向きにする力になるように思います。