• 前説

今回の話題は、ギルティクラウンの学校での集の王国が題材です。

アニメを見ていない方ように簡潔に説明すると、(Wikiを参照して法がいいかもしれませんが)

主人公の桜満集(おうましゅう、以下「集」)は人のいわば魂を具現化したもの(ヴォイドという)を人から取り出すことができる。(アニメでは「形相を獲得したイデア」と説明されています、哲学者プラトンのeidosですね。)

集はこの力を使い、閉鎖されてしまった学校の危機を乗り越えるため、自らが王と名乗り、ヴォイドを使える順でランク付けし、ランクが高い人を優遇するヒエラルキーを作った。まさに絶対王政ですね。

しかし、このヒエラルキーその危機を乗り越えるために最も合理的にな方法に見えるのですが、もちろんランクの低い人たちには不満がたまります。

アニメでは集がランクの低い人たちに不満がないか気にかけているシーンが多々あります。しかし、集を王に仕立て上げた谷尋(やひろ)から、「みんな理解している」と説得され、その不満に気づくこともできず、集の「みんなを助けたい」という意思は伝わらず、危機を乗り越えたものの、クーデターが起きてしまった。

さて、言いたいことが分かってきたでしょうか?

  • 本題

自分は、絶対王政に悪印象を持っています。一人にすべての判断を任せるのはどうかということです。「悪用されるじゃないか!」、そう思う人は僕だけではないと思います。しかし、歴史というものは後世の思想によって大きく印象が変わってきます。見方を変えれば、絶対王政においての王の行動はすべて民のためであったともとらえれるわけです。

なぜか、王も人間だからです。

ギルティクラウンのヒロイン、いのりも言っていましたが、集はひどく人間だったんです。しかしその性格も、みんなのためと思う意思も、彼が「人間」であるという事実も、「王」である彼だから伝わりません。低いランクの人たちには「私たちを苦しめて自分勝手している化け物」としか映らないのです。

それは我々の絶対王政の認識と重なる部分があるのではないでしょうか。

世に腐っている人間がいるのは知っています、しかし「王」という立場で、全民を統べる立場で、自分勝手ができるでしょうか?自分が思うに、自分勝手な行動に見えるのは、取り巻きの仕業ではないでしょうか。責任を負わずに済む立場だからできることです。

もうお分かりかもしれませんが、この考え方は絶対王政時代の王だけに当てはまるわけではありません。責任を負っている人が人間である限り、その人は統べている者のことをちゃんと考えているはずなのです。その思いは責任の大きさと比例するはずです。自分もよくしてしまうことですが、自らの受けた印象、憶測だけで人の行動原理を判断してはいけないと思います。もちろん、権力乱用の確固たる証拠があるなら話は別です。

今の自分なら、その判断対象は学校の先生ですね。

これを読んでくださっている方々もいるのではないでしょうか、「王」が。

  • 最後に

ギルティクラウンはかなり好きなアニメの一つです。(祭が死んだとき泣きそうでした)

2期のOP大好きです。いつか涯と集の違い(統べるものとしての)についてもやりたいです。

絶対王政の考え方は、いわば自分のテーマみたいなものです。今とは違う世界の人間の価値観、判断、行動原理、は興味深いものです。

アニメを通して自分の考えを示しましたが、次回はもうちょっとダイレクトに絶対王政と今の違いについて触れようと思います。