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情報デザインとは? ~ その1

久々に更新です。


自分の乏しい知識から、これまでささいなことを2、3書いてきましたが、

ブログを書くことを通じて何かを発見していけたら良いなぁという感じでしょうか。



さて、ところでそもそも「情報デザイン」とは何なのでしょう?


「情報」を定義することは非常に難しい問題です。


人間が主体的に認識可能なあらゆる物理的・精神的な外的存在を「情報」と呼ぶならば、

これは日常にいう「データ」という言葉が持つ意味内容に、非常に近いものとなります。


また一方、外的存在のみならず、

自己の感情や経験といった内的存在でさえも、ある面では「情報」であると捉えることも可能です。


そうした観点から見てみると、

「情報」を「デザイン(設計)」するなどということは、全ての人間が生まれてから死ぬまでの間、

今の1秒1秒を自分自身がそれぞれに行っていることであって、

すなわち人間であれば誰しもが「情報デザイナー」であるというわけです。



そこで、「情報デザイン」を特別に日常的な生活から切り分けて考えるためには、

①デザインの対象としての「情報」の範囲を、どこまで広げていくのか

②その対象について、何を目的とした「デザイン(設計)」を行うのか

という2点が非常に重要になってくると思われます。


但し、日常から完全に切り分けられた「情報デザイン」は何人に対しても意味を成さないデザインでしょうが。






(その1)

デザインの対象としての「情報」の範囲を、どこまで広げていくのかという問題について



現在、いわゆる”デザイナー”と呼ばれている職業があります。


職業としてのデザイナーは”デザイナー”であって、”芸術家”とはまた異なるものです。


芸術家は自己の思想や感情、経験を表現し、伝達しようとすることを試みますが、

デザイナーはあらかじめ決定された明確な目的に向かい、

目的達成のためへのベストエフォートを尽くす立場にあるかと思われます。


そもそも、デザイナーが職業的に成立した背景には、

情報の「コンテンツ(内容)」を如何に上手く伝え・表現するかということについて、

形式的なアプローチにおける専門的知識・経験を蓄積させていったという側面があります。


つまり、デザイナーが従来の”デザイナー”であるためには、

設計対象としてのオブジェクトの中身については関知しない、という暗黙のルールを守る必要があるわけです。


しかし、「情報デザイン」という概念で人間や物、事柄ということについて再度目を向けてみれば、

「情報」の「コンテンツ」についても、デザイナーが設計する対象の中に含めるべきではないだろうか

といった疑念が、当然にも生まれてきます。


人間の行動や物を構成する要素を抽象化してみた場合に、

その対象の本質を捉えたデザインをすることによって、さらなる利便性や効率性が追求できるとともに、

これまで見ることができなかった新たなる側面も見ることができるようになるでしょうし、

或いはデザインをきっかけとした新たな文化的諸産物が生まれることになるのかもしれません。


マクルーハンの「メディアはメッセージである」という有名なフレーズを引っ張り出してみれば、

「媒介(media)」がもつメッセージをデザインしていくことによって、

人間の行動様式を人間自身が絶えず変化させていくことが可能となるわけです。


ここにおいて、対象の範囲をどこまで広げていくかという問題は、

芸術家が自らの思想や視点、認識を表現し伝達しようとするプロセスに近い側面を持つようになります。


そうすると、職業としてのデザイナーに求められるのは、

「私のデザイン領域はここまでです」といった、自分の対象とするデザインの範囲を

明確なスタンスをもって示していくことになっていく(既になっている?)のではないでしょうか。



(言葉遊びになってしまいそうな感じがしてきたので、続きはまたの機会に)

無言のコミュニケーション

「情報」という概念について、


〔ある状況と別の状況との間に性質の相関があるとき、一方の状況が他方の状況について知る手がかりになる。

 したがって、こうした相関が成立するとき、 一方の状況が他方の状況についての〈情報を担う〉という〕

(『ナレッジサイエンス-知識科学における情報と知識』下嶋篤)


という定義がある。


情報は状況と状況との相関関係に依存しているという捉え方である。


 では、左の写真は何を示しているだろうか。

 

 細かいので解りづらいが、煙草の灰皿が置かれている一方、

 すぐ上の看板には、”この場所での喫煙はご遠慮ください”と書いてある。


 つまり、看板に書かれている「禁煙」の表示は、

 元来その看板が持つはずであった「ここは禁煙である」という情報を、

 下の吸殻入れの存在によって打ち消されているとみることができる。


 また、言い方を変えれば、

 禁煙であるという情報を「隠された」と捉えることもできる。


 そして、その結果大勢の人が、この場所で喫煙しているのである。



このように情報が打ち消され、あるいは隠されている状況の下では、

この看板は「情報」を伝達するメディアとしての役割を果たすことができない。

これは、当然看板についてのみならず、下に置かれた吸殻入れについてもいえることである。


しかし、吸殻入れには、さらに+αの情報が附加されている点に注目すべきである。


というのは、「吸殻入れが既に使われた状態になっている」ということである。

つまり、この場所で喫煙をする人が過去にいた事を、吸殻の存在が示しているのである。

これは正確にいえば、吸殻入れにある「吸殻」がメディアとしての役割を担っているということになる。


このようにして、 

【 看板 ⇔ 吸殻入れ + 吸殻 】

というメディアの対立構造の中から人は「情報」を読み取ってこれを「知識」とするわけである。



ところで、情報を伝達する媒体となるメディアというものは、果たして「物」に限られるのだろうか。


例えば、”禁煙”の張り紙の横に”喫煙をしている人”がいた場合、

喫煙をしている人は、張り紙がもつ情報を「打ち消し・隠して」いるといえる。


つまり、”喫煙をしている人”が、

「ここは禁煙でない」という情報を伝達するメディアとしての役割を担っているのである。


マクルーハンは『メディア論』の中で、

メディアがもつ意味として、それを媒体として与えられる情報にメディアの意味があるのではなく、

メディアそのものが有する意味を考えなければならない点を指摘する。

例えば、テレビというメディアが持つ意味は、

ニュースや娯楽番組といったテレビを通して伝達される内容に存在するのではなく、

人間の情報の収集能力という身体性を拡張させ、

日常生活の社会的構造を変化させたという点にある、ということである。


このような観点からすれば、”喫煙をしている人”というメディアが持つ意味は、

それを見た他人が「ここは喫煙できるのか」という情報をもとに、

自分も張り紙の横で喫煙をしてしまう、という行動をとらせてしまう点にこそあるといえる。


これをさらに大きく捉えてみると、人間がメディアとしての役割を果たすとき、

人間が他の人間の行動に影響を与える、

すなわち、そこには無言のコミュニケーションが存在している、ということができる。


「無言のコミュニケーション」が「人間というメディア」が持つ意味であるならば、

無言のコミュニケーションの発達は、我々の生活様式をダイナミックに変化させる可能性を持つ。


しかし、「無言のコミュニケーション」が成立するためには、

それがコミュニケーションである以上、情報伝達についての双方向性が必要不可欠であるともいえる。

そして、このコミュニケーションが有する特性というのは、

双方向性があり、かつ、一方的なコミュニケーションである、という点である。

すなわち、”張り紙の横で喫煙をしている人”は、

別に「ここで喫煙できることを伝えよう」という意思をもって煙草を吸っているのではない。


だらだらとまとまりの無いことを書いてしまったが、

無言のコミュニケーションは、当たり前のことではあるけれども、

情報のデザインをしていく上で有用な視点であるように思う。

写真

写真は、時間の流れや空間性を切り取る。


いや、切り取るというよりは、むしろそれらを完全に失わせる。


これはカメラを斜めに傾けてみたり、わざとピントをぼかしてみたりして表現するといった動作にもみてとれる。

また、そうであるからこそ、

どうにかその時間的・空間的な情報を二次元世界に取り込もうとする撮り方をする場合もある。

携帯カメラは、「写真を思い出として残す」文化に劇的な変化を与えた。


一般に私たちが写真を撮るとき、”今この楽しい瞬間”を表現したいというのが直接的な目的であって、

きっかけを与えた被写体となる”場”や”美しいモノ”それ自体は、

あくまでその”気持ち”を伝える間接的な対象となっている。


つまり、 二次元の世界で表現を試みることを主目的にする場合はさておき、

その「場の雰囲気」を手軽に取り込めるデバイスがあれば、

気持ちを表現する手法として、私たちはまず身近なものを使ってみるのである。


ところで、写真の時間性を拡張したものとして、動画がある。

動画は、写真が持つ情報に時間性や音声を付加して、”場の雰囲気”を伝えることができる。


また、三次元の映像を残すことができれば、

それはまた場の情報を伝達する方法として極めて大きな役割を担うことになるかもしれない。


しかし、これらはいずれにおいても切り取られた部分の表現・記録方法であることに変わりは無い。

変な言い方になってしまうが、

写真に時間軸が付加されてもそれはやはり現実の相対的な”時間”ではなく、

動画や写真の上での絶対的な”時間”でしかないのである。


私たちの”伝えたい””残したい”「気持ち」を最大限に表現するには、

リアルタイムの時間性がどうしても必要となってくる。


だが、逆の側面からみれば、

リアルタイム性を達成することが困難だからこそ、写真や動画に残すという見方も可能であり、

例えばテレビの生放送⇔録画放送などは、その典型である。


すなわち、「記録」を第一の目的とする場合にはリアルタイム性を失わせることが必要とされ、

「表現」に目的をおく場合にはリアルタイム性が求められる、というパラドキシカルな関係にあるといえる。


前者の目的をより発展的に達成しようとするならば、

それこそ三次元映像や音声、あるいは「匂い」といった要素を付加していくことで、

”場の情報”を記録・蓄積していくことは可能である。


しかし、後者の場合はどうだろうか。

私たちが、携帯カメラで写真を撮ってもその画像をまじまじと見返すことが少ないことからも分かるとおり、

写真をとるときの大半の目的は”気持ちの表現”に目的が置かれている。


気持ちの伝達が目的であるならば、

当然その表現方法にはその人なりの人間の認知というものを考慮しなければならないだろう。

つまり、「これは綺麗だ」という視覚的情報から生まれる気持ちや、

「いい匂いがする」とった場合の「イイ」には、

それぞれの感覚器官を通じたその人なりの情報が付加されてこそ、

よりその時の”気持ちを表現できた”ことになると思われるのである。


つまり、今後より注目していかなければならないのは、

大きな枠組みとしての”人間の感じ方”ではなく、

それに加えた”その人なりの感じ方”の表現方法である。


具体的に例えば、カメラによって実現されている”人の視線”は、

その人なりの視覚的情報の認知を伝達することを達成している。


抽象的な話のままで終わるが、現在ある個々の表現方法について、

その内容ではなく”手段”として人間の個性が加味されていけば、

携帯の写メを超える次の文化を作ることができるように思う。

看板の色

コンビニの看板を見れば「青」はローソンである。「緑」が見えると、それはファミマである。

色という「情報」は、文字による「情報」に比べて遠くから見ても視覚的に認識が可能であり、

したがって看板が持つ”存在を示す”という目的達成のためには、殊に有用な情報伝達の媒体といえる。

このような情報伝達が可能となるのは、我々の日常生活の経験に基づく。

例えば、あまり知られていないであろう『HOT SPAR』が赤一色の看板を掲げていたとしても、

スパーの存在を知らなければ、「ん?カーコンビニクラブ?」というようになってしまう。

つまり、看板広告デザインにおける「色」は、

経験的認知の蓄積があってはじめて「情報」として成立する媒体であるといえる。

たとえ赤が心理学的に”情熱的な色”を示すといえども、

ホットスパーが知られていなければ、ホットスパーが”情熱的なコンビニ”であるという情報は伝達されない。

(スパーは確かによくわからない弁当を売っている独自の熱い情熱を持つコンビニである…のだろうか…)

では、青=ローソンが成立しているということを前提とした上で、

その青は、”そこにローソンがあること”以外にどのような情報を持つのだろうか。

ローソンが掲げるキャッチフレーズは”マチのほっとステーション”であるが、

HOTな熱さを示すなら「赤」を選択するのが常だろうし、安心ならば黄色などの暖色を用いることだろう。

つまり、看板における色が持つ情報は、色が心理学的に有する意味とは何ら関係がないともいえる。

これは、コンビニの”何でも売っている気軽に立ち寄れるところ”という性質からすれば当然のことともいえる。

情熱的な弁当を別に食べたいわけではないのである。

となると、やはり建物のアースカラーとコントラストが強い原色を選択したところに、

ローソンの看板の情報性の高さの秘訣があることになる。


この点、セブンイレブンやサンクスといった他のライバルをみてみると、

「緑+赤」や、「緑+黄色」といった、やはり原色に近い色を用いていることが分かる。

これらは、色と色の対比・組み合わせによって、また他の建物や看板との差異を明確なものとしている。

また、「7」や「K」という、比較的「認識し易い形」を+αの要素として加えている点も、

コンビニであることをアピールするという点では見落とすことはできない。


さらに、コンビニの看板は他の看板にくらべ、輝度がとても強い。

これは店内の照明の明るさとも相重なって、心理学でいう深夜の「集光効果」を生み出している。

(虫のようだ・・・)



では、これらの手法を他の広告メディアに転用することはできるだろうか。


例えば、原色に文字が数行しか付されていない書籍は、やはり人目につくという点では広告効果抜群である。

しかし一方で、これは人目を引くと同時に、

文字によりその本の”内容を示す”という機能・情報の伝達には失敗していると見ることもできる。

この点、店頭に並ぶ本というものは、その場で”立ち読み”することができる。

すなわち、いわゆるCDの”ジャケ買い”とは違って、

ブックカバー自体が内容を示す必要はなく、目次を開いて読めば内容理解は十分であるという特性を持っている。


つまり、その内容よりも存在それ自体をアピールすることを目的とするのであれば、転用は可能である。


例えば知らない土地で車で立ち寄る場合のように、

看板の青は、「道が分からない」「トイレに行きたい」「小腹がすいた」といった、

コンビニ本来の店としての意義ではなく、副次的な目的に対する情報伝達の媒体としてしか効果を持たないのである。


これは、先に述べた”マチのほっとステーション””赤くない”と同義ともいえよう。


まぁ結局、

日常の身の回りにあるモノ は 存在をアピールして欲しくない から 暖色無印良品 が比較的好まれ、

逆に、 トイレに行きたい ときには一心不乱に存在をアピールして欲しい からローソンの青がイイのである。


そこに清潔なトイレと親切な店員さんが加われば、

ローソンは青かろうとも”マチのほっとステーション”であり続けるのだろう。

自動ドア

ATMやお店の大抵の入り口は、自動ドアである。

しかし、自動ドアは一定の距離に物があればセンサが反応してしまうため、

例えば注文した弁当ができるのを入り口で待っているときでも、

「別に入るつもりはないのに入り口が開いてしまう」という、

本来の意味からすれば自動ドアは”誤動作”をする結果となる。


この誤動作を解消するためにはどうしたらよいのだろう。


センサの反応領域を狭くすると、当然自動ドアの利便性が失われる。


そうすると、現在のセンサを維持するならば、センサの非反応領域に人が立つしかない。

つまり、ATMならば入り口と直角ではなく並列に並び、店の中ならば、”待合椅子”を設ける、という方法である。


では、センサに代わる物を用いたり、センサに何かを+@するのはどうか。


まず、センサに反応する + 特定の動作をする ことによって開く自動ドアは、使い勝手が悪い。

すなわち、人間にこれ以上余計な動作をさせてはならないのである。


となると、やはり物が何か人間の+@を認識する必要がでてくる。


つまり、「店に入りたい」「ATMを使いたい」という人間の意思が、

どのような外面的な行動に現れるのかを考えなくてはならない。


この問題について、1つの視点は”目的を考慮する”ということである。


ATMを使いたいのは、「お金を降ろしたい・振り込みたい」からである。

ならば、カードを入り口でSuicaのようにかざすのはどうか。

これならば、ATMに入った後に、もはやカードを機械に入れる必要もなくなる。


ホカ弁待ちの客ならば、「弁当を持ち帰る」のが目的である。


では、弁当の容器にRFIDをつけたらどうだろう。

この場合、弁当に反応し、中から弁当をもった客しか出ることができないとなれば、

不味い店の売り上げにただただ貢献する結果となるばかりである。


”順番待ちの札を持っていると開かない”ならどうだろうか。

これは、例えば私の近くの「オリジン弁当」は順番待ちの番号は”レシート”と同じ”紙”で渡されるから、

コスト面において客が不便を感じようともこのシステムを導入するメリットはなさそうである。


こう考えてみると、ホカ弁屋の自動ドアはこれ以上改善できないようにも思われてしまう。

しかし、両手が弁当でふさがるホカ弁屋ほど、自動ドアが必要であるのも事実である。


もはや、「○○番でお待ちのお客様お待たせしました」の声に反応させるしかないのだろうか。


なんだか話が小さくなってしまった。

プロダクトデザイン

プロダクトデザインが持つ重要な機能として考えられる要素は、大きくいえば次のものが挙げられる。


  1.機能面での使いやすさ

  2.美感面での美しさ


しかし、機能面と美感面の両方を併せ持つプロダクトデザインはなかなか難しいものである。


一方、たとえばハサミのように、機能自体がデザイン化した美感を付け加える必要性の無い物であれば、

これに加える装飾や変形などは邪魔なものである。


そこで、無印良品が掲げる「”これでいい”のデザインを向上させる」というコンセプトが生まれるわけである。

そこでは、機能面を失うことなく、かといって「格好悪くて使う気を起こさせない」ものではないデザインが求められる。



ところで、ユビキタス・コンピューティングの進展によって物同士が情報を蓄積し、通信をはじめるようになったとき、

プロダクト・デザインは、今とはまた別の要素が求められるように思われる。


質量的な側面から見れば、ユビキタスな世界であっても有形無形の「物」と「情報」という二分法は可能である。


しかし、

「物」が「情報」を持たなければ機能を果たさず、「情報」は「物」が存在しなければ意味を成さないものとなれば、

これら二つの要素を一体として捉えた”デザイン”が必要になるのである。


つまりそこでは、

  

  ・ 情報をいかにして効率的に利用するか

  ・ 物と人とのコミュニケーションをどのように図るか


という側面が重要になる。


前者は、さらに情報の「ストレージ」と「動作」という要素に分けることができる。

そしてこれらは、

いかに小さな質量をもって沢山の情報を蓄積できるかや、

高速に動作するためにはどうすればよいかといった問題に還元される。


後者についてみれば、物が蓄積している情報をどのように人間に伝えるかという点を考慮することになる。

ただし前提として、そもそもその情報は人間が知る必要があるのかということを考えなければならない。


つまり、「人間が物について知らなければならない情報とは何か」という問題を、

ユビキタス世界でのデザインを考える上で避けては通れないことになる。


だが、ユビキタスコンピューティングのそもそもの考えは、「いつでも、どこでも、誰とでも」というように、

人間が特別の注意を払わずに物がさらなる機能を実現する点にこそ、その存在意義をもっている。


よって、「物自体についての情報」は人間に与えるものであってはならず、

物が持っている「別の物・事象についての情報」のみが、人間に伝達されなければならないのである。


例えば、カレンダーが目の前に架かっている。


カレンダーが人間に与える情報は、その上に印字された「年月日」である。

また、これに人間が書き込むことにより、「予定」という情報もカレンダーは蓄積することになる。


では、カレンダーがコンピューティングするとはどういうことか。

ひとつ考えうるのは、時間を合わせて表示するという機能の拡張である。

「月日」と「時間」ならば、相互に関連性を持つ要素であるから、大方”便利”ということにもなる。

しかし、ここに”ブログ日記”や”広告”などの機能が加わってしまえば、

もはやそれは「カレンダー」ではなく、壁にかかった単なるPCのスクリーン画面である。


ここで見えてきたことは、

”ひとつの物が与えるべき情報は、有限でなくてはならない”ということだ。

つまり、何の関連性もない要素が次々と加わることにより、物の機能は拡張するが、

求める情報を瞬時に伝達することが困難となる、という点において物の利便性は失われていくのである。



したがって、ユビキタスな環境を構築していくにはまず、

その物にどこまでの情報を与える役割を付与するかを考えるという視点を持たなくてはならないのである。

警告音

電子レンジの”チンッ!”は、動作完了の合図。

その後に間を隔ててなるのが、「早く中身とれ!」の合図。


後者は警告音だから、レンジの扉が開くまで数回鳴り続ける。

しかし、「わかっているけど手が離せないんだよ!」という状況であれば、

警告音は警告という目的をもはや達成しており、単なる”耳障りな音”である。


これは、「レンジの扉が開いていない」ことを、本人が「忘れている」ことへ抽象化した結果生じるものである。


では、「人が気づいていない」とはどういう状況だろうか。


例えば、洗濯機を回しながら別のことをやり始めてしまうと、ついかけたことを忘れて家をでてしまう時がある。

つまり、意識が洗濯機へ向く機会が、玄関の扉をあけるまでの間に与えられていないのである。


警告音がうるさくてだめならば、視覚情報として機会を与える方法はどうだろうか。


1.玄関のドアにリアルタイムなデジタル表示のチェック表を設ける

2.身に着けている物にさりげない表示をする(例えば家の鍵のキーホルダーが赤く点灯)

3.洗濯機を玄関の前に置く

4.部屋の雰囲気を変化させる → 例えば壁紙がほのかに青く染まる


いずれにせよ、人が気づいてから~行動するまでの間に”うるさい”と感じるようなデザインをしてはいけない。

「アフォーダンス」

「アフォーダンス」(Affordance)


もともと知覚用語であるが、Normanがインターフェイスの用語として定着させた。

物体の持つ属性(形、色、材質、etc.)が、

物体自身をどう取り扱ったら良いかについてのメッセージをユーザに対して発している、とする考えである。 


インターフェイスのデザインにアフォーダンスを利用すると、

ユーザはその扱い方を知らずとも、その時々物体の方が扱い方を教えてくれる。

つまりユーザがその物体について知っていなくてはならない事の量を減らすことが出来る。


インターフェイスの世界では、純粋なアフォーダンスだけではなく、

後天的な学習によるものも含め、広く「アフォーダンス」という言葉を適用する傾向がある。

また実際、その区別は困難であると思われる。


我々はドアの扱いについて明示的に教わった事はない(と思う)にも関らず、無意識にドアを扱うことが出来る。



 「赤」 = 「停止」「危険」という意味を与える 

               ⇒ 「停止解除」や「触るな」というメッセージをユーザーに発している


・ ”小さく閉じられた領域”が画面上にあれば、Linkのある”ボタン”だと思ってCLICKしてしまう


・ 「Click Here」のように、「Don't click here」というボタンを表示しようとも、やはりクリックしてしまう

     ∵ 文字の意味にかかわらず、WEB上においては「CLICKして次に進む」ことが前提であるために起こる

       (押せば何か情報が得られる、というインセンティブをもつ)


・ リモコンの”細かいボタン”は、「手で使え」というメッセージを発している