今回は、三橋乙揶(シバ)さんの記事に少しだけ触れてみます。

 

シバさんは、プロフィールから始まり、6回にわたり掲載されています。

 

それを、一度にUPすると、とんでもない量になるので、

コラムごとにしようと思います。

 

私は音楽で知り合ったのですが、漫画家であった事も知っておりました。

もちろん、「ガロ」の漫画を読ませてもらった事もありました。

 

シバさんは現在、陶芸もされております。

 

シバさんのブルースギターと、絞り出すような唄い方は独特なものがありますね。

 

付き合いは渡氏ほどではありませんが、武蔵野の仲間として、たびたび唄いに来てくれました。

 

話しが前後しますが、大先輩の店で、「ぐゎらん堂」と言う店があったのです。

 

常連ではなかったのですが、当時私の聴いた事がない音楽がかかり、レコードを買うお金がなかった私は、ちょくちょくお邪魔しておりました。

 

 

そして、そこが、シバさんと渡氏の活動の場の一つでもあったように思います。

 

そのうち、フォーク仲間が集まってきて、あの有名なフォークソングのメッカとなっていったのです。

 

「武蔵野たんぽぽ団」の事をと思われるかも知れませんが、その頃の私は関わって

いなかったので、詳しい事がわからないのであります(ごめんなさい)。

 

次回は、新聞のタイトルにもありますが私が感じている、大先輩の「ぐゎらん堂」の事でもと考えています。

 

 

 

 

 

 

もう、10年以上も前の話になるのですが、取材嫌いのマスターが朝日新聞の方から電話を頂いたのです。

 

シリーズで朝日新聞に掲載している「中央線の詩」の最終章を吉祥寺にしたいとの事でした。

 

それなりな情報は提供できると返事をしたのです。

 

しかしながら、タイミングがわるぅ〜御座います。

 

友達である高田渡氏が亡くなって、しばらくしてからの事なんです。

 

あの当時は彼の話はしたくなかったので、全ての取材を断っていたのですが、新聞の内容を読んで、申し出を受ける事にしたのでした。

 

新聞の切り抜きを全て持ってないのですが、あの頃を思い出しながら話しをしようかと思います。

 

私は、吉祥寺に関する事のほんの一部にしか関わっていないのですが、朝日新聞の真摯な想いを感じ、受ける事にしました。

 

さて、前説が長くなりました。

 

新聞のタイトルが「聖パウロ」であります。

サブタイトルが、「店に団塊『渡もうで』」。

 

亡くなった彼の事を思い、「いせや」からうちの店までのコースを、

誰がつけたかはわかりませんが、渡ロードといつしか言われるようになりました。

 

 

場所は変わってしまいましたが、いまも時たま渡氏ファンの人達が来てくれます!

 

あの頃は、ショックが大きかったので、来られた方と渡氏の話をする事を避けていたのですが、今は懐かしい彼の話を時々できるようになりました。

 

私が彼の死を知ったのは、FM放送の収録中で、それも彼の曲をかけていた時なのでした。

 

偶然にも程がある・・・。

 

収録をやめましょうか?って聞かれたのですが、途中で止めるわけにもいかず、

最後までやりきりました。

 

後にも先にも、このような収録はありませんし、あって欲しくもありません。

 

今回は、新聞の内容どおりではありませんが、私の事として少しだけ書かせてもらいました。

 

 

高田渡さんの楽曲は、私よりも詳しい方が多いと思いますので、今回は曲紹介を割愛いたします。