「古墳時代の終わりと龍王山古墳群」
講演を聞いて
古墳を見る角度が増えました
この興奮がうまく伝えられるかどうか
これまで巨大な前方後円墳や
豪華な副葬品から
権力の象徴という印象でした
もちろん
そういう面もありますが
古墳規模や形状 副葬品が
変わっていくことにも
意味があったんです
6世紀になると
前方後円墳から
円墳 方墳 八角形墳と
墳形を変えます
そして
小型の古墳が密集した群衆墳が
複数の場所で形成するようになります
龍王山古墳群は
天理市の龍王山の麓に位置し
600基以上の墳墓が見つかっています
古墳時代終末期といわれる
6世紀後半〜7世紀中頃に
営まれた奈良県最大の群集墳です
その一部
E地区・G地区と名付けられた古墳群は
墳丘のあるものから
斜面に穴を掘った横穴墓へ変化し
複数人を葬る墓から単葬墓へ変わっています
他にも
古墳時代の土器と古代の土器が出土し
平安時代の祭祀機構までも
見つかっています
このような群集墳は
葛城市の三ツ塚古墳群にも見られます
三ツ塚古墳群の特徴は
墳丘をもつ古墳の後ろの斜面で
火葬墓・木棺墓が無数に造営されています
2つの古墳群の変遷は
何を意味するのか
古墳時代から飛鳥時代へ移っていく中で
古墳も規模や墳形が変化します
古墳の築造には
場所を決め 測量し
石を運び込み 削り 積み上げる
大量の土を盛る
それはもう
たくさんの人が関わる
大がかりな土木工事です
そして
被葬者の埋葬までには
モガリに始まり
多くの人の手によって
様々な儀礼を行います
作業や儀礼をする中で
役割やしきたりを伝える
古墳づくりには
帰属する集団を結びつける意味もあったと
考えられます
単葬化していくということは
造墓・葬送に参加する人々や
所属する氏族に変化があったと
いうことです
講演の中では
そこには律令が
深く関わっているということでした
古墳時代
古墳の築造・葬送が
地域社会の秩序を守ること
になっていました
飛鳥時代になると
それらが
律令に変わったということでした
へー
そういうことか
現代でも
少し前まで葬儀は
地域のそれなりの人が
葬儀委員長を務め
たくさんの人が参列して行われる
一大行事でした
近隣の人が炊き出しをし
親族や参列者に
食事の振舞いもありました
最近では
ごく近親者だけで見送る家族葬が
増えてきています
地域との結びつきが薄れ
「個」に重きを置かれるように
なったんだと思います
今も昔も同じなんですね
次回へつづく