和歌山県の古墳って行ったっけ?

と思いめぐってみました。

 

車駕之古址古墳は、和歌山市の北東部に位置し、5世紀後半に築造された墳丘長86mの前方後円墳です。

   

古くから墳丘の上部が削平されていたため低くなっており、調査でも埋葬施設は確認されませんでしたが、和歌山県では珍しく、ヤマト王権の大王墓に共通する周濠・造出し・段築・葺石など本格的な施設を持っています。

 

また、大変珍しい金製勾玉1個が出土しています。新羅の古墳では出土例があるものの国内では初です。もしかするとお宝がザクザクあったのかもしれません。

   
古墳の形式からはヤマト王権とも近い人物であり、倭国中枢へ向かう紀路の入口になることから渡来人との交流が深かったことをうかがわせます。
 
4kmほど西へ向かいます。
 
大谷古墳は、大阪と和歌山の県境となる和泉山脈から南へ伸びる尾根の突端を利用して造られています。

   

5世紀後期~6世紀初頭の築造、全長67mの前方後円墳です。高さ6~10mとありますが、段丘上にあるので思ったより高く感じます。

 

石室を設けず直接石棺を埋納されていました。若い青年の人骨・馬甲・馬具・垂飾付耳環などが出土し、紀氏一族の武将・奥都城ではないかと推定されています。

   

後円部から前方部を望むと、向こうには和歌山市街地が一望できる格好の立地です。

 

さらに西へ1.5km離れたところには、園部丸山古墳があります。

   

同じように和泉山脈から南にのびる尾根の先端に位置しています。見つけるのに苦労しました。

 

6世紀中頃に築造された直径25mの円墳ですが、横穴室石室部分しか分かりません。

柵の間から中をのぞくと砂岩の巨石が見えます。

   

紀ノ川流域の古墳の多くが緑色片岩を用いているのに対して、ここは砂岩の巨石を用いているのが特徴です。

 

石室に梁を設けるなど岩橋千塚古墳群の横穴式石室を意識しているということなので、見たかったのですが暗すぎてよく分かりませんでした。

   
 
紀ノ川の北側に位置する3つの古墳は、いずれも和泉山脈の南端の河岸段丘上にあり紀ノ川の氾濫を意識されたものではないかと思われます。また、時代を追うごとに東へ移っています。この辺りは日本最大の断層である中央構造線が走っているので関係しているかもしれません。
 
紀ノ川の南側には、岩橋千塚古墳群がありますので、またいつか紹介したいと思います。
 
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