歴史のない日本人  

 

             ――敗北者たちの姿見――

              1868~1945

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                 第56話

                 支那撤退  
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               嵐の前の静けさ

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  吉田は叫んだ!

 「閣下、戦ってはなりません!」

 当惑した表情を浮かべて、蒋介石は首を捻った。

 戦う?

 誰とだ、――日本?、共産軍?

 とりあえず思い浮かぶのはこの二つであった。

 だが、いずれも答えとするにはどうも弱い気がした。

 すると吉田はその疑念を晴らすかのようにこう言うのだった。

 「閣下、最初の私の言葉を思い出してください。

 いま閣下に必要なのは<信用と信頼>です!

 支那民衆の、です。

 それをなんとしてでも早急に回復させなければなりません。

 それを得るためには、閣下は<与え>なければなりません。

 <奪う>ばかりではなく、閣下も彼らに与えなければならないのです。

 そうする必要があります。

 そうしなければ、スターリンの呪いからせっかく離脱したのに、何の意味も

 無くなってしまいます。

 閣下が本来の力を回復するにはそれが必要です!

 ここでもし戦って敗れたら、あれは何だったんだとなるだけです。

 戦いは負けとなりましょうから…

 いまは隠忍自重の時でしょう。

 決して戦争をしてはならないといっているわけではありません。

 やがてその時はきます。

 ただ、今はその時ではないと…

 いまは力を蓄える時であろうと申し上げているだけです」

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  「共産主義制度・社会主義経済の下では豊かになるのは未来の話です!

 指導者たちがまず力を入れるのは民衆の生活ではないからです。

 ですからいまはいつまで続くか分からない忍耐の時となります!

 それがかれらの日々の生活となります。

 ですが、民衆の本音は今すぐ豊かになりたいのです。

 これに立脚するのが資本主義・自由主義経済下の社会です。

 そこででは、皆は今すぐ儲かることを目指します。

 少なくとも<今>は出発点となるのであって、明日明後日と豊かさを積み重

 ねてゆくことを彼らは目指すものです。

 民衆は活発に自発的積極的に活動を始めます。

 支那人は商売が上手、そして逞しい。

 工業も農業もすぐに活発になることでしょう。

 そもそも支那北部が政治の世界なら、南部は経済の世界でしたから。

 経済、生活の競争では、閣下の方が一日の長があることを自覚すべきでしょ

 う。

 したがってその環境を一刻も早く整えてやることが、閣下のまずはやらなけ

 ばれならないことではないしょうか。

 ですから閣下が支那民衆に一刻も早く与えるものは、また与えなければなら

 ないものは<平和>なんです。

 彼らに安心して暮らせる治安のしっかりした社会環境を与え、穏やかな明日

 が必ず迎えられる保証を与えることです。

 そうすれば彼らは、ほどなく自分たちの生活が隣の世界よりは目に見えて豊

 かになってきたことが実感できるようになることでしょう。

 ――閣下、これも間違いなく戦いなんです。

 武器を持って戦うのとはまた違う…

 いざ戦争となった時、これが最後の決め手となることでしょう」 

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  蒋介石は静かに頷いた。

 彼も思った。

 これからは軍人としてよりも政治家としての蒋介石が必要になるのだ。

 民衆を豊かにするまでは極力戦いは慎まねばならないと――

 だが、すぐに蒋介石は苦笑した。

 なんということだ。

 自由になったと思ったら、つまりはもう一つの別の不自由との交換だったの

 だ。

 また辛抱が始まるのだ。

 だが、受け入れるしかあるまい!

 共産主義者たちとの闘いはそもそも長い長い戦いなのだから。

 思えばこれまでも長かったが、これからもそれはきっと長いことだろう。

 そう思いながら、蒋介石はじっと吉田を見つめ続けた。

 こんな中で、このような男に出会ったのは幸運なのかもしれない。

 実際吉田は実に不思議な男であった。

 それともう一つ、何よりも彼は誠実であった。

 そんな吉田に蒋介石は強い好感を持った…

 吉田が立ち上がった。

 そろそろ潮時と感じたからだ。

 それは蒋介石に別れの言葉を述べるためであった。

 「閣下、私が申し上げたいことはこれですべてです。

 支那民衆のために、もしこれが少しでもお役に立てたらと、小生心から願っ

 て居るところでございます。

 話の中で多々失礼のあったことは承知しておりますが、支那民衆を思うが故

 のこととご理解いただき、どうかご寛恕のほどをお願い申し上げます。

 それではこれで私は失礼させていただきます」

 吉田は深々と腰を折った。

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  蒋介石も立ち上がったが、ドアに向かおうとしている吉田を彼は両手で押

 しとどめた。

 怪訝な顔をする吉田を残し、彼は部屋の奥の大きな机に向かった。

 そして机の上から細長い古ぼけた小箱を抱えて戻ってきた。

 吉田はすぐにそれがあの掛け軸であることに気づいた。

 彼が慌ててそれを押しとどめようとしたとき、蒋介石は静かに首を振って言

 うのだった。

 それはいつにない厳しい声であった。

 「吉田さん、…支那にも礼儀はあります!」

 彼はさらに言った。

 「だから、謙譲の美徳も理解できます。

 相手に敬意を示す一つの事例ですからね。

 ただね、過ぎたるは及ばざるがごとしのことわざもあるのです。

 やり過ぎはかえって相手に対して失礼になりかねない。

 それによって相手を不快にさせたら、かえって最大の無礼ですよ」

 そう言うと蒋介石は、一転してニッコリとほほ笑むのだった。

 「我々の心からの好意です。

 どうか気持ちよく受け取ってください」

 吉田は何も言えなくなり、ただ辞を低くしてそれを押し頂いた。

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  「どうぞ閣下、ご健勝で…

 ご武運を心からお祈りしております」

 それが吉田の最後の言葉だった。

 彼はもう一度深く礼をして、蒋介石に背を向けた。

 部屋を出るまで、彼はもう振り返ることは無かった。

 ドアの外では、真っ暗闇の中で召使が燭台を掲げて立っていた。

 吉田はそれを見てなぜか思った。

 もう外は少しは明るいはずである。

 夜が明けていてもいい頃だがと…

 玄関の大きなドアが開かれてかすかな外光が目に飛び込んできたとき、吉田

 は朝の清々しい空気の中に浮かんでいる織田首相の顔を見た。

 その顔は笑顔であった。

 込み上げてくる強い疲労感の中で彼は思わず、

 「首相、…これでいいですよね」

 とつぶやいていた。

 そして吉田は何かをやり遂げたという深い満足感に襲われたのであった。

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  宿舎が嵐の場となった―

 「吉田!」

 いきなり怒声が吉田に降りかかった。

 怒り狂った赤鬼がじりじりしながら吉田を待ち受けていた。

 モーガンが部屋の真ん中で仁王立ちとなり、怒髪天を突く勢いで憎悪と恐怖

 を噴き出していた。

 吉田がドアを開け中に入ると、今にも掴みがからん勢いで彼は詰問した。

 「お前は今まで何処に言っていた?

 なんで約束を破った!」

 彼は大声で叫んだ。

 もう何が起ったかを悟っているのか、憤りと言うよりもむしろ泣きそうな声

 で彼はそう叫ぶのだった… 

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