歴史のない日本人  

 

             ――敗北者たちの姿見――

              1868~1945

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                 第56話

                 支那撤退  
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             蒋介石は呪いを解けるか?

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  部屋の真ん中で蒋介石は目を瞑り腕を組み、少し頭を傾けて顎は上げ何ご

 とかを思案しているようだった。  

 時折、その体がゆらりゆらりと揺れた。

 吉田はじっと待った。

 ソフアに座ったままであったが、目を瞑っていても姿勢は正して、吉田は辛

 抱強く待ち続けた。

 「吉田君!」

 突如耳元で声がして、彼はビックリして目を開けた。

 蒋介石はいつの間にか吉田の後ろに立ち、ソフアの背もたれに両腕を置い

 て、覗き込むようにして彼に声をかけたのだった。

 吉田は振り向かなかった。

 緊張したそのままの姿勢を保った。

 「その方策はあるのですね?」

 と耳元で蒋介石はそう問うた。

 その声は聞き取りかねるほど低かった。

 コクンと、吉田は頷いた。

 急に蒋介石はその場を離れて、再び元の位置に戻った。

 そしてまた考え込んでいた。

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  吉田は静かに立ち上がった。

 そしてゆっくりと蒋介石の傍に近づくとこう声を掛けた。

 「閣下が生き残るためには<国共合作>から脱出することが必要です!」

 蒋介石はギロリと目を剥き吉田を睨んだ。

 「それはスターリンの罠、そしてあなたにかけられた呪いです!」

 蒋介石は押し殺した声で問うた。

 「道があると?」

 吉田は再び頷いた。

 蒋介石は、鼻から唸り声とも息ともつかぬ大きな空気を噴き出し、腕を組ん

 で仁王立ちとなった。

 そして少し目を瞑っていたが、片手で吉田に下がれとの合図を示した。

 ソフアに座って待て、というのであった。

 何かを整理するためにはそれが必要なのだろう――彼は腕を組んで、部屋の

 中をあちこちと彷徨し始めた。

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  「すべては張学良が引き起こしたあの蒋介石監禁事件、<西安事件>に始

 まっています。

 しかし、そこで決まった国共合作はおそらく必然だったのでしょう。

 たとえそれが閣下の意に添わぬものだったとはいヘ――

 それは逃れることはできなかった。

 そしてそのまま進めば当然その結果からも…

 閣下はそれから逃れぬことができぬまま、やがて共産軍と再び戦いとなり、

 そして今度は敗滅するかあるいは支那を追われる運命に直面することになり

 ましょう。

 スターリンの描いたプランは見事に実現することになります。

 なにしろ今の支那は三者三竦(すく)みの様相ですからね。

 ナショナリズムに基づく共産党は今のところ日本軍にはまだ弱いがやがて勝

 てる自信があり、実際士気も高く強く、次第に手強さを増してきています。

 ただこれまで蒋介石軍に弱かったのだけが弱点。

 なにしろ同じ支那人にはナショナリズムは効力を持たないですからね。

 ところが蒋介石軍は日本軍には滅茶滅茶弱いときている。

 こうなるとどこかナメクジと蛙と蛇の関係ですね。

 そこでスターリンは日本軍と蒋介石軍を戦わせてどちらも消耗させることを

 考えたのでしょう。

 漁夫の利どころか、まさに一丁二石の名案ですな」

 「…… ……」

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  「最初、支那共産党の幹部たちは皆あなたを殺すことで一致していたそうで

 す。

 何しろあなたは彼らにとって一番手強い、眼の上のたん瘤でしたからね。

 無理もない。

 それに強硬に反対したのがスターリンでした。

 もしそうしたら、支那共産党とは完全に縁を切ると宣言したそうです。

 まぁいわば彼はあなたの命の恩人ですな。

 そして彼が指示したのが<国共合作>でした。

 その切り札は総統の御子息蒋経国でした。

 彼はソ連に人質状態でしたから。

 あなたは自分の命などどうでもよかった。

 だが、子供だけはなんとしても助けたかった。

 あなたはそれを助けるために国共合作を受け入れたのです。

 だがしかしそれは、あなたを信じて命がけでついてきた者たちへの間違いな

 く裏切りです。

 それが分かっている周恩来は派遣先でもちろんそんなことはおくにも出さな

 かったことでしょう。 

 さりげなく子供の話に触れることはあってもですね。

 脅しで成り立つ合意には安心はできないからです」

 蒋介石は憤怒の形相であった。

 彼は目を開けず、唇を噛みしめて必死に耐えていた。

 それは誰にも触れられたくない、彼の屈辱の秘部であったからだ。

 たとえそれが事実であろうともまた虚構であろうともである…

 だが、吉田は敢えてそれを無視して先へ進んだ。

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  「すでに腹は決まっていても、それを表に出すのは容易なことではなかっ

 たと思います。

 いきなりの方針変更ですからね。

 誰もが疑いを持つのは当然です。

 下手をすれば、あなたの政治生命は終わりかねない。

 さぁどうするか?

 あなたはさぞかし思案したことでしょうな。

 そして思い至ったのが崇高な目的を打ち出すこと!

 つまり現精神を昇華させること!

 それは支那民衆なら誰でもが心を動かされ、魂を揺さぶられる民族主義に立

 つことでした。

 すなわち支那人による真の独立を達成すること。

 まずは最優先で支那から日本軍を追い出し、支那人による支那人だけの国家

 社会を達成実現することでした。

 国共合作などは枝葉末端の話です。

 それは単なる手段のこと。

 その後のことは、日本軍を追い出してから考えればいいのですから。

 支那は湧きたったことでしょう。

 感動すらしたのではないでしょうか?

 なにしろこれまで敵味方に別れいがみ合っていたものが、今や一致協力して

 敵にあたろうとしているのです。

 誰もが成功を確信したことでしょう。

 これによってあなたは、次第に再度の統一に成功していった」

 蒋介石の顔から赤みが消えていった。

 「実際あなたは日本軍に自信を持っていた。

 それが上海戦でした。

 あなたはそこで日本軍に相当の被害を与え、これを撃退できると踏んでいた

 のです。

 それだけの防御陣地をドイツ人の力を借り築きあげていましたからね。

 あとはそこにどうやって日本軍を誘き寄せるかでした。

 しかしながら、その目論見は完全に崩れてしまった。

 日本軍の強さは想像を越えていたからです。

 それはあなたの地獄の始まりでした」

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  「それは、あなたと支那全民衆と交わした約束となりました。

 それはまさに<大義名分>となったのでした。

 だが、それはとんでもない約束だったのです。

 それによって目の前の危機は脱したものの、やがてとんでもない束縛が姿を

 現し始めました。

 だが、いまさら反故にはできないのです。

 死ぬまで進むしかないことが明らかとなりました。

 もはや破ることはできないのです!

 もし破れば、その瞬間にあなたは政治生命を失います。

 失望した支那全民衆の嘲笑の的となり、その中に埋没してしまうしかないの

 でした。

 もはや誰もあなたを振り向くことは無い。

 果たすしかない!

 だから、果たすしかないのでした。

 たとえその先には共産主義社会が残り、あなたには滅亡しかないとしてもで

 す。

 あなたがそれから自由になるのは、その約束を果たした時だけなのですか

 ら…」

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  吉田は突然、提案した。

 「閣下、支那を二つに分けましょう!」

 「ナニ!?」

 蒋介石は思わず目を剥いた。

 「共産党の支配地域を認めるのです!」

 「エッ?」

 「何処がいいでしょう?」

 「…… ……」

 吉田は机の真ん中を指でトンと叩いて行った。

 「ここではどうですか?

 ここが一番いいでしょう?」

 というのだった。

 「揚子江です!

 ここで北支那と南支那とに分けるのです」

 「長江か…」

 吉田の意図を少し理解した蒋介石はボソリと呟いた。

 「閣下の支配領域は長江から南、支那南部と言うことになります」

 「フーム、それで…」

 「総統閣下は、再び支那全土に向けて檄を発するのです!」

 「いったいなんといってだ?…」

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  「日本軍に対して最後の総攻撃をかける時が来た!

 彼らを支那からすべて追い出す!

 総員立ち上がれ!

 ――ですかな?」

 「随分勇ましいな!!

 …大丈夫かね」

 蒋介石は危ぶんだ。

 「そしてこう付け加えるのです」

 「ウ――ン?」

 「今ここまで来て、さすがにわが軍だけでは手に余る。

 そこで南北に分け、責任を明確にしよう。

 わが軍は長江より南を担当する。

 責任をもってここより日本軍をすべて駆逐する!

 共産軍は長江より北を担当せよ!

 責任をもって日本軍をそこより駆逐してほしい!

 双方同時に事を起こす。

 ただしわが軍には共産軍を支援する余力はない!

 そのかわり共産軍はわが軍を支援する必要もない!

 わが軍は必ずや自力でこれを完遂するつもりだ。

 共産軍も頑張ってほしい!」

 「ウーム、なるほど。

 これで彼らと手を切るということか…」

 やっと蒋介石は吉田の意図をだいぶ理解したようだった。

 だが、懸念を示した。

 「彼らは同意するかね」

 「そんなものは要りませんよ――

 彼らは無視します。

 彼らは彼らの好きにやらせればいいのです。

 ともかく一方的に宣言し、そして開始するのです。

 先行することです!

 あとは実績がものを言いますから。

 そして言ったことを必ずややってのけるのです!

 閣下は日本軍を、見事すべて海の中に追い落とさなければならない!

 それができるのですから――簡単に、しかも確実にです!

 そこで閣下は、高らかに勝利宣言します!!

 こうして閣下は、支那全民衆との約束を果たすのです!

 それで終わりです。

 あとは自由あるのみ!

 かくして晴れて閣下は、スターリンの呪いから完全に開放されることになるの

 です。

 そうなると、共産軍もそうするしかないでしょう! 

 遅ればせながら同じ行動をとるほかない。

 民衆は同じことが共産軍にもできるのか見守ることになるでしょう。

 できるだろうと思ってね、大いに期待してね…」

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