歴史のない日本人
――敗北者たちの姿見――
1868~1945
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第56話
支那撤退
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蒋介石総統
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それは午後2時頃であった。
まだ日が高いうちに吉田は重慶の飛行場に降り立った。
飛行場に到着して吉田がすぐに気づいたのは非常に涼しいことと、そして
戦闘機が辺りに一機も見当たらないことだった。
機体らしきものはあったのだが、それはみな単なる置物だった。
だが、上から見たらそんなことはわからないだろう。
それは多分日本軍の空爆を警戒してのことなのだろうと吉田は理解した。
どうやら飛行場はあちこちにあって、そこから支那軍は一旦ここに集ま
り、そしてここから出撃していくのだろう。
だが、そうした観察はすぐに途切れた。
一行はすぐさま飛行場を離れたからだ。
彼らはまず宿舎へと向かった。
蒋介石の待つ庁舎へは少し休憩してからと彼らは告げられていた。
多分総統に会うのは夕方だろうと二人は予想した。
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夕方、予想通りに迎えが現れた。
外はまだ明るい。
二人が使者とともに戸外に出ると、黒光りする型は古いが大型のロールス
ロイスが一台待っていた。
運転手が頭を下げてドアを開けている。
見ると二台のトラックが、それを挟むようにして乗用車の前後に停まって
いた。
そして銃を構えた十、四五人の兵士が辺りを警戒していた。
彼らが乗り込むと、一斉に護衛兵たちもトラックの荷台に乗り込み、一行
は出発した。
石畳の道をしばらく進んでやがて官邸に到着した。
古くはあるがなかなか豪奢な歴史を感じさせる建物であった。
中に入り、ホールのような大広間に案内されると二人はそこでしばらく待
たされた。
中国に長い吉田はそうでもないのだが、連れの バリー・モーガンはよほど
珍しいのか至る所に目を奪われていて、 たえず辺りをキョロキョロと見回
していた。
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小半時ほどすると召し使いらしきものがやってきて、彼らを蒋介石の待
つ部屋へと案内した。
彼らの後に大勢の幹部たちがぞろぞろと続いた。
後に分かったのだがそこは官舎ではなく、どうやら蒋介石の別邸であった
ようだ。
そこでも彼は必要な業務をこなすのだった。
大きな部屋で蒋介石は、これまた非常に大きな大理石の机を前に鎮座して
二人を待っていた。
正面の壁を背に、机はその真ん中に据えられてあった。
机には何かの書類が開かれたたままであった。
最初それらは、高い天井と広い壁のせいか非常に小さく感じられた。
しかし、吉田は知っていた。
それらには意味があるのだ。
ともかく彼らはなぜか巨大なものが大好きであった。
だから彼らは滅多やたらとそれらを造る。
そんな世界に入ると人は、自らのちっぽけさまず認識することになる。
そして同時にまた瞬時に全ての者が顕微鏡の世界に移行するのだった。
そして彼らは周りの大きさに圧倒されて最初は<対象>がどこにあるのか
わからない。
もっともすぐに彼らはそれが人工物であることを思い出す。
そしてその世界の<所有者>が誰であるかに思い至るのである。
要は伝えているものはパワーなのである。
そして対象の意味とはそういうものだと彼らは気づくのであった。
つまり彼らは力のありかを知ったのだ!
そこで再びその対象に目を留めるとき、すでにしてそれはたちまち畏怖す
べき巨人と化していることを理解するのであった。
彼らはかのものの権力をいやと言うほど思い知らされ恐怖せざるを得ない
ことを悟るのだった。
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蒋介石は二人を認めて立ち上がった。
机を周って彼らにゆっくりと彼が近づいてきた時、吉田とモーガンは酷く
緊張した。
背丈は普通であった。
軍人らしい痩身で筋肉質の身体である。
軍服を彼は着用していた。
これらはどうと言うことは無いのだが、彼らの緊張おそらくその顔の無表
情のせいであったのかもしれない。
どこか背筋を冷たくするものがある。
その切れ長の目を持つ顔は冷やかであった。
青白い顔のその奥でその双眸は鋭い眼光を放っており、二人を見つめる眼
差しには明らかに尋常とは異なるものを感じた。
それは明らかに、権力を維持するものに有り勝ちな粛清を厭わない冷酷な
光であると彼らは感じたのであった。
ただ吉田はもう一つ別のものも感じていた。
ひょっとするとそれはある意味、容易ならざる関心を表しているのではな
いかと思ったのであった。
蒋介石は最初に吉田と次にモーガンと握手を交わした。
そして彼らの旅を労った。
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吉田は蒋介石に来訪の口上を述べた。
「 織田信長首相から蒋介石総統閣下に対し、首相がどうしてもお伝えした
いという御言葉を預かって参りました。
どうぞお納めいただきたいと思います 」
蒋介石は静かに頷き、別室に移るよう促した。
彼は会談を想定しているようであった。
そして蒋介石を先頭に 十名ほどの高官と吉田ら二人、通訳の四名が用意さ
れた部屋に移った。
蒋介石は最初モーガンに怪訝な表情を見せていたが、吉田の説明で納得し
たようだった。
各人席に着いたのを確かめると高官の一人が立ち上がり会談の開始を告げ
た。
さっそく蒋介石が吉田に発言を促した。
「 吉田特使、要求をお聞かせください 」
流暢な日本語であった。
吉田もそれに応えるべく腰を浮かしかけたが、すぐに机に置いた手をはず
しもう一度腰を下ろし呼吸を整えた。
想定はしていたが、目前にあるのは大きな溝であった。
彼は覚悟を決めて立ち上がり、携えてきた首相の言葉をさっそく蒋介石に
披露した。
吉田は蒋介石総統に向かって次のように言った。
「日本軍は支那戦線から完全にかつ速やかに撤退いたします」
そう言ってすぐに彼は着席した。
それ一言であった。
それ以外の言葉を付け加えることは、織田首相から吉田は固く禁止されて
いたからである。
驚いたのは傍らのモーガンだった。
何かを言おうとしたが言葉にならない。
吉田の顔を茫然として見つめていた。
また支那側の面々も困惑していた。
それは彼らの予想していた範囲内にあったとはいえ、意味するものはずい
ぶんかけ離れているように見えた。
確かに伝えられたこと自体は間違いなく極めて重いものであった。
実際それは居並ぶ者たち全員に衝撃を与えた。
ただ、如何せんあまりにもそれは短すぎた。
彼らは完全に虚を突かれてしまった。
皆あまりのことにしばらくはポカンとしていた。
拍子抜けしているものがいる一方で、あるいは中にはついに憤慨する者ま
で出た。
みな処理しかねていて、実際は困惑しているというのが実情であった。
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困惑したのは蒋介石も同じだった。
受け取り方は彼らほどではなかったにせよ…
( 決意だけ?… )
彼もまたその処置に困った。
分かるようでわからない。
文字通りではあまりに難解過ぎるのだった。
蒋介石はそれが意味するところがどうしても読めなかった。
彼はしばらくおいてかろうじて絞り出すようにこう呟いた。
「 そのための条件は? 」
「 ありません! 」
「 …… …… 」
蒋介石の顔がゆがんだ。
頭の中を整理するのに、彼は躍起になった。
どうしても裏に何かある、と言う気持ちが拭ぐえなかったからだ。
それが、ことを纏めることを妨げていた。
蒋介石はついには椅子に背を預け、目を瞑り静かになってしまった。
「 それはいつですか? 」
誰かが問うた。
「 ハッキリしたことは分かりません!
近じかでしょう 」
と言う会話が遠く聞こえた。
それを聞きながら、蒋介石はついに腹を固めた。
彼は立ち上がった――
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一同は再び元の大きな部屋に戻った。
蒋介石は二人を前に置いて背を向け、真正面の壁に相対していた。
何を考えているのか彼は、壁にかかっている掛け軸と花で飾られた大きな
壷をじっと眺めているのだった。
彼はくるりと向き直ると、吉田に向かって慇懃にこう述べた。
「吉田特使、まことにご苦労様でした。
わざわざおいでいただけたのに、私どもはあなたに対して何の歓待もして
おりません。
まことに心苦しい限りです。
どうでしょう、特使。
あの壷をお持ち帰りいただけませんか?
あなたに差し上げたいのです」
蒋介石は正面に見える大きな壷を指さした。
吉田には少し骨董の趣味があった。
そのためそれを一目見たときから、吉田でさえもそれがいかに価値あるも
のかはすぐに察することができた。
作者の名は知らぬが、紺ともいえず青ともいえぬ美しい色合いの肌が美し
く輝いているのだった。
見事な名品であった。
彼は首を振った。
「 閣下、お気持ちは有難く頂戴いたしました。
そのお心遣いに吉田、ただただ感謝申し上げる次第です。
ただ、このような貴重な名品は不肖私にはあまりにも身に余ります。
正直申し上げて手に余るものです。
また大きいですし、今は戦時中、帰りの飛行機も不安定で何が起こるかは
分かりかねます。
もし途中で何かありましたら、この身はさしたるものではございません
が、古来より伝わりますこのような貴重な宝物をもし消滅させるようなこ
とがございましたら、まさに死んでも死にきれない後悔に襲われること間
違いなしでございます。
どうか閣下、ご辞退させていただきますようお願い申し上げます 」
蒋介石は残念そうであった。
その気持ちを表すかのようにすぐには諦めなかった。
「 あれは明初、景徳鎮窯で焼かれた青花磁器です。
<法花蓮池水禽文壺>と呼ばれています。
なかなかいいでしょう 」
と言って笑った。
「 では吉田さん、あれはどうでしょう。
あれもいいですよ。
明末清初の臨済宗の禅僧、破山海明の書です 」
と言って壁に懸った一幅の掛け軸を指さした。
そこには勇壮な字が躍っていた。
もちろん名品であることは吉田にもわかったが、吉田はため息交じりにや
はり首を振った。
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困った蒋介石は言った。
「 吉田さん、我々支那人にも礼儀と言うものがあります。
支那では、客人に非礼で当たることは全く忌むべきこととされておりま
す。
いったいどう非難されますことか…
またその反対に無礼で遇されることは、ですからこれは我々にとっては耐
えがたいこととなります。
日本人の謙譲は分からないではありませんが、お互い行き過ぎては友好を
損なうことになりかねません。
そこでどうでしょう、これならば―」
蒋介石は仕方がない、それならばと言う風に提案するのであった。
「 せっかくおいでいただいたのです、皆さんを歓迎して一宴を催したい。
われわれの歓待を受けてはいただけませんか? 」
吉田は微笑んで同意した。
「 喜んでお受けいたします 。
むしろ最初にそれを言っていただけましたら…」
それを聞いて蒋介石は、豪快に笑い出した。
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