ゴーダマ・シッダールタ(釈迦族の王子・後の仏陀)は何不自由の無い太子という身分や家族を手放し、真理のを求めて出家した頃、正妻のヤショーダラーが懐妊したことを知り、ラーフラ(障碍・さまたげるモノ)が生まれると言い、出産後にその名が息子の名となったとされています。シッダールタも人の子、本来ならば妻子と幸せに暮らす選択肢も有った筈ですが結局捨てて道を求めました。それだけでは無く生まれた息子を求道を邪魔するモノと名付けたました。捨てられた妻子としては物質的には不足は無かったかも知れませんが精神的には想像は難くなく。シッダールタが悟りを得て仏陀となった後にシッダールタが真理を求めたように夫を求め父を求めて出家して教団に帰依し真理を観るコトになります。

 この世の真理は世間一般の常識や植え付けられて凝り固まった考え方を一度手放さないと悟れないのです。シッダールタが名付けたラーフラと言う名が示す通り息子は障碍なのかも知れません。当のシッダールタ自身も父であるシュッドーダナにとっては想い通りにならないラーフラでありました。シッダールタが生まれた時アシタ仙人という高名なバラモンからこの子は此の儘、国にあれば転輪聖王(王の中の王)となり、出家すれば真理を悟り仏陀となるだろうと予言され、釈迦国の王であるシュッドーダナとしては弱小国家を最強国にできる転輪聖王となって欲しかったコトでしょう。でも歴史が記すようにシッダールタは出家求道を選び仏陀となり釈迦国は滅亡するコトになりました。

 息子は母を守り父に対抗し父とは違う道を模索し、ある時は父を否定し、親子であるが仇敵の様な立場になるコトがあります。これは家系という時間に挑戦する繋がりの選択肢であり、兄弟も然りなのです。シッダールタの生母であるマーヤーは産後の肥立が悪くゴーダマを出産すると間もなく亡くなりました、シッダールタには守るべき母がいなかったので、言葉では言い表せない理不尽と謂れのない自らの罪悪感の苦しみから何故なんだと言う疑問の答えを探しに出家し道を求めたとも言えます。ある時は命がけで苦行し、ある時は異教の修行者や教祖と問答し、血気盛んな年頃の自らの煩悩と戦い、何より日々の糧を乞食するコトで布施を受け命を繋げなくではなりません。

 でも最後は全てを否定するコトも全てを肯定するコトもなく、在るがままの世界を受け入れ、全ての苦しみの原因は自らの思い込みに因るモノだと悟り、それを手放し精神的に自由を得たのです。目に飛び込んでくる現実に惑わされるコト無く、自らが悟ったビジョンを現実に具現化していったというより、要らぬ思い込みを取り除き、大自然と一体になり、本来の世界の中に自在を得たのです。その後は命のある限り、自分の足で自分の知り得たコトを苦しんでいる人に教え、苦しみの世界に住む魂を救うコトに生を捧げたのでした。

 息子は止めろと言えばもっとするし、やれと言えばせずにさぼる、正直になれと言えば嘘を吐くし、兎に角、父に対抗し、父を否定する、でも私の知る限り、父親に手を掛けても、校長先生に成れるし、先生を殴っても校長先生になれます、父と息子は家系の中でそんな関係なのです、父に対して素直であれば逆に意味がないのです。だから余計な干渉はせず、放って置くのが一番なのです。いずれ息子が父になり息子を持つコトがあれば自ずから悟るのです。父が息子に出来ることは、独り立ちするまでの衣食住の提供と学業の為の金銭的援助ぐらいしかありません。息子の所業に惑わされず、自分の理想のビジョンで息子を観て現実を誘導していくコトです。時折感情を逆撫でされるコトもあるでしょうがその時は怒鳴ってやってもいいのです、シッダールタみたく捨ててやるよりは人間的です・・・

 息子に息子の場が無いと父の場に蔓延ってきて本当に父の生のラーフラ(障碍)に成り得ます・・・