人は一人では生きていません、両親がいなければ生まれてくるコトも
ありません、親に限らず何らかの形で自分以外の人に干渉をし、又は
されながら、人間関係の渦の中で人生を歩んでいます、勿論人生の選択
で無人島や陸の孤島のような誰の干渉も受けない場所でたった一人生活
している人もいるでしょうが、それは特殊な例で、全くその人一人の
価値観の挑戦若しくは実践でしょう。

 普通、人間は社会を作りその中で生活しているので、自分の価値観と
社会の秩序のルールの中その行動が制約され、誰もが多かれ少なかれ
理不尽を感じ不満を抱えストレスの中に身を置くコトになります。
全くストレスフリーに人生を謳歌している人もいるでしょうが、それは
ほんの一握りの秩序社会の頂点に居座り、秩序をも我がモノとするコトが
可能な連中か若しくは、身はこの世の中に暮しながら精神は秩序制約から
自由に解き離れた人達でしょう。

 前者は決して一日では成り得ないので、我々凡人が目指すコトが適う
のは後者になります。

 ストレスのない人間関係ってどんな関係でしょう?例えば夫婦の関係は?
この関係は人間関係の基礎であり、子孫が生まれる原因であり、人生一番の
試練を体験させてくれる天の使い同士とも言えるでしょう。初めての出会いで
目に映る相手が、何か感ずる処が無ければ始まることは難しいでしょう、偶然
出会いを重ねるコトで感情が生まれる人もいます。そんな頃は少しでも良く
相手の眼に映ろうと着飾ったり化粧したり羽繕いをします。

 人は通常心の中に自分の相手の理想像を持っています、自分の親であったり
お気に入りの芸能人であったり、学校の先生や会社の仲間であったり、その他
影響を受けた人々の善いところを繋ぎ合わせた様な偶像はやがて現実との落差
に洗練され篩分けされてゆき、その内自分の器量に見合う相手に落ち着きます。
これにお互いの時期と場所がシンクロして初めて関係が始まります。

 ただ往々にして当初の羽繕いされた容姿は時と共に変化し、希望的観測で
今度こそは神様ご先祖様が自分に善き人を巡り合わせてくれたと感謝する時も
束の間、少しずつ、でも確実に信じていた姿とはかけ離れていく方向に見たく
なかった反面が内側と外側に現れて来る様なシーンに塗り替えられてゆきます
そしてやがて相手側をしくじったと思いながら否定しだすのです。

 だけど初めから無理やり善いほうに見ようとしたのは自分であるし、眼に
観得る姿形に間違い無いモノなどある筈が無かったのです。でも責任は相手側に
押し付けてしまうのが人の独善的な悪い癖で性なのです。でも選択した時には
確かに神様やご先祖様の加護は有ったのだと考えるコトは出来ませんか?
とりあえず光の速度はこの世の中の最高速度であり絶対だと仮定しなければ
全ての物理法則は崩壊してしまうのです。

 だから自分の選択に疑いを持ってはいけないのです。目に見える相手側は
信じるに値しないのです。信じなければ裏切られることも騙されることも
ありませんし、あてにする必要も有りません。信じるべきは最後まで自分で
自分の中に確かに存在する自分が選んだ相手なのです。これは自分の範疇であり
自分で制御できるモノなのです。これを疑わず信じて行動すると現実の相手側
もそれに同調しだすのです。

 本当に不思議な現象ですが人は心で信じたモノを見るようになるのです。
逆に心の奥底から相手側を否定してしまうと、相手側をそんな現実に追いやって
しまうコトになり、結局自分自身が行き詰ってしまい逃げ出すコトになります。
比較的簡潔に書いていますが、実際その通りに周囲を制御するコトは容易くは
無いでしょう、余り簡単過ぎれば、有難みも無いですし、生まれてきた試練には
なりません。でも実践すればそんな答えを体験するコトになります。

 相手をいくら好きでもいくら嫌いでも、自分の中にいない相手をどうするコト
も出来ません、どうにか出来るとすれば、それは自分の中の相手だけなのです
言い方を変えれば自分自身をコントロール出来ないのに他人を如何するコトも
出来ませんし、自分自身は旅立つ最後まで裏切ってはいけないというコトなのです
自分が選んだ相手なのだから絶対大丈夫という信念が結局自分と相手を導くのです。

 それを基本として全てを実践するとこの世界の秩序の制約から解放され自在を
得て想い通りに人生を謳歌出来るのです。前者のように失うコトを恐れずとも・・・