均衡が保てなくなって全てが始まりました、そして始まった全ては均衡を保ちつつ徐々に終わりに向かいます。振れ始めた振り子が振り切れるまで動きを止めないように、そして振り切れた位置から逆の方向に向かうように、大自然は整然とした理屈で変化しています、ただ整然とした理屈が積み重なるコトによって、一見不条理な事象として目に映るコトもありますが、絡み合った理屈を解きほどいて見れば、必ず一筋の理屈の上に成り立っています。
こんな話を聞かれたコトはありませんか?賽の河原で夭折した子供たちが一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため・・河原の石を一つずつ積み重ねては不孝を償うため仏塔を拵え、悲しませた親のためにお祈りを捧げます、しかしある程度の高さになると必ず鬼が現れその小さな石の塔を崩してしまいます、子供たちは恐怖で泣きながら逃げ惑いますが、やがてお地蔵様が現れて子供たちを庇いなだめ、子供たちはまた一から石を積み始めます・・
子供が石を積む行為が賽河原の均衡を崩しています、積み重なった石の塔は鬼が現れなくても何時か崩れ子供は折角拵えたモノが崩れると悲しみますが、また積み重ねを繰り返します、そして学びます、積み重ねなければ悲しむコトもないと・・お地蔵様は子供たちの手を携えて天国に連れて行ってはくれません、ただただ自分の行いが結局意味が無く、父母のための祈りも想いも届くコトは無いと自分で悟るまで学ばせます、そして全ての欲や執着を捨て去り自分のために向かうべき道を歩むコトが、自分に出来るたった一つの孝行と知ります・・
子供たちが学ぶべきコトはこの世にもあの世にも途中の賽の河原にも在りません、鬼から教わることもお地蔵さまから教わることも叶いません、自分の拘っている想いのすぐ隣に・・自分の心の中に正しい答えが有るのです、それを自分で解かるまで苦しみ悲しみは絶えるコトはありません、自分の想い込みの重さで下がり始めたシーソーは下がり切るまで下降は止まりません、せめて衝撃を和らげるコトを望むなら、自分が執着している重たい荷物を手離すしかないのです、下がり切れば必ず上がります、離したモノが人であるなら、また何時か出会うコトもあります、その時はまた違った見方で出会うかも知れませんが、自分が離さなかったから存在した訳でも無く、自分とは異なるすぐ隣の正しい答えの一つであったコトを知ることになるでしょう・・・