こんな話し聴かされたコトがあります、先祖に助けてもらうのではなく、先祖は助けてあげるんだよ!その理屈で言うと神様も援けてあげる存在となります、人は困ったときに神様仏様に藁をもすがる気持ちで助けを願ったりします、でも実際藁にすがって助かるシチュエーションも思い浮かびませんし、神様仏様が絶妙のタイミングで、なら助けて進ぜよう!と現れたという話も聞きません、ではご先祖様を助けるとはどういうコトでしょう?それは子孫である自分や家族が幸せに暮らすコトです、幸せに暮らすためには不足が有ってはいけません、不足をなくす為には余裕が必要で、余裕の為にはいざという時の為の備えが必要です、働くときも自分の割り当て分だけでなく、いつもプラスアルファ少しだけ余計に働く癖をつけると、様々な意味で備えを積み重ねることになります、ただし少し難しいのは、人の分をしてやるのではなく、あくまで自分の仕事に対するプラスアルファなのです、人の分をいくら頑張って肩代わりしてあげても、自分の分が増えることにはなりませんし、その人にも悪い癖をつけます、少々ずるい考えの人にしっかり仕事をしてもらうのも自分の仕事なのです、それが困難な場合にはその人に干渉してはいけません、また調子よくあの手この手で近寄ってきますが、何の得にも徳にもなりませんから相手にしてはいけません。
これは相手が神様仏様でも同じです、自分が幸せになる努力は欠かせませんが、神様仏様を直接助けようなどと夢にも思ってはいけません、無理です、神様の仕事のお手伝いは可能でしょう、ご先祖様のお墓掃除もとても気持ちのいい作業です、でもそれ位にセーブしておくのが無難です、神様にも欲望があります、真の仏様は欲望が無くなっていますので助けも何も要りません、ご先祖様を仏様と呼んでもそれは正しくありません、ご先祖様にも欲望があるのです、その欲望を揺り起こしてしまうと、大変なコトになります、限が在りません、神様には神様の修行、ご先祖様にはご先祖様の修行があるのです、それはそれぞれの存在に課せられた仕事なのです、そんなコトに首を突っ込むと抜け出せなくなりますし、抜け出そうとすると祟られます、障らぬ神に祟りなしです、ご先祖様の欲望は子孫の幸せです、お金を沢山使えばもっと幸せを沢山引っ張って来てくれるかも知れません、でもそれは何処から拝借してきた幸せなのです、何時の日か子孫の誰かが返済すべき幸せなのです、だからご先祖様の修行を邪魔してはいけません、子孫が幸せになる道はそんな方向ではありません、子孫にも子孫の修行があるのです、子孫が出来ることは自分が与えられた人生の任務を懸命に遂行して幸せになることだけなのです、先祖もそれを一番願っていますし、それが先祖を助けるという意味なのです、神様の存在を認識することは人の自分自身の欲望に対するタガであり自分自身に対する願掛けなのです、意思を固くして願いをモノにする為のひとつのプロセスであり、願いを叶えるのはあくまで自分自身の行動なのです、そう考えれば祟られるコトもありませんし、神様の存在も威厳あるものになり神様にも仏様にも感謝できるようになります・・・