最近あまりニュースを見なくなりました、あまり素直に受け入れられなくなったというか、積極的に閲覧する意欲も薄らいでいるように感じます、パソコンやスマホに触れる機会が多いので、重要なニュースは勝手に目や耳に飛び込んで来ています、入ってくる情報を全て受け入れるには情報量が多すぎるし、別に視聴しなくてもいい情報も多く、重大事件や事故はまだしも連日のようにどこそこで事故があったとか、どこそこの国でテロが起こったとか、まるでライオンに狩られなかったシマウマ達が噂話をしているような、他人の災いを見ることで自分の生存を確かめ安心させられているのか、何だか機械的に枠に情報を配置しているだけで、担当記者の情熱もメッセージも伝わってこなくなったように思います、記事を創る記者が自分で関心をもてる情報を発信したら何か問題があるのか、それとも関心そのモノが無いのか、中小学校時代の壁新聞のほうが、まだましと思える内容の薄っぺらさです、そうでなければ意図的に情報操作して井戸水に麻薬や毒物の類を混入させるが如くの悪意をばら撒いているように思えます。
聞いた話で証拠の確認をした訳でも出来る訳でもないのですがコカ・コーラが嗜好者を増やし大勢の人から支持を受けた理由の一つには、当時法規制が整備されていなかった時代に、その名の語源であるコカインの成分を添加し、飲む人をコーラの虜にしたというコトです、この手の炭酸入り清涼飲料水は飲むと喉越しが爽やかで、また飲みたくなってしまいますが、別段無かったら無いで、喉の渇きには冷たい麦茶やおいしい水のほうが癒されます、加糖された炭酸水は無糖の0カロリーのモノでも何故か飲めば飲むほど嵌ってしまい、身体が喉越しを求めるのか、若しくは水分が身体に吸収しにくいように造られているのか、飲み続けてしまいます、そして水分補給という本来の目的とは少しずれた身体に異変を感じてしまいます、これはスポーツドリンクでも同じです、添加された濃い成分を薄めるためにもっと水を欲してしまうのでしょう、塩水ほどでは無いにしろ、飲めば飲むほど喉が渇くという相関になってしまっているのかも知れません、お金儲けはそうして需要を増やして利益を刈り取るモノだと言われてしまえばそれまでですが、身体は正直なのか受け入れても害有って益の少ない情報や飲料水を無意識にセーブしているのかも知れません。
人の生活は時代と共に変化しそれを向上と表現すればよいのか退化と言えば善いのかハッキリ決めれないところがあります、いろいろ便利になっているのは間違いないのですがパソコンで漢字変換をするのに馴れてしまって、手書きで漢字が浮かばなくなったり、生活にまつわる全ての作業を機械やコンピュータがサポートしてくれたり肩代わりをしてくれたりするので、人は時間を持て余すようになりました、利便性の代わりに生きる為に何が重要かということを学んだり経験したりするコトが失われつつあります、余った時間で運動するならまだ健康維持にも繋がりますが、その時間の使い方も自分で決めていないと思えるような、人任せや情報任せにしています。
お年寄りに人気番組の黄門様はお決まりの勧善懲悪のストーリーを少しだけエッセンスを変えて延々とシリーズ化され続けています、善人が悪徳商人や悪代官様に搾取され、耐えて苛められて言われ無き罪で捕われて、ストレスが限界に達したところで、先の副将軍である黄門様が登場し、天下の権力で悪を押さえつけ、社会的弱者を救い、直接正当防衛で成敗出来ない悪藩主などを将軍様に言い付けてお達しを要請するというぐうの音もでない方法で毎回毎回解決して全国行脚します、このパターンは子供向け戦隊シリーズやヒーローモノでも同じです、勧善懲悪のストーリーの中、自分自身の精神の弱さや持ってしまった特殊能力の使い道に成長過程の心が揺らぎ、時には挫折し、時には勇気を振り絞り、スポンサーのキャラクター玩具の売り上げを伸ばす使命は絶対に忘れるコトなく怪獣や悪の宇宙人を暴力で、戦いは演出しても最近は様々な子供向けであるという制約やクレーム対策であまり残酷シーンをお見せせずに、爆破と同時に爽快に消し去ります、自分で斬り付けておきながら、ケンシロウがお前はもう死んでいると言わんばかりに運命の決まった敵に背を向け、世の無常をその眼差しに漂わせながら敵に自業自得の罪を自ら受けろと少し責任逃れをするパターンは桃太郎侍ともすごく似てきています。
こんなプログラムに何故か民衆は安心し嵌ります、自分たちの社会に対するストレスや鬱憤を主人公が代わりに果たしてくれるコトにより解消します、そして次の朝また同じストレスや鬱憤の喧騒に紛れていくのです、夢をみてストレスをを何らかの形にして消し去って精神的健康を維持できるように、人のそんな機構に侵入して中毒性を誘発して別の売り上げに結び付けていくのは、悪く言えば愚民政策ともいえるでしょう、利便性全てにそんな目的が込められているとも思いたくありませんが、人は確かに利便性に対価を支払っています、人は自ら長いモノに巻かれたいというか、いつも同じパターンで生活を楽に営みたい基本的指向があるモノなのかも知れません、出来たら他人の褌で相撲を取り、敵わなければ正義のヒーローがやってきて敵を懲らしめてくれ自分の責任を放棄し体制に依存し、でも収穫だけは配分して欲しいし、出来れば労少なくして得るモノは多くほしいという、まるで家畜のような生き方を望むようにされてしまったのかも知れません・・現代人には一度利便性から離れ自分自身を見つめなおす必要がありそうです・・・