水清ければ大魚無し,これは孔子一門の説話集から伝えられた諺の一つですが、孔子が直接弟子に話したかどうかは定かではありません、儒教のバイブルの一つである論語は、その他の宗教の聖典のように孔子の死後弟子達が編纂したモノで 師曰く(先生はこうおっしゃった)と文章が始まります、冒頭の諺は文のみの伝承ですが、たとえ話としての意味合いがあるので、あまり出所は関係なく問答に使われてきました、人間の感覚で考えれば汚い水に棲むより綺麗な澄んだ水が棲み易いと想いがちですが実際魚の好む環境は様々です、これは水槽で魚を飼育した経験のある人は良く知っていますが水槽飼育は水造りから始まります、川などの流水の中とは異なり水槽という閉鎖環境では、残餌や魚自身の排泄物により水は汚れていきます、水造りが出来ていないと水槽の水はすぐに腐敗して悪臭を放つようになり、魚も死んでしまいます、水造りとはこんな物理的な汚れを分解したり出来るバクテリアを育てるというコトなのですが、バクテリアも数種あり、それぞれ好む環境が違うので、そのバランスの完成まで時間が掛かりますし、バランスが取れても定期的な水槽の汚れの除去と、水槽水の一部交換が必須となります。

 

 バクテリアは水そのモノや循環装置のフィルターに住み着いたりするので、あえて完全には清掃しませんし、水も全部交換されることはありません、池や沼に棲む魚も似た環境に棲むのですが、こちらは水の量が水槽とは比較にないくらい豊富で空気を取り入れる表面積が広大なのでエアーレーションしなくても酸素不足にもなりません、それでも泥の中を好むドジョウなどは酸素が足りないので、時折水面まで昇ってきては直接口で空気を吸い呼吸できるように、身体の方を進化させています、肺魚は文字どうり肺呼吸が出来ますし、綺麗なベタのようなグラミー系の魚もラビリンス器官という器官がえらに連結して口から酸素を取り込めるので、少々水が汚くても、水中酸素が不足しても元気に生きてゆけます、この種類の魚は卵から孵る稚魚がメダカの稚魚より小さいので、水の中には口に入る餌となるワムシなどの微生物が必要になります、水槽の中にもどこから紛れて入ってきたか知りませんがいつの間にか発生しています、微生物はバクテリアを食べ稚魚は微生物を食べ小さな魚は稚魚を食べ、大きな魚は小さな魚を食べて大きくなるので、池や沼の魚は大きくなれるのです。

 

 勿論綺麗な水を好む魚たちもいますが、流れる水が水を交換していますし、バクテリアもしっかり定着しています、こんな水でも無色透明に見えますし、飼育者達は水造りが出来た水をピカピカの水と表現したりします、人にもこんなバランスがあり、いくら潔癖症の人が何度も手や身体を洗っても微生物を完全に洗い落とすことは出来ませんし、お腹の腸の壁には大量の菌類が棲み着き、人間の消化をサポートしながら共存しています、人もこのバランスが崩れると病気になりますし、この腸内環境が整っていれば大概の病気には掛からないといわれます、余り物質的にも精神的にも綺麗好きに過ぎれば、上流の清流に上って、急な流れにあくせく生きなければなりませんし、少々水が汚れていても、大きな環境は食物も豊富だし大きく成長できるというモノです、普通汚れた環境は嫌われますが、人が嫌がる仕事は実際よく儲かりますし、汚れモノに触ったからといって人まで汚れる訳ではありません、ただ傷があればそこからばい菌や毒素が進入する可能性はありますので扱いには注意が必要です、後はバランスさえ管理できれば人はどんな環境にも結構耐えられるものですし、その中にも幸せはあります、扱い方を自分のモノに出来れば余りライバルもいない環境で綺麗なドレスを優雅に纏うベタのように、悠々自適に暮せるかも知れません・・

 

 ただ本モノベタのは別名闘魚と呼ばれるぐらい、喧嘩好きで別個体を死ぬまで追い掛け回しますので、いつも一匹で飼われていますが・・あまり美しすぎてもライバルを蹴落としても結局人も寂しい想いをするモノなのかも知れません・・そういえば綺麗な人ほど厳しい環境で育つ人が多いような気もします、生まれてくるときの選択で美を選択した見代わりに何か選択できなかったのかも知れません・・でも例外はいるようです、寿命が短い場合もあるでしょうが、自分の表面的な美を前面に出し、何時しか徐々に内面的な美に変えて綺麗に年を重ねていき、世の中をピカピカにする存在になる事が、そんな選択をした人達の最終目標なのかもしれません・・決して易しくない選択ですが・・・