道を歩いていて突然見知らぬ人に罵倒されても、夫婦の会話で愚痴を言われても、子供の悪戯を窘める言葉を言っても、全て自分に向けられたメッセージです、全て何らかの意味があります、決してその通りにしなければ成らないと言う事でも、その内容が的を得ていると言うのではなく、自分が如何に聞き、判断するかの話です、見知らぬ人を罵倒する人は、その言葉を向けられた人のことなんかに関心はありません、ただ自分が言いたいから言い、自分がどう見られるとかの世間体も無く、自分を制することも出来ず投げた言葉の結果も知る由はありません、そんな人は恐らく不特定多数の人を罵倒していることでしょう、そんな言葉にいちいち傷付けられる事はありませんが、何故、その時、自分に、と言うことに意味があるのです、自分が調子が良い時は、あまり周りの雑音は気にならないモノです、調子に乗っている時でも、そんな時だからこそ、自分自身の気持ちの何処かに不安感が生じることもあります、このままこの良い調子がずっと続いてくれるのだろうか?やがて下降して行かないだろか?結論から言うと調子の良い状態からの変化は調子が悪くなる、即ち下降して行く方向の変化です、月が満ちれば欠けて行くように、波が押し寄せれば引いて行くように良いコトは悪いコトに形を変えていきます、良い悪いで分けてしまうと、悪い状態は素直には歓迎し辛いのですが、悪い時は自分というモノに向かい合い、検査点検修正できる時期でもあるし、絶好の人格の成長時期でもあります、逆に良い時期は結構、自画自賛する気持ちが芽生え無意識の内に周りを傷付けたり、天狗になったり、本来やるべきコトを軽んじたり疎かにしてしまう原因を作ってしまうコトもあります、しかしこれは、調子の良い状態まで自分を持ってきた回答の一つでもあるし、自分のすべきコトの選択を優先的にその方向に向けた結果でもあるので、一概に間違っていたとも断定できない、いた仕方の無いコトでもあるのです。
本来ならは素直に人生を歩んでいれば、下降と上昇を繰り返す筈なのですが、調子の良い波に押されて力が何倍にもなり駆け上った位置から下がる時は、坂道で背中を押される力が掛かり自分の抗う力を半減どころか何分の一にまで下げてしまいます、その時方向を間違えると、押し寄せる波と返す波がぶつかって出来る波の崩壊に巻き込まれ、最悪再起不能に陥ることもあります、そんな事態になる前に未練を残す事無くその波から脱出し、次の波を探して行かなくてはなりません、波はいくらでも新しく生じますが、自分が乗っていた波は二度と戻ることはありません、そして新しい波を探し乗るためには地道な努力が必要になり、いきなり急激な上昇を期待しても、思い通りにはモノゴトが運ばないのです、しかし実績から得た経験は生かすことは出来ますので、同じ轍に陥ることは避けることも可能です、 人は今の連続を生きています、訳の判らない罵声を浴びせられた時は、少し自分を見つめ直す注意喚起のサインなのかも知れません、そう考えればそんな出来事も自分の栄養に出来ます。
夫婦は長く一緒にいると良いところも悪いところも混ざってしまって、似たモノ夫婦といわれるような関係になります、お互いが鏡になれる存在になり、相手の愚痴も自分の愚痴も全て映し返されます、貴方のここが納得出来ないと相手に言えば言うほど、もっと納得出来なくなる方向に向かいます、勝負はつきませんから,勝とうとしても、負けてやってもいけません、無意味です、出来ることは自分に克つ事、即ち自分の相手に対する思い込みを消し去り、自分自身を変えるコトだけです、そうすれば相手も変わります、相手の愚痴は本当は相手自身に向けられているし、自分の愚痴は自分に向けられるのです、だから相手の愚痴は聞き流しても、自分の言いたいことは相手に言わず自分自身に言って自分を変えるだしにすれば、喧嘩にもならず丸く収まる筈です、愚痴を言われるたびに、言い返したくなる言葉を自分自身に問う訓練をすれば、自分も相手も変われます、但し、お互い知り尽くした間柄なので、痛いところをピンポイントで突いてこられると感情的にも成り易く、容易く制御は出来ません、そんな時は自分を庇うように相手を庇い大事に思い込んで、相手が言う愚痴を相手に返すのではなく自分自身に相手と声を揃えてそうだそうだと言ってやれば相手も多少納得するかも知れません、言っても言われても聞き流しているので、相手に勝つことにも負けることにもなりません、夫婦は分身なので相手の敗北は自分の敗北で、自分への勝利は相手の勝利なのです、相手の口から愚痴が出る時は、自分自身を成長させ、夫婦円満の智慧が含まれていると考えれば夫婦の愚痴も有り難く聞けるようになるのかも知れません。
親は子供の行動を諌める言葉を言う時、危ないからよしなさいとか、モノが壊れるからそんな遊びはしないでとか、後回しにしたらもっとやり辛くなるなら宿題しなさいとか、理由をつけて嗜めています、子供に何らかの働きかけをする時は殆んどは親自身に向けられても通用してしまうコトが多いと思います、子供と親は一緒に学んでいます、男の子はとりあえずおもちゃ箱をぶちまけて遊ぶのが好きです、そして恐らく例外なくお片づけは嫌いです、気が付く度に、自分で片付けることを促しますが、ぶちまけていく速度の方が早いので、結局親の手を借りることになります、親は片付けながら自分の子供の頃を回想しながら考えます、自分も全く同じように遊んでいたなぁ~と、あの頃は自分を可愛がってくれたお祖母ちゃんが腕まくりをして、今日は私が片付けてやろうと、往きこんで散らかった部屋に入り、惨状を見渡してその場でへたり込んでしまった事も有ったとも聞かされたし、自分が子供のときしてきたことの因果が回ってきて、親の煩わしさを経験させて貰っているのかな?と子供がしでかしたコトの後処理を保護者として責任を取りながら複雑な想いを巡らせます、父親から異常に可愛がられた最初の子であり娘である姉が、お姫様な性格のまま母親にぶつかっていっても、その頃の母親は自分が教わって来た通りの方法でビシビシ叩いて教育します、姉は自分の娘がそんなに憎いのか?と泣いて抗議しますが、母親はお前も娘を持てばよく解るだろうと突き放します、姉にもやがて娘が出来、思春期を迎えたその娘との葛藤の中、初めて母親の言っていたことが理解できたと、打ち明けていたのを思い出されます、親は誰もが子供だったし、親の言う通りにはしたく無かったし、親に反抗した経験をするモノです、でも自分が親の立場になれば、遣り残したお方付けをする事になるし、叩いてくれた親の真意を理解することになるのです、そうしてくれた親がいた事にも遅ればせながら感謝の気持ちが沸いてきます、そして子供からは、子供に投げる言葉が自分に戻り、今自分に危険を孕む出来事は無いか?何かを壊してしまう
行為に繫がることをしていないか?後回しにして溜めてしまっているモノはないかなど、自分自身に対する気づきを誘発してくれるメッセージが込められている可能性もあるのです、勿論子供にも聞いて貰えなくても、親としての言葉は必要ですが、その言葉で同時に親も学べるのです、親は子供を育てることで一緒に学べ成長するのです、だから子供に対する言葉でも自分に向けたメッセージがこだましてくるのです。
この世で自分が耳にする全ての言葉はメッセージを包含しています、その意味を自分自身に問い、気づくことが出来れば人生に活かせる事が可能になります、知り得たコトを実践する為に智慧を巡らせ、行き着く結果のビジョンが観えたら固く想いに焼付け、その通りの未来を勝ち取るコトも可能なのです、そんな気づきはどこか遠くに行かなくても、家庭の中でも、夫婦の愚痴からも子供に発した言葉の中にもあります、ただし自分の固執した観念は綺麗に片付ける必要はあります、完全に綺麗にした後、新しい可能性が今、ここから膨らんでいくのです・・・