人は生きている限り、何らかの命を食べています、これは人だけに限らず、生き物全てに共通する事です動物にしたって植物にしたって、生きていることには変わりはありません、生きるために他の命を食べることを悪いこととは出来ません、お釈迦様にしたって無益な殺生は禁じましたが、食べるなとは言っていません、修行中は目的が達成するまでは欲望を慎めとは言いますが、欲を全て捨てろとは言える訳が無いのです、仏教の最終目的は二度とこの世に生まれることの無い解脱なので、この世の何事に対しても執着をするなと教えるのは道理があります、しかしお釈迦様も教団も食べなくてはなりません、無益な殺生を禁じてもそぞろ歩きの
途中は小さな虫も知らずに踏んで殺してしまうこともあるのです、実際弟子からそれを指摘されお釈迦様自身これから気をつけようと言ったそうです、教団の運営は資産家からの寄付や托鉢に回ることで成り立っています、修行中は通常生産活動はしません、即ち働きません、托鉢は食を乞うことで、手っ取り早く言えば乞食です、真理を求めたり、悟りを求める人は、誰かに養って貰っている人達なのです、その代償は人の心を平安に導く為の教えを説く事です、元もとの仏教には精神的な平安のみならず、ヨガのような技術で身体の健康法も教えたようですが、生きている限り心と身体は切り離すことは出来ませんので当然の流れでしょう、人々に対しそんな働きかけをしなければ、教団はただ卑しいだけの、厄介な集団に成り下がりますし、誰も信心することは無いでしょう・・先ず教祖自らが王族や資産家を納得、感激せしめその保護や協力を得ることで教団の食い扶持を担保しています、食い扶持を確保できてこその教団なのです・・
昔、中国の毛沢東亡き後、羽陽曲折の末、後継者となった鄧小平というすごく切れ者の指導者がいました、当時の中国の構造的な欠陥を見抜き、どの様に舵取りをすれば、国を真の意味の強国に出来るかを考え実践して、現在の世界第2位の経済大国に押し上げる基礎固めをしたと言っても過言ではないでしょう、彼は黒い猫でも白い猫でも鼠を捕る猫が良い猫だと政策を喩え、いくら国土が広く、党として結束していても、経済が弱ければ10億以上の国民を食べさせることが出来無いといい、党の主義に相反する経済開放路線へ国を導きました、その結果、清の時代には名ばかりだった眠れる獅子の国の中国が、真に目覚めることとなり、世界中の国で中国と取引しない国は在り得なくなっています、現在の中国の指導者もこの人をお手本にすれば、もう少し未来が明るくなりそうですが、その先の毛沢東の絶対権力を欲しがっているようです、但し毛沢東も鄧小平も一代目の苦労人でありましたので、同じようになりたくてもなれるモノではありません、胡 錦濤はチベット、習 近平はウイグルとそれぞれ先陣を切って無茶な政策を通してきたので、弾圧し続ける方策しか執れません、お腹を満たす為に周辺諸国に圧迫を掛け続ける方策はいずれは必ず自国の崩壊を招くことになります、中国は経済を一部開放し経済大国になれたのは、相手国があってのお話しなのです、周辺国は平和を愛し戦うことを好まない民族ばかりとは限りません、あのアメリカでもベトナムには勝てなかったのです、泥沼には出来ても力で服従させることは叶わないでしょう・・
以前上海に出張に出向いた時、現地の日本企業の方に案内してもらいお話しをする機会がありました、その時中国と言う国の感想を聞かれたとき、なんか嘘くさい感じがしますねぇと言ってしまいました、あのビルもこのビルも電気は点いているけれど何だか日本と違うように思えたのです、帰ってきた返事は良く見ましたね、実はその通りでこの国は仕事が無くても灯りだけ点けている部分が本当にあります、中央から地方まで粉飾と言うかハッタリというか最近は私営の企業も増えてきていますが(当時)言わば全て国有企業の公務員なので、中央に上げる報告をあるがまま上げると、仕事を失いかねないのです、嘘でもいいから上手に任務が遂行出来ていると報告します、そして上から下までみんな同じようにしているのです、赤字でも黒字といい、お金が無いのにあるといい、失敗しても成功だといいます、黒い猫でも白い猫でも鼠を捕っていないのに捕ったと言う猫は悪い猫です、一度か二度は誤魔化せても、そんなスタイルは何時までも通用しません、上っ面一枚真似ても本物にはなれません、けどそれを判らなくさせるだけの歴史が中国ではありました、そこから戻さないと恐らくその進む方角は行き着くところまで行ってしまうしか無いでしょう、しかしそこまで時間を戻してくれる国が現れることはありません、恐らく中国が一番嫌う分裂と言う終着駅に到達することになるでしょう、何故って?それは中国自身が一番良く経験している歴史の流れだからです・・
鼠とは?お金?食料?権力?あの国は立派な建前とスローガンを掲げてはいますが、その実、世界一の拝金主義は国民全員周知の基本理念でもあります、相反する性質が同時に存在すると対消滅するのが自然原理なのです。
人は崇高に生きれば乞食になり、卑しく生きれば金持ちになる、確かにそう言う所もあるでしょう、しかしお金を持つ為に自分の価値観まで曲げる必要なんかどこにもありません、清く美しいだけの人もいないでしょうが、嘘をついてまで自分を飾り立てても惨めなだけです、お釈迦様は言いました、周囲が全て自分の進む道と違っても、周囲に合わす必要は無く自分が正しいと思う道をたった一人でも歩みなさい・・と、使いこなせないお金を手にしても意味が無いし、幸せに生きて行くのにそんなに大金も必要ないのです、たった一人でも歩み始めた道が正しければ、いずれ人が後に続くし、お金も自然に付いてくるモノだと、成功した人たちは口をそろえて言ってくれます、人生の課題は幸せになる事であってお金の有る無しでもなく多い少ないでもないのです・・・