ふと思いついたのですが・・嫁って本当は自分じゃ無いのか?歳も性も容貌も考え方も何一つ共通するモノは見つけられないけれど一緒になってからは・・そう一緒になるということは、少なくとも欲しいモノや自分に足りないものを互いに見出して引っ付いた訳で、じゃ無ければそもそも関係が始まらないし続きもしない、子供を産んでくれてお乳を与えてくれたり自分に出来ないことをしてくれる、その中で自分自身で欠点や弱点を見つけるように気に入らない所を、今のセリフはリボンを結んで全て貴女にお返ししますと言いたくなるような内容の言葉で攻めてくる、いやぁそれらは全部貴女のことじゃないですか!と言い返しても気づいてくれないし、無意識で自分の足らない所はあんたが補えと言われているようにも思えますし、そう考えると無理難題も解けるのかも知れません。
嫁は女ではないという言葉を耳にした事があります、一緒になる前は確かに女性だったし、嫁自身は今でも自分が女であることに関していささかな疑いも持ち合わせていないでしょう、しかし女ではないと言う言葉は何となく理解できそうな気もします、長く一緒に暮せば・・そう一緒にいる時間を持てば持つほど、男と女の部分が干渉し合い入れ替わり、いつの間にか嫁と自分が混ざり合って中間色になるとでも表現したら誤解を招く恐れもあるでしょうが、徐々に嫁は自分に自分は嫁に似てくると言うより、出会って選択の段階で、無理やり手で割ったリンゴのように切り口は凸凹だが合わせてみるとそれなりに一つに戻るような片割れを選んでいたのかも知れません、多少の凸凹の食い違いは相手に合わす形で修正する努力が見れないと選択されなかったでしょうし、クリアできたから一緒になれた・・そう一緒になったすぐ後から女でなくなっていったのです、逆もまた然りで私は男でなくなっていったのかも知れませんが・・
勿論女性的な機能が失われるとか、本性が男だったとかの事ではありません、具体的な説明になるかどうか分かりませんが、傍にいることで既に保護範囲に身を置いているので、ことさら守ってやる対象では無くなり、例外は有りますが男からみる儚さという美しさが消滅します、外出の度に入念にお化粧をすることを元々自分自身の為のものだったかも知れないという事実を悟らされます、家庭における役割が分担され男の担当として働いて収入を確保し家内経済を支えることが義務付けられます、至極当然の事で何の文句も無いのですが、この時、家庭を馬車に例えると自分は確実に馬車馬で嫁は御者となり手綱を握っている図柄が頭によぎります子供が出来ると当然キャビンに乗り込み馬車は重くなり馬車馬の負担は増えます、いやいや家は共稼ぎだから嫁も馬車馬だと言う方もいらっしゃるでしょうし、今のご時勢に馬車は無いだろう、車に乗って男がハンドル握れば良いじゃないか!というご意見も聞こえてきそうですが私も承知しております、あくまでうちのローカルなお話で別段車でも良いのですが車に例えたら嫁はクレームの多いお客さんで私は運転手の構図なのです、そして走っている道は決して綺麗に舗装された道路ではなく、凸凹のオフロードなので馬車と言う乗り物がイメージされたのです。
世間の男性の中にはそんな生活に嫌気がさして自分で手綱を切り馬車を捨て自由に駆け出す人も出てきますし最後まで自分が手綱を握るんだと嫁に譲らず大成功する人もいます、人生の選択を誰も咎めることは出来ません、何故か不思議ですがそんな人は、夢見る少女のような自己中心的な表現で自分をアピールするところがあります、ただ元々他人だったので関係を疎かにして大事にしないと子供ごと失うことも有り得ます、一度一緒になったモノが離れることは、ある意味自分となった分身を引き裂くのと同じことになるのでそれ相応の痛みが伴います、嫁を自分の身を労わるように大事にしていければ、嫁のクレームを聞いて自分のことに入れ替えることが出来たら、喧嘩しながらも嫁の味方になれれば、納得はして貰えなくても家庭の問題は消えていくモノなのかも知れないので嫁は自分を映す鏡だと考え頑張るしかありません・・・