世界の4大文明は全て大きな河川域で起こりました、文明を支える定着農業の基盤があるからです、農業には水と太陽と肥えた土地が必要です、河川は雨水を集めすぎると時折氾濫を起こします、だから人はあまり河川の近くでは住めません,農業の観点からすると、時折氾濫する川は流域に豊富なミネラルや栄養分を運び込み、そして平野を造成するので都合の良い事が沢山有ります、河川は収穫物や物資の移動に欠かすことができません、大自然が与えた好条件を利用し、人間が船で人やモノを運ぶ移動手段として河川を活用したのです、かくして流域は文明が起こり存続しました。

 

 今でこそ先進国のインフラは整備され鉄道や高速道路がいたるところにに張り巡らされ陸送で物資が移動できますがほんの数百年前まではそんなものは無く、河川が物流を支えその必要で造船技術が発達し、人類は大自然の風の力を借りて海に漕ぎ出し、世界を認識し地球が丸いことまで証明できたのです。現在でも河川や海路は物流に欠かすことのできない重要なキャリアです、発展途上国や後進国に工場進出する時も河川を遡りどのくらいまで深く内陸部まで運搬船が入っていけるかが重要な条件になるそうです、必要に応じて川底の浚渫(掘る)もしますが経費が掛からないに越した事はありません。

 

 日本書紀の神武東征はおそらく瀬戸内海の海路を使って必要に応じ寄港しながらも(実際には何年もかけて勢力を東に延ばしたというのが自然です)九州東部から奈良を目指したことでしょう、奈良に到着するとナガスネヒコと対決することになりますがどうも勝てない、方向が悪いということでぐるっと南から東側に回りこむと、戦うまでも無く地元の王ニギハヤヒはナガスネヒコを斬り降伏したと記されています、奈良で王朝を支えるとなると物流の関係で大和川が活用され、古代王朝の在った河内や奈良盆地の南部は西側に発展していたのでしょう、守りの堅い西側からより防備の手薄な東側を突くと言うのは兵法上もとるべき戦略です、如何にして東に廻ったかそんな時代に軍隊が通れる街道などありません、やはり船で紀伊半島を廻ったか若しくは、最小限の陸行と河川を利用したか、いずれにせよ戦いの前に無駄な体力を消耗させることはできません、船なら食料物資と兵力を同時に運べます、寝泊りもできるでしょう、馬も運べたかも知れません。船の活用は現代人の想像より遥かに戦いに向いていたのです。

 

 中国の吉林省に広開土王碑という高句麗の19代王の業績を讃え残した碑があります、その内容はあくまで文字を刻んだ高句麗が主体となりますが高句麗、百済、新羅、倭、加羅が登場し当時の極東アジアの国際情勢を知る貴重な歴史資料と成っています、その内容の中

高句麗は元々新羅、百済(百残)、加羅の朝貢を受け属民としていたが倭が391年に海を渡ってきて新羅、百済(百残)、加羅を臣民としたと読めるくだりがあり解釈が分かれる部分ですが、日本の軍国時代の大陸進出の根拠ともされたり神功皇后の三韓征伐との関係を取り出されたりしました。倭が海を渡ったのはその通りでしょう、しかし日本海(東海)とは説明はありません、日本書紀にも関連記事はありませんし、高句麗が日本の歴史を持ち上げる必要もありません加羅諸国に当時沢山いた倭人が半島の周りの海を廻って攻めたと考えるのが自然でしょう、当時軍隊が通れる便利な街道など無かったのです、勿論時には強行軍もあったでしょうが、しかし倭人の勢力のあった加羅諸国は既に海洋民族だったのです・・・

 

 昔の人は河川や船を上手に利用しました、でも便利だからといって川のほとりには住めません、住めるようになったのは護岸工事、治水工事が終わってからです、生活に水が要るので湧き水や清水のでる山のふもとや不便でも水を遠くまで汲みに行く(おばあさんは川に洗濯に)仕事が日課となりました。でも大きな河川は文明を育みます農耕に適しているので河川から余り離れても不便になり、丁度良い距離があったのです、飛鳥時代や大和時代は遣唐使や遣隋使、日本では余り教育されませんが遣新羅使や遣百済使と言うのもあって大陸と盛んに交流がありました。奈良から送り出された遣唐使などの船は都に最寄の大和川の船着場から見送られたそうです、現在でも造船技術が発展し続け、専用船や特殊船、コンテナ船等々国際物流に欠かせません、最近の大型船は性能が良く、すごい速度も出せるそうですが実際には、ゆっくりゆっくりその船が一番燃料の食わない速度で航行されるそうです、昔のように風の力を利用し必要な時だけ手漕ぎオールを使う感覚です、船旅は何時の時代も長丁場なのです・・・・