始皇帝はその名の通り始めて中華を統一して諸王に君臨し最初の皇帝となったことは誰もが知る史実です。秦は元々周時代の末期には西の僻地の小国でしたが周が滅亡に至る過程で上手に周の領土を取り込みながら領土拡大し春秋戦国時代には西の大国となっています、戦国七雄の韓、燕、魏、趙、斉、楚次々と平定し中原に覇を唱えました。

 

 秦が中華統一を成し遂げた理由は、地理的要因、時期的要因、楚以外は小国で国力差の要因、呂不韋の子楚(荘襄王)への先行投資、秦王政の生い立ちと生き残った強運、数多くの理由があるでしょうが、特筆すべきはやはり人材の登用かもしれません。13歳の若さで国王に推戴されたが10年間は父を秦王に押し上げた相国呂不韋に丸投げし、時間をかけて呂不韋の国家経営に対する権謀術数全てを学んでいたのかも知れません。

 

 やがて秦王政の親政が始まると秦王政の政治の特色が出始めます。父の時代から一族的に何の後ろ盾も無く自分ひとりの無力さを嫌と言うほど知らされてきたので生き残る為に手段を選ばず人の力を借りたり人を使う能力が養われたのかもしれません。ゆえに人材確保に力を注ぎます、政が望む能力を持つ海千山千の人材が集まりだすと今度はこの一つ間違えば非常に危険な人材を如何にすれば自分の意のままに使えるか何時も悩んだことでしょう。

 

 秦はもとより「法」を重要視していたが呂不韋の食客から頭角を現した李斯いう大臣は性悪説の荀子に学び呂不韋からもその才能を認められていた切れ者で自らの地位を守るための嘆願書を名文にして納得せしめ、秦王政の信頼まで勝ち取った他国からやってきた大臣ですが恐らく口も達者な全く組織的な人だったようです

 

 一説では李斯が紹介したとも言われますが、秦王政が「韓非子」に感銘を受けこの作者に会えるなら死んでもよいとまで言わしめた韓非に使者を送り謁見を受けることになります。

韓非はもともと韓の公子ですが「韓非子」を編纂させるほどの環境の弱小国韓の中で自国に失望し、あわよくば秦王政に使える為、謁見したとも言われます。李斯と同じく荀子に学ぶ同門だったそうです。

 

 韓非に会った秦王政は韓非子の文中での自分の疑問やその他、王が取るべき徹底した法の運用に対し的確に説明回答する韓非子に傾倒し放さなかったそうです。韓非が重用されると自分の地位が危ぶまれると判断した李斯は秦王政にありもしない話を吹き込み韓非を投獄せしめ獄中で服毒させて無きモノにしてしまいます。

 

 その後、法の運用を徹底し数々の合戦に勝利した秦は中原を統一します。全てを手にした始皇帝は不死をも望むようになり不死の妙薬探しに出た5度目の行幸中に病死してしまいます。その行幸に付き添っていた悪徳官僚の始祖のような宦官趙高は李斯と手を組み、始皇帝の死を隠し、より自分たちの地位を安泰せしめるべく、内定していた跡継を失脚させ、自分たちの意のままになる胡亥を二世皇帝に仕立て上げました

 

 歴史に「たら・れば」はご法度ですが、その徹底したご法度が、編み出した人、利用した人、採用した人、最後は国までも崩壊に導く結果となります。法は国を治める為に必須です。しかし法だけに頼ると人は法を研究し、利用しようと考えます。現在は大国の長も法で権威付けされる時代ですのでなお更です。しかし皇帝がいたら法は皇帝の為のモノか知れませんが今は違います、大統領、書記長、総理大臣、判事、官僚、検察、警察、役人はそれぞれの役職を粛々とこなせば良いのであって、悪用、乱用を防止する管理システムを構築しなければなりません。ある意味法に代わる若しくは法を補う追加システムを管理するのは全ての人の役割になるでしょう。