鏡に映る自分は私(自我)でしょうか?自我が眼に映らない魂や若しくは意識体だけであるならば鏡に映るコトは無いでしょう。鏡に反射する像はあくまで日々年老いて行く自分すなわち自我の器(居場所)の表面であり寿命を持つモノである身体です。魂が抜けると少しの時間ならいざ知らず最早自分(私)とは呼べ無くなります。ならば私とは魂と肉体の重なった状態のコトになります。モノはいくら複写を繰り返しても何れ限界が訪れます。でも魂や意識はモノでは無くコトなので時間は流れません、ただモノを通じ時を知るのみです。
重なり、もつれた状態であっても身体のトラブルや物理的な障害は当然精神状態に影響し逆に心が傷付き意識にショックを被るとその結果は表情に表れ身体の動きに差し障ります。モノとコトは表裏一体で互いに干渉仕合います。寿命の有るモノと時間の無いコトがモノの寿命の間だけ一緒に行動します。そしてその時を迎えるとモノは別のモノになりコトは元の世界に戻ります。モノの命は儚いけれどコトの命は永遠です。生まれる前も生きている間も死んだ後もずっと同じ魂。ただ身体と一緒に行動した経験だけが上書きされて往くのです。
魂には時間が流れ無いので今も昔もありません。物心付いた3つの時の私も老いて寿命を迎えた時の私も同時にあります。俗に云う成功も失敗も全部一緒、壮年期に大成功を収めた人の魂は3つの時に既に大成功しています。失敗も同じです。だから後悔もないし心配も要らないのです。努力が要らない訳ではありません、といって必須でもないのです、努力する時は自発的にしてるし人生にシゴかれてこなしているモノなのです。必要な時には必要な分だけちゃんと準備されているのです。魂には未来も過去も無いのでプログラム出来ているのです。
そんな万能な魂が何故不自由な肉体と重なり限られたこの世で生きるのか?あの世にいては何の経験も出来ないからです。この世で寿命の有る身体と一緒に行動し不自由な経験をするコトでしか味わえない醍醐味が有るのです。あの世は満たされているから食べる必要が無い。そう美味しいステーキやスイーツも思っただけで満足出来てしまう。イケメンの彼氏も可愛く美人な彼女も全部想えば揃うのです。不可能のない世界で足りないモノがこの世に有ります一言で云うならあの世に飽きてしまい退屈なので魂たちは波乱万丈のこの世に来たがります
この世に来るとき自分で先ず両親を選び国や街などの環境を選び自分の境遇を選びます。だから誰の責任にも出来ません。そして身体と一緒にアイテムを装備しながら、或いは交換しながらこの世を渡り行動します行動から失敗もしますが得られる経験も沢山あります。魂は経験しにこの世に来てると言っても過言では無いでしょう。もし人が経験から学び智慧を得てその知識を自分の人生に活かせるコトが出来たなら必ずこの世で云う成功を手にするコトになるでしょう。ただ全ての魂が金銭的成功の経験をする為にこの世に来るとは限りませんが・・・
魂たちはこの世で様々なカルマにも遭遇します。かつてこの世に残した借金の返済に迫られ理不尽な強奪に遭ったり、騙されて痛い目に遭ったりします。でも大丈夫それで落ち込んで寿命を自ら縮める必要はありません。全部想定内のハプニングなので経験した瞬間に業が帳消しになります。にっちもさっちもどうにも成らないと想っても大丈夫!どうにも成らないのは自分の可能性を塞いだ自分自身で拵えた世間に植え付けられた屁理屈のような脅迫感でこの世の道を塞ぐ門などハナから存在しないのです。だから八方は塞がりようが無いのです。
貴方は元々あの世の閉塞感に嫌気が差してこの世に生まれ出たのです。いろんな経験を歓迎してこの世の幸せをいっぱい経験して魂を上書きしましょう・・・・・
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