父親の葬儀が全て終わりました。


『余命宣告と沖縄生活に終止符』
「余命1ヶ月くらい」と5月下旬に云われ、翌月の父親自身の誕生日を迎えるのは厳しいかも…というような状況だった。
母親1人じゃ見きれない状況。入院もしない。検査もしない。薬は飲まない。
一時帰省し、タイミング見計らって一旦、沖縄へ戻り、実家に戻ろうという時間がない、隙もないような状況もあり、職場、沖縄でお世話になった方々には殆ど何も言わずに沖縄移住生活を丸5年、6年目を迎える寸前に終わらせた。






『父親の容態』
私が実家に来た頃はさほど変化はなかったかな?しかし、日が経つにつれ、父親の状態が変わり、当たり前だけど確実に後退していくばかり。
一時は熱発し、このまま???というような状況もあったけど、
「息を吹き返した」
という言葉がぴったりな熱を出した事を忘れるくらい、元に戻った時もあった。

やはりそれは束の間。
薬は飲まない、食べ物は食べたい気持ちはあるんだろうが食べれない、食べたい固形物をティスプーンくらいを1日一回、食べれるか?くらいだった。
殆ど水分だった。
訪問ドクターより、
「好きなものを食べさせ飲ませていい」
と言われ、本人の望む通りに制限せずに出来る範囲で食べさせたり飲ませていた。

水分は最初のうちは、1日500以上1L未満。
なかなか1L以上の水分は取れず、段々と調子と共に1日に500mlも取れない日が多くなり、400mlも取れない日もしばしば。そんな中、700ml越えた日があり、少し希望、これだけ飲めるなら誕生日あたりも余裕かも?!なんていう想い、願いは、翌日から急変という言葉が合うような状態になってしまった。







『フェントステープ』
体の痛みや辛さが日に日に増し、副作用の事で母親と相談しながら、亡くなる5日前になるかな、痛み止めの貼り薬フェントステープを使用。
この日の夜間は全く朝方まで寝ず、いつも以上に元気で悩まされた。
夜から効いてくると後から言われ、その言葉の通りになってしまった状態だった。
ベッドサイドで座るまでの行動はなかったが、壁やベッド柵を叩いていたのがびっくりするくらい力強く、初日でこんなで、フェントステープの影響なのかと不安になった。
だがこれはこの日だけで、翌日からは、少しずつ容態が変わっていった。
フェントステープを使用しなければ、痛さ辛さは継続のまま。
フェントステープを使用した事で呼吸は穏やか、痛みは軽減されているはずと訪問入浴の時の看護士に言われたが、このテープを使ってから変わっていったから複雑だ。
テープを使用する事により、血中濃度がどーたらこーたら言われたが、そんなこと言われても素人の私には全く分からず、このテープ使用のタイミングは遅かったのか、使わなかった方が良かったのか、未だに謎だ。
こういうのが在宅看取りの難しさな気がする。
家族によっては、「自分のせいだ」とせめてしまいそうだが、そうは思わないんかな???







『訪問入浴は叶わず』
訪問入浴を予定前日に熱発。
「入浴中に何があってもおかしくない状態」
と看護士から言われた。
頻脈。血圧も低く、計りにくい。
酸素の測定も取れない状態だった。
前日には訪問看護が来てくれたが、この時も厳しい状況と言われ、その宣告通り、この日から変わっていった。
こういう事もあり、入浴は無理だとは予測はしていた。
一応、何かあっても承知の上で入浴するか、やめるか選択肢を作ってくれた。
自分達の答えは、入浴をやめ、父親をゆっくり休ませることだった。
中には、最期にと入浴する家族さんもいるようだ。
こういう状況でも来てくれたこと、一緒に考えてくれたこと、バイタルを計ってくれた事、ケアマネさんが手配してくれた事にも感謝だった。
ただ、ケアマネさんに入浴を相談したタイミングが遅かったかな〜?
と反省、後悔も父親の性格考えたら仕方ないタイミングだったかと。。。







『最期が近づく』
とうとう水分を摂らずに1日以上が経った。
熱も上がったり下がったり、そのうち、目の焦点が合わなくなり、目を見開いたような状態。
更に、脳梗塞を起こしたような、右腕の硬直は全くなくなり、脱力状態。両脚も。首も座らない状態にもなってしまった。
見開いていた目は半目だったり、目の周りが赤くしてる、かぶれているような感じ、目やにのような目に膜があるようになっていく。
昏睡ではなく、たまに応えてくれるような様子もみえるも、殆ど話せない状態になってしまった。
こういう状況をただただ見ていられなかったせいか、私と母親は、暗黙の了解のように、髭剃りをしたり、断髪したりしてた。
この時、熱発してたのに2人して、父親が動けない事をいい事に24時近くまでやってたな(笑)
もしかしたら、これが悪かったのかもしれないけど、何もせずにはいられなかったと思う。私も母親も。

そうそう、この日の朝は弟が急遽駆けつけ、仕事へ行くギリギリまではいた。
話せない、自己体交が全く出来ない状態でも弟の存在は分かるようだった。
弟や母親には反応はあったりも私には全くそんな素振りは見えなかった。当たり前だけど。
弟が帰るとなった時、無呼吸状態になり、一瞬、止まった?とびっくりしたが、一時的な事だった。
弟が帰ってしまうのを止めたのかな?って思ってしまった。
この無呼吸が少しずつ夜が近づくにつれ、回数が増えていった。







『私は最期まで変わらずだった』
私はこんな状況でも変わらず、父親の意識がなくなる直前まで、父親には何1つ優しい言葉は全くなし。
傷つけることばかり言っていたし、笑顔もない。排泄、水分は殆ど私でそれ以外は何もなく、弟みたいに意識のあるうち、手を握るなんてこともしなかった。
父親も怒りながらも右向きに横になった姿は寂しそうだった。

私の名前を何回も何回も呼ぶも口癖になっていてただ言ってるだけだった。
都合良く呼んで、最終的には母親を呼ぶ。
「起こしてー起こしてー」
のこの言葉も口癖だった。分かってた。
たいがい、スルーしていたが、意識があった最期の朝は、無理やり起こし、座らせたりといつも通りのやり取りだった。
起きれる訳がないと思いつつも、起きる気があるなら、(最期に)起こしたいという気持ちがあったけど、そんなの言い訳で、そこに愛情はなかったから、最期の最期まで辛い想いをさせたまま逝かせてしまった。







『少しずつ』
父親の呼吸はヒックヒックと大きい時もあり、今思えば、一生懸命、呼吸してたのかもしれない。
数秒間無呼吸になる。
また呼吸が始まる。
これが夜まで続き、間隔がいくらか短くなっていたようにも思える。
弟が帰った後から、左指先が紫色に。
両脚は数日前から紫だったから、たまに母親が温かくしてた。
私は左の指先を出来るだけ下げないようマッサージしたりするが、すぐ紫になる。
水分を摂らなくなり、排尿もなくなり間隔も長くなっていく。排便はたまにある。
右のお腹の膨らみが段々と目立つようになっていく。
気のせいか、陰部のとこもパンパンに腫れているようにも見える。
ずっと頻尿で少量ながらも1時間に1回、排尿していたのが排尿が止まってしまい、表情は見えないも体は辛そうにみえた。

    






『エゴ』
父親の為にとやっていた事が、
「余計なお世話なんだよむかっやりたきゃ他でやれむかっ
と言われた事もあった。

脂肪がなく骨と皮だけのような父親の体。
父親が歩こうするも右脚が上がりにくくなり、右脚、人差し指に擦り傷ができていたり、右に寝返りの際に手や脚が壁に当たったりで擦り傷が絶えずにいた。
壁に当たらんよう、使わん布団を壁に置いたりと対策してもズレてしまったりだった。
頻尿のせいか、ズボンの中に手を入れる際に自分のお腹を引っ掻いたりとその傷も段々、赤くしてきてた。

自己体交が出来なくなり、そのまま寝ていると褥瘡、床擦れはすぐ出来るような状態だから、せめて床擦れだけは新たに作らせないよう、少しでも綺麗な体でいてもらいたいと、2時間に1回くらいの体交をするようにしていた。
それに排尿もなかったし、排便はたまにあるから、なるべく負担がないよう排泄チェックもしていた。
排泄したままいるのも気持ち悪いと思ったから。
けど、これは私の考えで父親は全くこんな事を望んでなかったかもしれない。

少しでも体が綺麗に傷が出来ないようになんて思っていたけど、父親にとってはそんなことどーでも良くて、生きたいだけだったはず。
父親の為にやってきた事は私の単なるエゴだったのかもしれない。










『誕生日を迎え、永い眠りへ』
2時間に1回、もしくは2時間内に1回のペースで体交していても、仙骨のあたりは真っ赤。
こんなにも赤くなるとは。。。
こんなこともあり、床擦れできんよう体交していたが、やはり父親にはキツかったんだろう。
父親が良く向いていた右側に体交した。
呼吸の感じが変わり、細い呼吸になる。
体交がキツイのかと体の向きを緩めたり頭の位置だったり調整する。
無呼吸、また再開。
この無呼吸の間隔が更に短く感じる。
自分の誕生日を迎え、2時間が経った頃だったか、喉の動きが上がったり下がったりと唾を飲みきれない様子な感じ。
また無呼吸。
長い。
頸動脈は動いている。
呼吸がまた再開する気配がないくらい長く止まったまま。
母親は少し過眠し、起きたばかり時だった。
母親を動揺させないよう呼び、呼吸が止まった事を伝える。
呼吸は止まってはいるけど、寝ているような表情。
頸動脈は段々と弱々しくなる。
しっかり見てないと分からないくらいになり、ゆっくりゆっくりと頸動脈は動かなくなった。
それを確認してから、訪問看護に連絡。






『あともうちょっとだから』
父親は以前、
「あともうちょっとだから」
「あともうちょっとだから、頑張っぺ」
とこんな発言があった。
今思えば、「あともう少し」っていつまで?と思ったりしていたが、自分の誕生日だったのかもしれない。
自分の誕生日までは生きる、頑張る。
という意味合いだったのかなぁ〜。

もう長くはない、誕生日まで弟が帰ってくるまで持つかくらいな状態ではあったとは思っていた。床擦れ覚悟でそのまま、体交せずに体力温存させていたら弟と母親とももう少し意識があった状態でお別れさせてあげられたかもしれない。

こうも考えられた。
母親が過眠から覚めるのを待って父親は息を引き取ったんかな???
母親が過眠から覚め、水を飲みに行っていた中、呼吸が止まったから、ふと思った。
都合良く考えただけかな。






何も出来ず、見てるだけ。
何も出来なかった。
息が苦しくて、苦しくて・・・という感じはなく、寝ている延長だった。
声をかけられず、最期の首の脈が止まるまでをただ見てるだけだった。


気力だけの1ヶ月半。
私が余計な事をしなければ、もう少し、ゆったりゆっくり逝けたのかなぁ〜。