序章   神の放物線

 

 

 

 

「左内! あんたそんなとこで何しちょるん」

 中央棟の二階屋上テラスに、女生徒の甲高い声が響き渡る。

 まるで、山の天辺から叫んでいるような、人目をはばからない大声だ。

 これには、さすがの矢儀恭介も、分厚い本から顔を上げた。

 同じテーブルを囲む二人の部員は、すでに部室の窓の外に目が釘付けになっている。おそらく、本など読んでいなかったに違いない。

(ったく、何なんだ、いったい)

 矢儀が諦めの体で、視線を窓の外に向ける間にも、けたたましい叫び声は続く。

「もう、部活、始まっちょるやろ。早く行かんにゃあ、牛見先生に怒られるよ」

 テラスにいる生徒たちが皆、好奇の目で、隣の教室棟を見上げている。

 声の主と思われる女生徒は、三階の教室の窓から大きく身を乗り出していた。

 薄い西日に照らされた横顔が、妙に艶めかしい。長い髪を掻き上げる姿といい、とても中学生には見えない子だ。

 

 

 珍しく矢儀が女の子に気を取られていると、テラスから投げやりな返事がある。

「掃除が長引いたんで。すぐ行きますって」

「左内」と呼び捨てにされた男子生徒は、テラスの真ん中で、三人の女の子たちと立ち話をしていた。振り返った横顔が、見るからに迷惑そうだ。

 一緒にいる女の子たちは、一様に顔を見合わせ、微苦笑する。

 すぐに行くと言いながら、左内は再び女の子たちと話に興じ、その場を立ち去る様子はなかった。

「ちょっとぉ!何、無視するん。人の話聞いちょるん?」

「おお、女の嫉妬は怖い、怖い」

 傍らで兼行理玖が整った唇を歪ませ、下品に笑う。

 女生徒の声は、ますますエスカレートしていった。

「もう! じゃあ、そこで待っちょき。首根っこ捕まえてでも、あんたをグランドに連れて行くけぇ!」

 怒りに任せた大声を上げるや、女生徒は腹ぐらいの高さの窓枠によじ登る。

 皆が呆気にとられた。

「何してるんですかね。まさか、テラスに飛び移る気とか?」

 テーブルの向かいに座る織田村渉が、視線はそのままに問うて来る。緊迫感の欠片もない言いようだ。

 しかし、それは、織田村に限ったことではない。

 女生徒を遠巻きに眺めている誰もが、少しも慌てていなかった。

 それどころか、どこか白けた雰囲気さえ漂っている。

 皆、女生徒の奇行をパフォーマンスだと思っているのだ。

 矢儀も同感だった。

 だいたい、隣接しているとはいえ、建物と建物の間は、七~八メートル近くは開いている。加えて、三階から二階という高低差もある。

 どう考えても、飛び移れるわけがなかった。

 女生徒は窓枠に手を掛けると、ゆらゆらと立ち上がった。

 結構な高さがあるだろうに、まるで怖がる様子がない。

 一直線にテラスを見下ろし、口元にはわずかな笑みが浮かんでいる。

 矢儀は不意に全身の毛が逆立つの感じた。尋常ではない。

(まさか、本当に飛ぶ気じゃ――――)

 その時、「せえの」と、女生徒の掛け声が聞こえた気がした。

 細い足が窓枠を蹴る。華奢な身体が宙に舞う。

 近くで誰かが息を呑んだ。

 当然、まるで届かない。空中に描かれた放物線は、絶望的に短かった。

 女生徒はテラスの遙か手前で落ちていく。

 届かなかった細い指が、空を掻き毟りながら、建物の間に消えていった。