常識とは何なのか。
意味的な側面で言うと、健全な一般人が共通に持っているまたは持つべき、普通の知識や配慮のことであるが、果たしてそのようなものが本当に存在しているのだろうか。
他者と関わっていると、「あの人は常識人である」とか、逆に「あの人は常識がない」と耳にすることがある。ここで言う常識とは一体何なのだろうかと、度々疑問に思う。
例えば、何かをしてもらってありがとうと人に礼を言う行動は、私個人の意見としては常識であると言える。これは相手がわざわざ時間を割いたり、行動思考して私に恩恵を齎してくれているのだから、感謝の意を表すことは当然であると考えるからだ。ただ、ここでひとつ言えることは、あくまでも「個人の見解である」という事だ。
この世には溢れんばかりに人間が存在している、その人間には1つずつ考える頭が備わっており、その頭で考える事は人それぞれに違いがある。つまり、私が考えていることは必ずしも相手が同様に考えているわけではないし、かえって考えていないわけでもないのである。言い換えると、同じ意見を持つ人間、持たぬ人間の両方がこの世に存在しているということだ。
要するに、私が前述した通り、何かをしてもらってありがとうと感謝をする人もいれば、感謝をしない人間もいるからであろう。
そうした時に考えるのは、自分が想像していない世界を否定してはいけないということだ。何かをしてもらって当たり前に感謝をする人間からすれば、感謝をしない人間の考えていることは全く理解ができない。現に私がそうであるからだ。しかしながら、感謝をしない人間には自身の考え、自論が必ずあるはずだろうから、その人の意見を自分の持っている定規で計って、自分中心の考えで私は常識がある、あの人には常識がないと、レッテルを貼るのはダメだという事が言いたいのだ。
私が生きてきた中で、「常識が〜」「非常識なやつは〜」と宣う人間は、往々にして自分勝手で破滅的な思想を持っているものが多かった。自分の常識が世界のルールであると、どこかで履き違えているような人間だ。
自分の常識なんて、相手からすればただの杓子定規でしかない。ゆえに、自分と相手とで、考え方という定規の目盛りを合わせていく必要がある。
上述した文章を理解できない人間に、警鐘を鳴らすべく、きつい物言いで述べるとすれば、あなた達は、人様を測れるほど、優れた人間ではありませんよと言いたい。
自分が常識と思っているものは、他の人にとって常識とは限らない。自分だけが正義である世界線で生きていればそれはさぞかし楽しい人生を歩むことが出来るでしょう。が、現実はそうなま優しくはない。井の中の蛙大海を知らずという言葉があるが、大海の荒波にもまれた途端に自分の常識は大きく覆され、自分の愚かさに気づく時がかならず来るのだ。

常識とはあくまでも、個人の領域の範囲で通用するルールであり、自分以外の人間全てが所有しているため、その領域の幅というのは個々にして違いがあるということである。つまり、自分が正しいと思っていても、相手からすれば正しくないと是正されてしまう事があるかもしれないということだ。このような場合、私は相手の意見を取り入れた上で答えを出すようにしている。例えば、私の意見が絶対に正しい自分至上主義で押し通してしまうと、やはり大海を知らない蛙になり得てしまう。逆に相手の意見が全て正しいとしてしまうと、相手の意見を同機してしまうだけの、奴隷に成りかねない。
つまるところ、自分の意見に相手の意見とを考慮した上で最適解を出すことが、正しいのではないかと考えるのだ。ここで正しいのではないか、と婉曲的な表現を用いるのは、正しいと言い切ってしまうと、私自身が大海を知らぬ井の中の蛙ということになってしまい、論理が破綻してしまう恐れがあるからだ。この意見に対して私とは違う考えを持つ人間も当然にしているに違いない。だからあえて、言い切りの形ではなく、保険をかけるような表現を用いたのだ。

常識は常々に、個人の行動の理由として用いられる。他人の行動が理解できない、といった悩みの根底には、他人の考えが理解出来ていないことがあり、その考えは人間の個人的なルールである「常識」に基づいて構成される。良好な人間関係を保つには、その「常識」の違いを互いに認識して、最適解を出すことが望ましいのではないだろうか。