2011年11月3日 (木) 晴れ
いい天気が続くパラグアイ南部。
気温は午後2時~3時ころ30℃くらいで、午前中は涼しささえ感じます。
雨の前の猛烈な暑さと湿気が来ない所を見るとまだ晴は続くかな?
Sanatorioは今日も穏やかな一日
婦人健診も数人。
日中は閑古鳥が鳴いてました。
時間外の夜になっての患者さんの方が多かったような気さえします。
最近デカい外傷も来ないな~
(こういうこと口にしたら「来る」と昔からよく言いますが・・・
)
昨日の日記で我が家の5人目を発表し、FBでもいろいろな方にお祝いの言葉などを頂きました。
ありがとうございます。
「子供は出てくるまで何があるか分からない」
と思っていますが、2月末の出産予定日近くまで妻に頑張って、もたせてもらい、妻・家族に専門の仕事で役立つことができる数少ない機会を、家族で乗り越えられるように頑張らねば
って心境です
そんな皆さんからのメッセージの中に、私の札幌の救急研修時代の大先輩K先生から、私の「パラグアイでの出生について」のご質問を頂いたのですが、これだけブログ書いてるのにあまり書いてこなかったことに気づきまして、今日はそこんとこ振り返ってみます・・・
まずはLa.の歴史。
入植がはじまったのは1955年。
高度経済成長前の人口増加著しい日本の国策の一つで、パラグアイへの移民政策が始まりました。(日本の余剰人口抑制策と考えられています)
日本の海外移住振興会社(後で海外移住事業団・国際協力事業団やJICAに変わっていく)が原始林を買い上げ、移住者に土地を割り振っていくという方法で入植したそうです。
1962年(昭和37年)移住者の健康管理を主な目的として、La.に我らが診療所が創設されました。
当時は電気も道も水道もないすさまじい環境だったそうです。
1972年の6月、このSanatorioの4代目医師として赴任したのが私の父でした。
ちょうど父が医者になったころは日本では学生紛争真っ盛り。
医局制度や大学制度自体に閉塞感があって、インターンを終了してすぐに、海外移住事業団の協力隊員としてここパラグアイに派遣になりました。
当時26-27歳だった父ですが、「よく来たもんだ」というのが私の率直な感想。
(日本で姉が生まれていたので、姉は生後7か月でパラグアイに来たんだな~。母もよくついてきたもんです
)
1973年1月に私が出生。
私の場合は「種付け日本、収穫パラグアイ」だったという事になります
1974年4月に妹が生まれる前にの73年12月、派遣終了を少し早めた家族とともに日本へ行きました。
そして36年間日本にいて、24で大学を卒業した時にルーツをたどる旅行で初めてパラグアイに来た時、途上国の医療に携わりたいと思って、あっという間の研修医~若医者時代でした。
2010年6月末、多くの人達の援助があって、37歳で希望していたここパラグアイの
La.診療所で働くことができたという訳です。
こんなご縁のあるパラグアイで自分の子どもを授かるのもより強い「力」みたいなものも感じます。
事がうまくいくように、ゆっくりのんびり努力とお祈り・・・

ちなみに今の発展からは考えられないようなパラグアイの移住者達の苦労の歴史は↓のパラグアイ日本人連合会のHPで見れます
よかったらどうぞ