第八十章 
めぐり来るは、春
 
イメージ 1
 
 
清時有味是漁舟
水宿生涯伴白鴎
蒲葉芦花半雫落
一竿帯雨暮江秋 
  
太平の世に面白味のあるものは漁舟である。
水辺で生涯を過ごし、白いカモメを伴侶とする。
がまの葉や芦の花が、もう半分枯れている。
夕暮れの川、しぐれ降る中で、一本の竿で釣りをしている。
釣り人を詠んだ漢詩である。
釣り師は、遠い昔から自分の釣りのことだけを考えていれば良かった。
自分自身の求める世界にどっぷりとひたって、喜びを感じていれば良かった。
アユ釣り師も、磯釣り師も、渓流釣り師も、ヘラブナ釣り師も、船釣り愛好家も、自分をとりまく釣りと、その周辺のことだけに気を配っていれば、釣りの楽しみの中に身をおくことの幸せを感じ、味わうことができた。
ときに荒れ狂う自然の猛威にさらされたとしても、宮沢賢治のように首をすくめて、オロオロしてさえいれば、それで良かった。 
山も、森も、田畑も、海も、河も、そして釣りも、人間の暮らしは、やがて元の姿にもどったし、時間をかけさえすれば、何もかもとりもどすことが可能であった。
ところがである。
このごろの自然現象ときたら、とりかえしのつかないほどたけり狂って、ぼくたち人間の前に立ちはだかってくれるのだ。
山川草木をめでながら、ゆったりとした心持ちで釣りを楽しむことさえ危ういのではないか、とさえ感じてしまうのだ。
なぜ、そうなってしまったのか。
ぼくたち人間は、直感でいまを理解しているのです。
地球上の生き物たちは、長い年月を経て、自然や環境の変化に適応しながら進化し続けてきた。
だからこそ、今日まで生存してこられたのである。
その中で人間だけが、地球上の環境を操作してしまった。
自然とは、絶妙のバランスシートの上になりたっているということに、とうに気づいているはずなのに、地球が、自然が、人間社会に警鐘を鳴らしているにちがいないにも関わらず、今日までそのことの重大さを無視してしまった。
 
2014.1. ナチュラリスト トラウト卿より
第七十九章 
釣キチ列伝~AM釣行隊 隊長
 
イメージ 1
 
 
以前 第18章にて~なぜ趣味が釣りなの と言うページを作成時に以下の投稿を頂きました。
釣りは小学生の頃にやっていて、その時は今で言う”趣味”とはちょっと違って「生物を捕獲して遊ぶ」という、いわゆる”遊びの手段の一つ”に過ぎなかったような気がします。
社会人になった頃から、その頃の感覚を思い出していざやってみると、これは当初の”遊び”から”楽しみ”に変わっていました。
しばらくはアウトドアの一環として「魚を自ら捕獲して食す」という人間本来の持つ本能的なものを叶える為の”楽しみ”だったのかも知れません。
趣味とは、継続的に行う自分の楽しみだと思います。しかし、単に食す為の楽しみだけなら、継続する楽しみにはなり得なかったでしょう。
何故なら釣りはそれ自体、食料の糧を得る手段としてはあまりのも非効率的なものだからです。
要するに、その非効率さが徐々に「釣る事」自体を楽しみに変えていったような気がします。
釣りは網等で一網打尽にして捕獲する事に比べ、過程が多く、道具の研究や自然の動態の把握、そして自然と親しみ、時にはレジャーをオプションにしたりなど、各所に楽しみが散りばめられています。
そのどこの過程に楽しみ(趣味性)を感じるかは、人それぞれでしょうね。
と投稿を頂いた事が有りました。
AM釣行隊の銘々理由が、必見でありまして~
釣行はいつも午前中(AM)・・・だから行きも帰りも道はスイスイ渋滞知らずっ♪で釣りを楽しんでいる、爽やかな釣キチです。
彼との出会いは、箱根の芦ノ湖でして、たまたま、ボート屋さんが同じで、レイクトローリングと云う、マイナーな釣にハマッタ者同士という出会いでした。
釣りのジャンルは幅広く、海、川、湖と何でもこなす、オールラウンダーで、その釣に関する知識は常に科学的根拠の上に成り立ち、その釣理論に学ぶ事が多い。
今年(2013年)は芦ノ湖で大物サクラマスをゲットするなど、その釣キチ魂は衰えていない。
2013.12. 良い時期に良い場所で~KFT会長
第七十八章 
朋あり遠方より来る、また楽しからずや
 
イメージ 1
 
心の友と呼べるような親友が遠くから訪ねてきてくれるのは、たいへん増しく楽しいものです。
特に同好の志を持つ者が集まってくることは人生を豊かにします。
イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 5
イメージ 2
 
多くの友人があっても、趣味が一致しているとか、おなじ志で一筋に生きている人と掛合うチャンスは稀であり、折角出合いがあっても、いろいろの事情で、遠隔の地に住まなければならないことも少なくありません。
そのような遠い場所から訪ねて来た親友と久しぶりに近況を報告し合ったり、意見を交換したりするのは、人生の大きな楽しみであると同時に、人生そのものを豊かなものにします。
 
2013.11. ナチュラリスト トラウト卿より
第七十七章 
消えた釣り文化
 
イメージ 1
 
日本人のしっとりとした、美しい釣りの風景が消えてしまったのは、いつ頃からだろうか。
テレビというマスメディアの中で、ろくに釣りのマナーも知らぬ、軽薄きわまりないお笑い芸能人たちが、大型の釣り船を貸し切って、小魚を一匹釣りあげるたびに、ワイワイ、ガヤガヤと騒ぎたてている映像が映しだされていた。
いちばん数を釣りあげた者が、優勝だとか、ビリだとか、罰ゲームがあるとかないとか、騒いでいるのである。
釣りというものを、あんなふうに薄っぺらにあつかう有名タレントだか、プロデューサーだか、誰だか知らないが、「いいかげんにしてもらいたい!」と言いたいのだ。
あれはどう見たって、釣り文化というものを踏みにじっている以外の何ものでもないと思っている。
そう、知性のかけらも感じられないからである。
いったい、釣りをなんだと心得ているのだろう。
ほかの釣り番組も大同小異である。
何かといえば釣果、釣果。
海、山、川、湖とフィールドが違っていても、どこで釣りをしていても、その内容や切り口はほとんど同じだ。
いかに大物を釣るか、数を釣るか、である。
 
釣果というものは、釣りの楽しみに、結果として、おまけとしてついてくるだけのことなのである。
釣果にかたよればかたよるだけ、ただ魚を殺すだけの殺生競技になってしまう。
つまり、釣果を求めれば求めるほど、本来の釣りの姿から、かけ離れていくだけなのだということを深く認識すべきなのです。
だから釣果など、どうでもいいことだと知ってほしいのです。
釣りとは、大きな海に小さな船を浮かべ、探りようもない何かを相手とし、一本の釣り糸を通して、自分の心の奥底を見つめるのである。
イメージ 2
 
イメージ 3
 
イメージ 4
あるいは、山川草木をめでながら、夕暮れせまり、また、しぐれ降る中で釣り糸をたれることができることを、この上ない喜びとするものなのです。
そのような、日常では感知できない世界に、我が身をおくことこそが至上であり、それこそが釣りの世界であると考えるべきなのだ。
 
2013.10. ナチュラリスト トラウト卿より
第七十六章 
良い時期に良い場所で~
 
イメージ 1
 
 
 おいらの信じる釣りの奥義~第68章”釣りはアングル”を掲載し、第72章”小は大を兼ねる”を、第75章”殺気を消す”を掲載したところですが、おいらの信じる究極は~
良い時期に良い場所で~これは、2000年8月20日、今から13年前に発信した、Keywordである。
同時期時に、その時・その場所の季節感溢れる自然を、記録したお写真を掲載した、Photo Galleryも掲載始めた。
このKeywordは、読んでのとおり、時期と場所が良ければ良い釣りが出来ると言うことで有り、イイジキでは無くイイトキと読んで頂きたいと思う次第で、なぜなら、1月に鮎は釣れないように釣季は重要でありますが、夕マズメやアサマズメなんて云う時合いという意味も含んでいまして、また刹那というような瞬間的な時間も合わさっているのです、自分でも思うのですが、とても意味が深い事になっていると思います。
 おいら言い出した過程~
 1997年11月1日に、おいらがホームページを立ち上げた、理由の一つが釣り場に到着すると”先週は良かったんだが、昨日は駄目でねぇ~もっと良い時に来なよ”とか言われると、これから始める釣り支度最中の釣人には、やる気が失せる事であったし、遠征釣行には、この様な状況は少なく無かった、そんな時に、実釣で得たInformationを次回の釣行に活用することを思い付き、それからは、釣行時にInformation(気象、仕掛、ポイント等釣りに関する事)の収集を始め釣行を重ね、有る程度の蓄積はあった。
(この中にはヒット時の、季節、時間、気象、水温、GPSによるポイント詳細、が含まれる)
ここまで、収集でヒット時間も一定の時間があることに気がついた、だからイイジキなのです
そして、これらのInformationを次回の釣行に活用していく事となるが、季節は毎年同じように繰り返されている様には見えるが、実はこれが毎年微妙に変わるのだ、現実には過去のInformationを参考にしても当てはまらない事が多々ある、つまりは同じ年は二度と来ないのであった。
ここに至、一期一会という言葉を思い出した。
一期一会とは、”この出会いは、二度と巡っては来ないかも知れない、だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしする”と言う意味で茶道の、いや日本人的な心得である。
同じ年は二度と来ないと云う、現実に直面したとき、おいらは過去の結果はあくまで参考までにとどめて、自らの引き出しから現状に合致したInformation を取り出し、臨機に使える事の方が釣りや漁、いわゆる一次産業に適したMethodでは無いかなと考えるようになっていた。
さらに、記憶をたどると
 1986年6月14日、場所は奥日光の中禅寺湖西側にて~
この日は中禅寺湖特別解禁で、当時は中禅寺湖西側半分の禁漁区が6月の第2週に2日だけ解禁されていた~
日が西の山陰に落ち、夕闇が迫り始める頃・・辺りは静まり、おいらとK氏以外の釣り人は誰もいなかった
おいらとK氏は二人並んで、大岩の上にアグラをかきロールキャストで超至近距離にフライを湖面に浮かべていた・・
フライはパラシュート#8で、おいらとK氏のフライの距離は約1mも無い距離であった、
そんな状況下で二人は湖岸の岩と同化していたのである、するとゴボ・ゴボ・と言う音と共にライズが始まりだした。
そして、そのライズが近づいて来たから、もう心臓はバクバクもの・・・辺りが静寂と暗闇に包まれた瞬間、その静寂を打ち破り・・
ゴボ・バシャ・バシャと水面が炸裂して、K氏のフライに50cm程のブラウンがヒットしたのであった。
ほんの一瞬であったが、おいらのフライではなく、ブラウンはK氏のフライを選んだのであった。
おいらは、この時の事を思い出すたび、一期一会を感じずにはいられない。
 また、この話と似たような話しだが、同じく中禅寺湖で知り合った、地元の方は”ホンマスは出会い”だと云った
Informationも必要だが、やはり一期一会が重要なのだと云う思いに至った訳であるけれど、この解釈は、釣り人や漁師、農家等それぞれのSituationにより様々であると思う。
 さて、火水木金の法則と云うのをご存じか、釣り場にもよるが土日は釣り人が多く、FisingPressureがより多く魚に掛かる、それは月曜日まで影響し、そのプレッシャーから火水木金が解放されると云う意味である。水木金と言う人もいる
これは、良い時期に良い場所で~において、最も重要な事なのだが、人が多ければ場所は荒れる、これは、今まで見てきた多くの釣り場がそうで有るように、人が多く来ると言うことは、有る意味良いことかも知れない、しかし、訪問者を選べないと云うこと、すべての訪問者に該当はしないだろうが、一部の人はゴミのポイ捨て、そして前章の殺気を消すにも該当するが、ウェーダーを履いたからといって、腰まで入って釣りをすれば魚を逃がしてしまったり、或いは警戒させる事に成りかねない、出来れば水に入らないで釣りを行うのが最善であるが、前出の様に殺気を消せない人が多くいるのも事実で、その様な釣り人が多い場合も良い時期良い場所では無い、また、釣人、漁師の乱獲により水産資源が減少しても同様である。
 不景気に成ると、釣りやギャンブルが流行ると云うたとえが有るように、釣り人口の増加に伴い、いろいろな意味で釣場環境を荒らす人が来るのである、つまりは、場所等の安易な公開はしないことも、良い場所を守る事に繋がるのでは無いかと信じているところである。
 以上の事により、良い時期に良い場所で~という、おいらなりの釣りのStanceが出来上がった。
良い環境に良い魚がいて、良い釣人達が集まる等、諸々良い条件が揃ったのが、良い時期であり、良い場所なのです。
これは、おいらが信じる釣りの秘奥義、また、良い釣キチとの再会も良い時期に良い場所で~♪となるわけです。
 そして、”第66章 良い時期に良い場所で~その隠された意味”も含んでいる。
 おだやかなることを学んでます~2013.08.28
 
2013.8. 良い時期に良い場所で~KFT会長
第七十五章 
殺気を消す
 
イメージ 1
 
釣や漁において一番重要な事は、人の気配を消すことにつきるのでは無いだろうかと云う結論に達して、既に、第70章の射程距離なる想いを掲載したところですが、おいらが思うに遠投はこの”気配を消す”のに必要な、一手段に他ならない。
人の気配を魚に感じさせない様にするために先ず思いつくのは、釣り人から距離を離す事で有るからである。
しかしながら、遠投にはそれなりの技量や釣具が必要となり、それに伴いテクニックを磨いたり、釣り具を用意すること自体は、釣りにおける楽しみの一つでは有るだろうが、釣りの楽しみをその一点に見いだすのは如何かと思う事がある。
それらは釣り具を販売する側のターゲットに成りかねないからで、それらを承知の上でのキャス練も釣りの楽しみの一つであろう、しかし、究極は超至近距離までの近づく事の方が難易度は高く、そのことを実行するには、太陽の位置や風向或いは草木や水から得た、Informationを漁師の勘と経験を持って望むこの一点に絞られる。
また、釣るぞ~というような、殺気の丸出しや釣って食うぞと言うような欲望を消しさり、無心でいることも重要な事で、無心に成ることによりいろいろな事が、釣り場で見えてくるから面白い・・・まさに自然と同化することである。
そんな時は、とても穏やかでいられるのだから~不思議である
穏やかなることを学んでます~
 
2013.8. 良い時期に良い場所で~KFT会長
第七十四章 
自然体
 
イメージ 1
 
私が通っている床屋の御主人のKさんは、仕事が休みの日は、気心知れた何人かの仲間と一緒に釣りに出掛けることを楽しみにしている。
Kさんは、還暦を過ぎたあたりか。
とにかく、いつお会いしても柔和でもの静か、終始にこにこ穏やかである。
そのKさんに頭をいじってもらいながら、釣りの四方山話のできる時間が私はとても心地よく、落ちつける。
必要以上の力みや気負いがなく、自然体の姿勢というか、その話ぶりに、つい引き込まれてしまうのが常である。
ある時、Kさんの口から「釣りに一緒に行く仲間は、いつも横一線でなくちゃあね」と、私にとって実に重い言葉が飛び出したことがあった。
その言葉に思いあたる節があって、私は思わず膝をのり出した。
そうなのだ。
さらに、K
さんの
「釣りに限ったことではないけれど、趣味の世界には、会社や世間での人間の上下関係、あるいは、その利害を持ち込んではいけない。
心の背広を脱いで、ネクタイをはずして、体ひとつで釣りの仲間とつき合う気持ちが大切なのだ」
という言葉に、思わず頭をたれてしまったことがあった。
そういう言葉が、違和感もなく、押しつけがましくもなく、スーッと出てしまうところがKさんらしいと思った。
 
イメージ 2
 
2013.7. ナチュラリスト トラウト卿より

第七十三章 
迷路
 
イメージ 1
 
長い年月をかけて、一つひとつ築きあげてきたはずなのに、釣りの価値観というものはときとして、いとも簡単に打ち砕かれてしまうことがある。
それが一度や二度ならともかく、忘れた頃に必ず、その迷路の入口に立ってしまうのである。
「そんなバカな!?」と思ってみても、事実なのだからどうしようもない。
私のフライ歴は、ここまでくるのに三十五年以上も経過している。
気がつけば頭は白いものがほとんどを占めているというのに。
その日もそうだった。
私が夕まずめのいっときを狙って、いつものお気に入りポイントに向かう途中にある。
小さなワンドの入口のところに、その青年はいつものように立って、ロッドを振っていた。
いかにもフライマンと、ひと目でそれとわかるいでたちではなく、ごく普通の作業服に帽子と長靴である。
足元にはデイパックと文庫本くらいの大きさのフライケースが置いてある。
その青年と私は、会うたびに、どちらからともなく声をかけ合うようになっていた。
「やあ、こんにちは。どうですか?」
「うん、まあまあのが一匹……」
見れば、青年の足元の水辺には、八百屋さんの店先でよく見かける玉ねぎ入れの赤いアミの袋の中に、四十センチくらいの良型の戻りヤマメが一匹入っているではないか。
その戻りヤマメがバシャバシャと水音をたてて、ときどき暴れている。
「いいサイズですネ」と声をかけて、ぼくはいつものポイントのほうに歩きながら、
「あの青年なかなかやるではないか。たしか先週も、グッドなサイズの戻りヤマメを釣っていたはずだ」
と思い出し、いつものポイントに立ってロッドを振る。
 
「ビュッ」と音を立て、フライが夕まづめの鬼怒川の中央めがけ飛んでゆく。
フライフィッシング歴三十五年のぼくの場合、キャストした距離が17mとすると、単純計算で、50㎝引いてくるのに一年かかっていることになる。
この17mの距離の中に、三十五年間の釣り人生が凝縮されているのだ。
釣りは中身が濃いのです。
その動きに眩惑され、魚がフライに食いついてくれればしめたものだ。
さらにフライの種類やサイズを変えていくのは当然である。
そのうえで天候、時間、気温、水温という条件が加わってくる。
そう考えると、無限のバリエーションが生まれることになる。
釣りは奥が深いのです。
夢中で釣っているうちに、三十五年が過ぎてしまった。
ましてや、あの青年などに、今日までの私の努力と苦悩と、孤独と恍惚と、悲しみがわかるはずなどありゃあしない、と思う。
ところが、なぜか小一時間ほど釣ってはみたものの、私に釣れてくるのは外道のウグイばかりだった。
日も暮れてきたので、今日はこれくらいまでにして、と釣りを切り上げ、青年のところまで戻ってきた。
すると、青年が玉ねぎ袋を指差しながら「また、いいのが釣れましたヨ」というではないか。
指の先には、行きがけに見た奴よりひと回り以上も大きい戻りヤマメが、赤いアミ袋の中で動いているのだった。
どう見てもフライ歴の浅いシロウトに、またしてもやられてしまったのです。
青年は自分のフライケースを開け、自信たっぷりに
「ほら、こんなのでいくらでも釣れるのだヨ」と自慢のフライを私に見せてくれたのだ。
驚いたことに、なんとそのケースの中のすべてのフライは、黒いウイリーバッカーだったのだ。
それはお世辞にも、決して美しいものではなく、ましてや大型の戻りヤマメが興味を示すはずなどありようもない、と感じずにはいられなかった。
しかし、すべては結果である。
私は心の動揺を悟られまいと、必死に平静を装った。
いくら釣れるからといって、黒いウイリーバッカーは、私の美意識や感性、人格が許すはずがない、と心の中でつぶやいた。
が、家に帰ってからも、どうしてもあの黒いウイリーバッカーのことが気になってしかたがない。
気がつくと、本棚のずうーっと奥のほうにしまってある、古いフライが入ったケースを引っぱりだして、その中に黒いウイリーバッカーがないかと探している私がいたのである。
そうなのです、ある意味で、ぼくはシロウトの青年の軍門にくだったのであります。
人間は謙虚にならなければ進歩がない。
こうして、またしても釣りの迷路にはまってしまったようです。
 
イメージ 2
 
2013.6. ナチュラリスト トラウト卿より

第七十二章 小は大を兼ねる
 
イメージ 2
 
一般的には、大は小を兼ねると言いその意味はするところは~
大きいものは小さいものの代用として使える、つまりは、小さいものより大きいもののほうが使い道が広く役に立つということ、 なのだが・・釣りの場合はこの諺は当てはまらない。
自然界においては、ご存じのように弱肉強食、言わずとしれた、強いものが弱いものを食し、弱いものが強いものを食する事は通常あり得ない。
一般的な一対一関係において弱いものとは、自分より小さい者であることが多い。
また、補食される者は、捕食者より数が多いと云う事もいえるでしょう。
陸水(limnology)においては、最下層をなす者は、植物プランクトン→動物プランクトン→水棲昆虫、甲殻類、→稚魚→小魚→中魚→大魚と、例の食物連鎖が思い浮かびます。
このことを釣りに当てはめると、水棲昆虫、甲殻類を疑似したものにAdvantageであるだろう・・。
また、食欲とは別の攻撃性からも針(ルアーやフライ)にアタックもします。
この場合も手は使えないから口を使うはずですよね。
自分より大きいモノは怖がって攻撃しません。
だから、多数の魚の口に入るサイズであるのが確率の高い物だと推測される。
つまり小は大を兼ねると言う結論になります・・・。
釣りにおいてはこの確率論を重視していくのが一番手堅い。
 
*話はそれるが、お国柄アメリカ的には、良くない物を削除していくのだそうで、日本的には良い物だけを選ぶと云う手法と、対照的なのが面白い。
だが、結果は同じ方向に向かうという事だろうか。
 
さてここで、ニジマスを例に挙げると、個体差なのか口の大きいタイプと口の小さいタイプのニジマスが混在する。
これは、大雑把なとらえ方では有るが、同じ種の中にも、個体差が有るのである。
さらには、魚食性の強い個体から、水棲昆虫食性の強い奴までいる。
大物狙いの釣り人は小さい魚は要らないから、でかいミノーをチョイスすると云うが、釣りの確率論から行くとそのことが、最適な選択とは限らないのである。
ただし、小がすべて良いというわけではなく、大でも捕食性より攻撃性から、或いは視認性が良いので、ヒットすることもあり得るから釣りは面白いのである。
 
昔の人は言いました・・
最良の仕事の日よりも最悪の釣りの日の方が、まだマシであり、
釣りが仕事の妨げになるのなら、仕事の方をあきらめて、
釣り竿には一方の端に釣り針を、他方の端に、馬鹿者をつけ、
釣りの話をする時は両手を縛っておき、おだやかなることを学び、
永遠に、幸せになりたかったら釣を覚えなさいと~
イメージ 1
 
2013.5. 良い時期に良い場所で~KFT会長
第七十一章
鬼手仏心
イメージ 1
 
ゲームフィッシングは、多くの釣り人を釣り場へと足を運ばせている。
しかし、魚を捌けない釣り人が多くなったのである。
昔から釣り人は料理が上手いのが取り柄で有ったが、魚は釣るけれど、”食べる魚は切り身魚を購入”という人々が多くなったのである。
俗に言う所の、”Catch&release”であり、おいらにもその様な思い入れが多少は存在するが、おいらの、子供の頃の記憶をたどると、必ずしもそうでは無いのである。
 
ここで、表題にある、文字通り”鬼の手に仏の心”の、意とすることは、医師の場合は、手術で体を切り開き鬼のように残酷に見えるが、患者を救いたい仏のような慈悲心に基づいているということ、痛いだろうなと、いたわる事無く体を切り開くこと、その内心には救いたいと言う仏の心があると
~トリアジなんかも同意であると思う、ただトリアジされる方は、我慢できないであろうが。
 
また、猟師においては猟場は神が支配する場所。
そして獲物は神からの授かり物であり、感謝の気持ちを持っていたこれらの命を奪うときにも、ためらい傷を残さない様に、スパッと一思いに切る事。
また、猟師は獲物を与えてくれた、自然への感謝の気持ちを懐き、引き金を引くこと・・等々、自分が生きるために、”命を頂きますの心”なのである。
最近目撃する光景ではあるが、”Catch&release”を念頭に魚が弱るまで、写真撮影をしてから、リリースされても、魚は息絶え絶えで、もとの生活には戻れそうもない。
それなら、最初から一思いにとなるであろう。
 
漁師も同じであった。
今は漁業協同組合が行っている増殖事業(産卵所造成)も、絶滅するまでの獲りすぎは慎む心が、人間も含めた自然の摂理である。
取り尽くしてはいけないと言う戒めを、実行しているのである。
そして、この言葉には、まだまだ意味があるように思う。
今は他人の子供を叱る事は、良くないとされる時代であるが、昔の大人は怖かった。
何かそそうをすると、直ぐに叱られたし、おいらはよく叱られたタイプで、悪ガキの代名詞とされていた。
そして、悪ガキは怒られた大人を、罵倒した。
・・でも、今ではそれが笑い話に成っている。
 
昔の大人には、鬼手仏心が有ったのだろう。
そして現代人が、この言葉の深い意味を忘れているのでは無いだろうか。
 
イメージ 2
 
2013.3. 良い時期に良い場所で~KFT会長